第三話 皇女の務め④

 ◆

 それからあっという間に日は過ぎて、新堂との逢引あいびきの日当日、


「よくお似合いですよ、黎様」


 黎は珍しく君塚ではなく、屋敷の若い使用人に支度を手伝ってもらった。というのも、


「なんだか落ち着かないわ」

「着物と違ってたけも短いですからね。すぐに慣れますよ」


 鏡の前に映る己の姿はいつもの着物姿ではなかった。淡い桃色のフレアワンピースのすそがひらめく。つばの広い帽子とヒールの高いパンプスに何から何まで初めて身に付けるものだ。

 洋服なんて初めて着る。いつも繁華街を歩く同い年の子たちを車から眺めていた自分が、同じものを着用しているなんて、何だか夢みたいだ。


「慣れればお着物よりも着るのは簡単ですし、動きやすいですよ。よければ他にも何着か取り寄せておりますので、ご自身でもお試しになってください」

「はい、ありがとうございます」

「デート、楽しんできてくださいね」


 使用人たちはニコニコと期待に満ちあふれた笑顔を向けてくる。なんだかその視線が痛くて黎は帽子を少し目深にかぶった。

 予定では新堂が車で迎えに来てくれる手筈になっている。黎は玄関ポーチで新堂の車を待つ事にした。すると、


「出かけるの?」


 黎に声をかけてきたのは小夜だった。白いうちぎに身を包んだ小夜はやはり少し顔色が優れない。


「ええ、この間お話しした新堂様と」

「そう……気を付けてね」


 小夜はどこかうつろな目をしてつぶやいた。


「座ってもいい?」


 小夜は黎が座っている長椅子を指し示す。断る理由は当然なかった。

 二人で並んで居座っていると、どことなく懐かしさに襲われ胸が苦しくなる。小夜が学校をやめて以来、共に過ごす時間が格段に減ってしまった二人は、それでも時間の合う限り共に過ごした。こんな隙間のような僅かな時間でも、今の二人にとって大切なひと時なのだ。


「もうすぐ来るのよね? その新堂って人」

「ええ」

「もし何か酷いことをされたら、真っ先に私に言うのよ」

「大丈夫よ、小夜。あの人は悪い人ではなさそうだから、安心して」

「どうかしら、まだ本性を見せていないだけかもしれないわ」


 ふくれっつらをする彼女はいつもの元気な小夜だった。本当は初めて男性と二人きりで出かけることに少し不安があったけれど、小夜のおかげで幾分かやわらいだ。


「それに二人きりって言っても護衛はついてくるしね」

「それよ! 本当に難儀だわ。護衛なんかいなくたって自分の身くらい自分で守れるったら!」

「そうはいかないわよ。前に後藤も話してたじゃない、最近物騒だって」


 車を待っている玄関ポーチから少し離れたところに若い男が二人何気なく談笑しながら立っている。質素な見た目ではあるが、彼らは久遠院家お抱えの護衛だ。背の高い方が片桐かたぎりで、眼鏡をかけている方が千川せんかわといい、久遠院家に勤めるようになってからまだ日は浅かったように思う。


「ああ、片桐と千川ね」


 二人の姿を確認すると小夜はなぜかにやりと笑った。そして黎にそっと耳打ちする。


「あの二人ならくのは簡単よ」

「撒くって、そんなことできるの?」

「以前学校の友達と出かけたときにもついてきたのよ、あいつら。その時に邪魔だったからね。耳を貸して」


 そう言って小夜は二人を撒く方法を黎に伝授してくれた。「ね、簡単でしょう?」と片目をつぶる小夜に黎は苦笑した。

 そうしているうちに使用人がやってきて黎を呼びに来た。


「黎様、新堂様がお見えになりました」


 無意識に顔が強張ったのが自分でもわかった。黎が立ち上がると小夜も後をついて来ようとする。


「小夜、貴女は顔を見せてはいけないわ。婚前にこの家の人間以外の殿方と顔を合わせるのは禁止でしょう?」

「でも……!」


 不安気に訴える小夜の手を黎は優しく握った。


「大丈夫よ、小夜」


 まるで二人で祈るようにお互いの手を握る。そうしているだけで、黎にとっては何よりの力になる。まだ表情の曇る小夜だったが、


「そう言えば、その服とても似合ってるわ。モガっぽい」

「ふふ、ありがとう」

「黎、――気を付けてね」


 今生の別れみたいな厳かな空気が二人を包んだ。


 ◆

 新堂に連れられて黎は香芝かしば区を訪れた。ここは若者の多く集う区画で、流行りの洋装に身を包んだ少年少女たちが思い思いに語らいながら歩いていく。


「洋服だと印象が変わりますね、黎様」


 今日の新堂は最初に会った時に着ていた軍服ではなく、白いワイシャツにサスペンダー付きのスラックスというごく普通の青年の格好だった。


「こういう格好をして歩いていると傍目からは陸軍将校と皇女だなんて思われないでしょうねえ」

「ええ、そうかもしれません」

「とはいえ、あの二人もついてくるというのは何とも……」


 新堂もまた、黎の護衛としてついてくる片桐と千川の姿を見て苦笑いを見せた。二人は周囲に気取られない程度に距離を取り黎たちの後をついてくる。周囲に全くばれていないのはさすがだが、尾行されている当の本人たちにしてみればわずらわしいことこの上ない。


