第四話 矢矧志貴①

 ◆

 時が止まったみたいだった。

 背後で続く動乱はちっとも止まないのに、もうそんなものは気にならないほどに黎は不思議な安堵あんどに包まれていた。

 だが、絶え間ない銃声に目の前の男は舌打ちをする。硝煙が濛々と立ち込める園内は視界が悪く何が起こっているのか把握ができない。


「逃げるぞ」


 男は黎の手を取って入り口とは反対の茂みの方に突っ込んだ。黎は小さな悲鳴を上げつつも、彼の背中を懸命に追う。木々の生えそろった植え込みは鬱蒼うっそうとしていて、通りからは認識されない。そんな道もないところをその男は躊躇なく突き進んでいく。


「待って……!」


 男は黎のことなどお構いなしにこちらを引きずって進むので、黎はたまらず声を上げた。葉枝のせいでワンピースの裾はほつれ、ふくらはぎに細かい傷がついていた。ようやくこちらの様子に気づいた男は黎の足元を見て少し狼狽ろうばいする。一瞬立ち止まって考えた後、男はいきなり黎の体に腕を回して肩に担ぎ上げた。


「きゃあ!」

「暴れないでくれ。少しの辛抱だ」


 男の声は淡々としていてそれが益々ますます恐怖をあおる。乱暴に担ぎ上げられることに困惑しながらも、黎は男の服を掴み必死に耐えた。茂みの奥にはびたフェンスが立っていた。こちら側は大通りの裏手にあたるところで、フェンスを越えた先には荒れた斜面しかない。碧軍はおろか、通行人の一人も見当たらない場所に、男は黎を抱えたまま易々やすやすとフェンスを飛び越えて降り立った。

 黎はもう脱力して考えることを放棄した。この男がどこに連れて行こうとしているのかは定かではないが、抵抗する気も起きなかった。

 男は木の乱雑にしげる急な斜面を器用に上っていく。頂上にあたる場所に到着すると、ようやく黎を降ろしてくれた。


「ここは……」


 眼前に広がるのは小さな集落だった。中央通りのようなきれいに舗装ほそうされている道路とは違い、砂利じゃりの敷かれた道路だった。建物も年季の入った木造家屋で、かわらがれた襤褸屋ぼろやのようなところもたくさんあった。集落は四方をぐるりと斜面で囲われ窪地のようなところに出来ている。遠くに帝都のシンボルである電波塔が見えた。ここは帝都の中心部からそう離れたところではない。


(帝都にこんな区画があったんだ……)


 ここは俗にいう貧民区画だ。帝都の街は人口が多い分、様々な階級層が暮らしている。公家である黎は華やかな繁華街の街並みしか知らない。ここは黎の知っている帝都とは違う。どこか暗く据えた匂いのするじめじめとした世界だ。


 男は黎の手を握ったまま無言で坂を降り始めた。舗装のされていない坂道を下ると、集落の入り口にたどり着く。すたれた集落の中は坂の上から見た時とは違い思いの外明るくて賑やかだった。建物はっ立て小屋みたいなものばかりで薄汚く今にも崩れてしまいそうなものばかり。路肩ろかたもゴミが溜まっていて決して綺麗とは言えない。それなのに人々の顔はとても明るかった。すれ違う人は皆り切れた着物を着ていて、顔も泥で汚れていたけれど、誰も辛そうな顔をしていない。


「――ん? お前、シンじゃないか?」


 軒先のきさきくつろいでいた老年の男性がこちらの姿を見て手を振った。目の前を歩いていた男は、ふとそちらを振り返る。すると近くにいた人々も働く手を止めてこちらに集まってきた。


「シンかぁ! おめえさんちょっと見ねえ間に随分でかくなったなぁ!」

「シン、シン。さっき饅頭まんじゅうが蒸しあがったんじゃ。お前さん好物じゃろ、食べていき」

「どうした、どうした。そんなおっかねえ顔して。そのお嬢さんは誰だ?」

「まさか恋人か?」

「おっ、あの堅物かたぶつのシンにもついに春が来たんかねぇ」

「本当か!? こりゃあ祝いをせにゃあな」


 黎たちの周りに町人たちが押し寄せて矢継やつばやに声をかけてくる。こちらの事などお構いなしの圧に、黎は思わず男の背に縋り付き身を隠した。

 男はその様子に無言でため息をつき米神こめかみむと、


「……伊地知いじちばあさんはいるか?」

「ああ、自分の家にいるよ」


 それだけ聞くと男は人込みをかき分けてまた歩を進めた。男に手を引かれ黎も共に囲いから抜け出す。後ろから男を呼ぶ声がするのに、目の前の男は一切耳をかさなかった。


「……シンさん?」


 だが、黎がつぶやくと男は――シンは驚いたように振り返った。ずっと怖い顔をしていた彼の眉間のしわが初めて消える。

 その顔は黎が思っているよりずっと若く、少し少年のような面立ちであった。だが、シンはすぐに平常の険しい顔に戻りそのまま先を急ぐ。こちらを振り返ることのない彼から黎は目を離すことができなかった。



 一番大きな通りを抜け小道に入ったところに、周囲と同じような古い一軒家があって、その軒先で一人の老女が小さな花壇に水をいていた。


「伊地知さん」


 シンが声をかけると、伊地知と呼ばれた彼女は驚いた顔をして駆け寄ってくる。


「シン……シンじゃないか! どうしたんだい、こっちに顔出すなんて珍しい」


 伊地知はしわの刻まれた顔を一層しわくちゃにして笑った。シンの背中を叩くその力加減は、華奢きゃしゃな体付きからは計れない強さだった。すると今度はシンの陰に隠れている黎の姿に気づき、


「ん? なんだい、その子」

「さっきそこで赤軍の暴動に巻き込まれたんだ。怪我してるから手当てしてやってくれ」

「暴動って……、どういうことだい? ――あっ、こらシン!」


 シンはさっさと一人で家の中に入ってしまった。呆気なく置いて行かれてしまった黎はなんだかよくわからないままそこに立ち尽くしていたが、


「あんたもお入り。あちこち傷だらけじゃないか」


 伊地知の優しい笑みに、突然黎は体中の力が抜けてその場にへたり込んだ。次の瞬間、せきを切ったように黎の目から大粒の涙が溢れ出す。


「怖かったんだね、もう大丈夫だよ」


 うずくって泣きじゃくる黎を伊地知は優しく抱きしめてくれた。ようやくあの地獄から抜け出せたと実感した黎は、彼女の胸に顔をうずめてひたすらに泣いた。

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