第二話 二人の皇女③
◆
久遠院のお屋敷の庭には、
黎は今日も池を
「また池を覗いているのか」
庭の池を覗き込む黎に声をかけたのは煌だった。帰り支度を終えた彼はおかしそうに顔を歪めてこちらに近づいてくる。出会った頃からよく向けられる表情だ。
「もうお帰りになるのですか、煌様。小夜はどちらに?」
「先に車の準備をしていたんだ。もうすぐ来ると思う」
煌の目は穏やかだった。小夜とのことを思い出しているのだと思うと、穏やかな気持ちになる。二人が仲睦まじく過ごしている事が、黎にとって何よりの至福だ。
「今日は素晴らしいお土産をありがとうございました」
洋菓子の礼を述べると煌もまんざらでもなさそうに頷いた。
「君たちが気に入ってくれたのなら良い。また機会があれば頼んでみよう」
「はい」
二人の間を夕暮れの冷たい風が通り過ぎた。黎と煌はお互いに黙ったまま、時が過ぎるのを待つ。
沈黙を破ったのは煌だった。
「そう言えばここには錦鯉がいたな。結構でかい奴」
「はい、まだおります」
黎は池の対岸の方を指示した。ここから線対称に位置するところに大きな赤と白の
「前に見た時より大きくなっている気がするな」
「そうでしょうか、私は毎日見ているのでよくわかりません」
「君が餌をやっているのか」
「はい、私の日課です」
鯉の餌やりだけは庭師の仕事ではなく黎の役目だった。黎にとってそれが趣味の一環で、黎は池の側にしゃがむと悠々と泳ぐ鯉たちを愛おしそうに眺める。
「今度新しい品種の子を取り寄せてくれると庭師の方が言っていたので楽しみです」
「そうか」
「次に来られる時は煌様にもお見せできるかもしれません。それまでに、池周りも少し整えておきますね」
黎が笑うと、何故か煌は切なそうに目を細めた。
「そう言えば、君と初めて会ったのも池の前だったな。確か成年の儀の前に、宮廷の庭で」
ふと遠い目をして、煌は昔の話を始める。それは黎にとっても思い出深い、忘れられない話だった。
「そうでしたね。月の晩に、いきなり貴方が現れて、座敷童だなんておっしゃって」
「あの時は何て言ったらいいかわからなかったんだ。君がとても怯えていたから」
座敷童と言えば少しは
「私、そんなに怯えていましたか?」
「ああ、怯えていたとも。あのまま叫んで逃げ出してしまうかと思った」
煌はバツが悪そうに頭を掻いた。
「だが逃げられなくてよかった。そうでなければきっと、私はここに立っていられなかっただろう」
煌が黎の手を取る。あの時のように静かな眼差しを向けて、そして何故か寂しそうに笑う。
「黎、近いうちに君の御父上から大切な話があると思う」
「大切な話?」
「君の将来に関わる、大切な話だ。君の気持ちはどうあれ――」
煌は何故か苦しそうに唇を噛んだ。握られた手が痛いほどに白くなる。
「黎、私はいつか君に謝罪しなければいけなくなる」
「……どういう意味ですか?」
「私はいずれこの国の君主となる。この国の安寧を第一に考え、その過程の中で、君を利用する事になる。……私は卑怯な男だ。でも、わかってほしい。私は君たち二人が本当に大切で、愛おしいんだ」
それは
「煌様。私も小夜も煌様がお優しい人だという事はよくわかっています。煌様がこれからこの国を背負って立つ者として、様々な重責の中で私たちの事を考えてくださっている事も」
「黎……」
「どうか煌様はこの国を導く事だけをお考え下さい。そして願わくは、その隣にいる小夜の事を愛してください。貴方が愛してくだされば、小夜はきっと幸せになれます」
「……君たちは本当に、お互いの事ばかりだな」
そう呟いた煌の顔は幾分か
「黎」
名を呼ばれて、
「――私は君が好きだよ」
さらりと紡がれた言葉は重力が無く、すぐに夕暮れの風に飛んで消えていった。黎は自分の側を通り過ぎていったその空気の震えを頬に感じて、
「はい、私も煌様をお
素直な気持ちを言葉にして笑う。だが、煌はその瞬間悲し気に目を細めた。
「……? 煌様?」
「ああ、いいんだ。……ありがとう」
穏やかに笑う彼の表情は、やはりそれまでと違っていた。
――美しき国母の微笑みが見えた。
その完璧すぎる造形に小夜は目を見開いて固まった。帰宅する煌のお見送りをしようと思っていたのに、その光景を見た瞬間小夜は一歩も動けずに立ち尽くす。
彼女の側には未来の皇帝の姿もある。二人が寄り添う姿は、小夜が心の内で思い描いていた理想の皇帝皇后の姿そのものだった。
初めて見る煌の顔、自分には向けられた事のない愛おしさに華乱れるその顔に、小夜は心臓を
『皇后は小夜様より黎様の方が
そう言ったのは誰だったか、使用人か、他の公家の者か、はたまた世論か。
『だって殿下も黎様の方が――』
ああ、どうして今になって思い出してしまうんだろう。
どうして。私は皇后になんてなりたくないはずだったのに。
胸は苦しくぎしぎしと音を立てて鼓動を鳴らす。
黎はこの世で一番大切な妹なのに。
煌はこの世で一番大切な男性なのに。
小夜の中に生まれた嫉妬心がこの時静かに育ち始めた。
それから三日と経たぬうちに、小夜と黎は恭夜の自室に呼ばれた。父に呼び出される時は決まって小夜にとって都合の悪い話だ。
「小夜、黎。お前たちに伝えなければならない事がある」
その予想はおおよそ半分的中した。
「今はまだ公表を控えているが、近く陛下が譲位の意向を示される。それに伴い、煌様と小夜、お前たち二人の婚礼の儀が行われる」
小夜は固まった。それはいずれ来るであろうと思っていた宣告。でも、こんなのはあまりに早い。
「お父様、女学校は――」
「婚礼の準備がすぐに始まる。もうお前は学校に通う必要はない」
あそこは牢獄のようだと思っていた。つまらない座学の授業、裁縫。体錬の授業は少し気が紛れたけれど、小夜にとって『皇后らしさ』を強要される息の詰まる場所。
でも、もう通うことはない。
「それから黎、お前にも縁談が来ている」
そして次の矛先は呆然としている黎の方へ。
「お相手は帝国陸軍に所属する
小夜が恐れていた事が最悪の形で実現したと思った。小夜は黎に誰よりも幸せになってほしかった。お父様の意思に背くことは叶わなくとも、せめて彼女を愛しんでくれる優しい人と一緒になってくれたらいいと思っていた。もし黎を悲しませるような奴だったら、小夜が父に抗議して、そいつを一発殴ってやろうとも思っていた。
『軍人なんて利己的な奴ばかり』
そう言ったクラスメイトの言葉がよみがえる。
だが、
「――はい、わかりました」
黎は怒ることも嘆き悲しむこともせず、父の命令を受け入れた。いつもの内気で臆病な黎からは想像もつかないほど、強く据わった表情。
小夜は誰よりも動揺していた。そして、――誰よりもホッとしていた。
あんなに黎と離れるのが嫌だと思っていたのに、小夜はこの時間違いなく安堵した。
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