第四話 矢矧志貴①
◆
時が止まったみたいだった。
背後で続く動乱はちっとも止まないのに、もうそんなものは気にならないほどに黎は不思議な
だが、絶え間ない銃声に目の前の男は舌打ちをする。硝煙が濛々と立ち込める園内は視界が悪く何が起こっているのか把握ができない。
「逃げるぞ」
男は黎の手を取って入り口とは反対の茂みの方に突っ込んだ。黎は小さな悲鳴を上げつつも、彼の背中を懸命に追う。木々の生えそろった植え込みは
「待って……!」
男は黎のことなどお構いなしにこちらを引きずって進むので、黎はたまらず声を上げた。葉枝のせいでワンピースの裾は
「きゃあ!」
「暴れないでくれ。少しの辛抱だ」
男の声は淡々としていてそれが
黎はもう脱力して考えることを放棄した。この男がどこに連れて行こうとしているのかは定かではないが、抵抗する気も起きなかった。
男は木の乱雑に
「ここは……」
眼前に広がるのは小さな集落だった。中央通りのようなきれいに
(帝都にこんな区画があったんだ……)
ここは俗にいう貧民区画だ。帝都の街は人口が多い分、様々な階級層が暮らしている。公家である黎は華やかな繁華街の街並みしか知らない。ここは黎の知っている帝都とは違う。どこか暗く据えた匂いのするじめじめとした世界だ。
男は黎の手を握ったまま無言で坂を降り始めた。舗装のされていない坂道を下ると、集落の入り口にたどり着く。
「――ん? お前、シンじゃないか?」
「シンかぁ! おめえさんちょっと見ねえ間に随分でかくなったなぁ!」
「シン、シン。さっき
「どうした、どうした。そんなおっかねえ顔して。そのお嬢さんは誰だ?」
「まさか恋人か?」
「おっ、あの
「本当か!? こりゃあ祝いをせにゃあな」
黎たちの周りに町人たちが押し寄せて
男はその様子に無言でため息をつき
「……
「ああ、自分の家にいるよ」
それだけ聞くと男は人込みをかき分けてまた歩を進めた。男に手を引かれ黎も共に囲いから抜け出す。後ろから男を呼ぶ声がするのに、目の前の男は一切耳をかさなかった。
「……シンさん?」
だが、黎がつぶやくと男は――シンは驚いたように振り返った。ずっと怖い顔をしていた彼の眉間のしわが初めて消える。
その顔は黎が思っているよりずっと若く、少し少年のような面立ちであった。だが、シンはすぐに平常の険しい顔に戻りそのまま先を急ぐ。こちらを振り返ることのない彼から黎は目を離すことができなかった。
一番大きな通りを抜け小道に入ったところに、周囲と同じような古い一軒家があって、その軒先で一人の老女が小さな花壇に水を
「伊地知さん」
シンが声をかけると、伊地知と呼ばれた彼女は驚いた顔をして駆け寄ってくる。
「シン……シンじゃないか! どうしたんだい、こっちに顔出すなんて珍しい」
伊地知は
「ん? なんだい、その子」
「さっきそこで赤軍の暴動に巻き込まれたんだ。怪我してるから手当てしてやってくれ」
「暴動って……、どういうことだい? ――あっ、こらシン!」
シンはさっさと一人で家の中に入ってしまった。呆気なく置いて行かれてしまった黎はなんだかよくわからないままそこに立ち尽くしていたが、
「あんたもお入り。あちこち傷だらけじゃないか」
伊地知の優しい笑みに、突然黎は体中の力が抜けてその場にへたり込んだ。次の瞬間、
「怖かったんだね、もう大丈夫だよ」
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