「そういえば小夜が、二人を撒く方法を教えてくれたのですが」

「えっ、撒けるんですか?」


 新堂は少年のように目を輝かせてこちらをのぞき込んでくる。


「ええ、西半田にしはんだ通りの呉服店の前を通れば良いと。そこの娘さんに二人は気があるらしくて、娘さんの方も必ず声をかけてくるからその隙に逃げればいいそうです」


 本当にそんな簡単にいくのだろうか、と疑い半分で告げると新堂は水を得た魚のように生き生きとその作戦に乗ってきた。


「西半田通りならすぐそこですよ。面白そうじゃないですか、やってみましょう」


 そう言って新堂は足早にかけていく。慌てて黎はその後を追った。




 西半田通りは香芝の中央通りから少し外れた、市中を流れる半田川沿いに形成された商店街で、表通りから一転古くからの老舗が軒を連ね奥ゆかしい趣を残しているところだ。その一角に『深見堂ふかみどう』という老舗の呉服屋があり、そこでは気のよさそうな店主と、その一人娘が店の軒先で談笑していた。

 黎と新堂は河原の花道を散歩している体でその件の呉服屋を見つけた。


「あれがその娘さんですか?」


 花縮緬はなちりめんの可愛らしい着物を着た少女は黎と同い年くらいに見えた。丸顔の目がくりっとした童顔は、小動物のような愛らしさをかもし出している。

 ちらりと背後をうかがうと、しっかりと黎たちの後をついてきている二人は、西半田通りに入った途端明らかにそわそわと落ち着きなさを見せ始めていた。


「じゃあ、試してみましょうか」


 心底楽しそうに悪戯いたずらを働こうとする新堂に対し黎は内心ハラハラと気が気でなかった。


 本当に成功するのかしら? もし本当に撒けてしまったらどうしよう?

 あの二人は首になったりしないだろうか?


 あれやこれやと考えても、新堂は止まらなかった。何せ黎たちのすることは、『ただ呉服屋の前を通り過ぎるだけ』なのだから。

 何食わぬ顔で店の前を通り過ぎる。できるだけ少女と目を合わせないように。少女の前を通り過ぎたところで、少女は黎たちの後方に目を向け、


寛治かんじぃ!」


 恐ろしい形相で怒りをあらわにした。

 静かな通りに響き渡る娘の怒号に、通りを歩いていた者はびくりと目を丸くし、そして、


「お前! よくものこのことその面見せる気になったね! 今日という今日は逃がしやしないよ!」


 可愛らしい外見からは想像もつかないようなどすのきいた声で飛びかかった相手は黎たちの後をついてきていた片桐であった。片桐は顔を真っ青にして猛攻を振るってくる娘をいなす。その隣で千川がひいっと悲鳴を上げてった。

 突然始まった男女の取っ組み合いに、通行人は唖然あぜんとするばかり。当然黎もその一人であったわけだが、


「黎様、逃げましょう」


 隣にいた新堂が状況を察したのか、黎の手をとって駆け出した。

 黎はわけのわからぬまま新堂に引かれて駆けだす。辺りの景色がものすごい勢いで後ろに流れていき、あっという間に西半田通りを通り過ぎて黎たちは大通りの雑踏に紛れ込んでいた。徐々に速度を落とした新堂は通りのフェンスに身を預けてゼイゼイと呼吸していた。黎もぐったりとフェンスにもたれ呼吸を整える。やがて、


「あっはっは! 黎様、大成功ですよ! こんなに上手くいくとは思わなかった!」


 人目も気にせず新堂は腹を抱えて笑い出した。


「あの……、新堂様。さっきの方たちは一体なぜああなってしまったのでしょうか?」

「さあ? よくわかりませんけど、ただならぬ事情があったのは間違いありませんね。あれは気があるとかそういう問題じゃなくて、恐らく『痴情ちじょうもつれ』的な奴かと」

「ち、痴情の縺れ……」

「どのみちこれを教えてくれた小夜様には感謝ですよ。結果的に彼らは我々を見失いました」


 肩を痙攣けいれんさせながら涙目になって新堂は笑う。きっと今頃あの護衛二人と呉服屋の娘はあの通りで騒ぎを起こしているのだろうか。小夜がどこまでこの事を知っていたのか知らないけれど、


「ふふっ」


 黎も不思議と笑みがこぼれた。護衛を撒くなんて、いけない事だとわかっているのに、なんだか可笑しくて仕方がなかった。


「よかった。緊張解れたみたいですね」

「えっ」

「さっきよりとてもいい顔をしていらっしゃいますよ」


 そう言って新堂は黎に微笑みかけた。その途端なんだか急に恥ずかしくなって、黎は顔を赤らめる。新堂は黎の手を取るとゆっくりと歩き始めた。

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