第二話 二人の皇女②

 帝都の中央区、華族の豪邸が多くのきつらねる高級住宅街に燦然さんぜんと佇む白煉瓦の外装が美しい洋館がある。久遠院家のお屋敷は、立派なお屋敷だが竣工しゅんこう後まだ二年ほどの新築であった。

 黒鋼の厳重な正門を潜り抜け、車は屋敷の正面玄関に到着した。屋敷の使用人たちがすぐに小夜たちを出迎える中、小夜は見覚えのある高級な外国車が玄関に停まっているのに気が付いた。


「煌様のお車だわ」


 車を降りるとすぐに使用人頭の君塚が近づいてくる。


「お嬢様方、おかえりなさいませ。小夜様、お帰りになって早々申し訳ありませんがお召し替え下さいませ」

「もう煌様はいらっしゃっているのよね?」


 君塚はコクリと頷いた。小夜は少し逡巡しゅんじゅんして、


「いいわ、このまま向かう」

「……⁉ ですが小夜様、――」

「別にいいじゃない。煌様はお父様のところ? 黎も行きましょ」

「小夜様!」

「あっ、待って小夜!」


 君塚の制止を無視して小夜は黎の手を引き父の書斎へ向かった。海老茶の袴姿で廊下を闊歩かっぽする小夜に、使用人は頭を下げつつ戸惑いの視線を向けてくる。


 別に構わない、ここは私の家。お父様だって怖くない。


 重厚な扉の前に辿り着くと、小夜はふっと息を吐いてすましたノックをする。


「入りなさい」


 父の言葉と共に小夜と黎は部屋に滑り込んだ。書斎の中央にある応接のソファには、険しい顔をした父、久遠院恭夜きょうやが座っており、その向かいにもう一人、若い男性が座っていた。

 小夜より十年上の仕立ての良いライトグレーのスーツを身に付けた利発そうな青年は、小夜の姿を見ると目を細めて笑った。


「やあ小夜、黎。おかえりなさい」

「いらっしゃいませ、煌様」


 小夜もにこりと笑って恭しくお辞儀をした。


「お前たち、何用だ。今は殿下とお話し中だ、後にしなさい」

「あら、せっかく許嫁がいらっしゃっているのだから早く会いたいと思うのは当然ではなくて?」


 小夜はわざとらしく首を傾げて笑う。恭夜は小難しい顔をしてため息をついたが、小夜は気にする事はなかった。このじゃじゃ馬に何を言っても無駄だろうと思われている事は、小夜が一番よく理解している。


「今大切な話をしているのだ。邪魔をするんじゃない」


 冷たい恭夜の言葉にびくりと震えたのは小夜の後ろに隠れている黎だ。小夜は黎を後ろ手に庇うと父の冷たい視線を真っ向から受け止める。

 バチバチと火花を散らす親子の間に入ったのは煌だった。


「恭夜殿、でしたらこの話はまた後日いたしましょう」

「ですが、殿下……」

「急いても仕方ありません。何事も慎重に事を進めねばならないのは同じですから」


 優し気に恭夜をさとす煌であったが、その目は何故かすっと細められ鋭い鷹の様だった。恭夜に有無を言わせない威圧感を放つ煌に、小夜もおやと首を傾げる。


「……わかりました。殿下」


 結局折れたのは恭夜であった。煌は小夜を振り返るとにこりと笑った。もうすでにいつもの煌だ。


「お待たせ、小夜、黎。応接間の方に行こうか」

「よろしいのですか?」

「ああ、今日はお土産を用意してあるんだ」

「まあ、何ですか?」

「それはお楽しみだ。さあ、行こうか。恭夜殿、ではまた」


 煌は恭夜にもう一度会釈をすると、小夜たちを部屋の外へと押し出した。




 煌に連れられて応接間の方に出向いてみると、そこはすでに見ず知らずの家のように様変わりしていた。

 部屋に充満する甘ったるい香り。大きな白いレースマットの敷かれたテーブルの上には、色とりどりの洋菓子が並べられている。


「煌様、これは……?」

「先日、私の学生時代の友人がルクシアでのパティシエ修行を終えて戻ってきてね。宵暁で新しく店をオープンするからと、挨拶代わりにこんなにお手製の菓子を用意してくれたんだ」

「えっ、それって……」


 小夜は先刻黎と車の中で話していた事を思い出す。


「さっき小夜が言ってたお店じゃない?」


 黎も気が付いたのかくすくすと笑っている。小夜は嬉しさのあまり飛び上がりそうになって、


「ありがとうございます、煌様」


 今日はつまらない日だと思っていた小夜はすぐさま、心の中の日記帳に今日はとても良い日でしたと上書きをした。菓子の山を前に現金だとは思ったがそれでもこんなに心躍る事は早々ない。

 煌に進められて早速菓子を選んだ。ショートケーキにシュークリーム。タイルのように規則正しく並べられているのはチョコレートボンボンだろうか。砂糖をまぶしたカラフルなゼリーやサクサクと軽いメレンゲも捨てがたい。

 小夜はまず光沢が美しいチョコレートケーキを選んだ。すぐに控えていた給仕が、皿に取り分けたケーキを用意してくれる。


「……美味しいっ」


 とろけるようなチョコレートムースはほろ苦く、口の中ですぐに解けてしまった。こんな菓子は初めて食べる。

 小夜の隣では、大きなシュークリームと格闘する黎がいる。彼女はこの美しくももろいクリームのたっぷり詰まった物体をどう食すべきか迷っていた。


かぶりつけばいいのよ、黎」

「え、でもそれは行儀が悪いわ」


 黎は顔を赤らめて俯いた。食べ物を口いっぱいに頬張ほおばるなんて、黎は生まれてこの方やったことがない。


「いいじゃない。ここはおおやけの場じゃないわ。家でお菓子を食べるのに誰が何の文句を言うのかしら」


 小夜の後押しもあって、黎は悪魔退治でもするみたいな面構えになって、そのクリームの塊と対峙した。

 せーの、という合図で、黎は小さな口でシュークリームを頬張った。

 しばしの沈黙、


「どう?」

「……おいひい」


 間の抜けた黎の声に小夜は笑った。

 楽しい。穏やかな午後の昼下がりに甘いお菓子に囲まれて、大好きな妹が珍しくはしゃぐ姿を見られて。

 学友たちと出かけるのも楽しいけど、やっぱりこの光景が一番愛しくて嬉しい。

 小夜の幸せはきっとこんなところにあるのだと、甘いケーキを噛み締めながら思った。


 ◆

 お菓子を食べ終えた後、小夜と煌は屋敷の庭を並んで歩いた。皇居程広くはない庭だが、美しい花壇が並べられた西洋風の庭園と、踏み石の敷かれた鯉の泳ぐ池が備え付けられた古風な庭園があって、西洋風の花壇が小夜のお気に入りの場所だった。

 煌が久遠院の屋敷を訪れる時はいつもこうして庭を散歩する。いつの頃からか習慣となり、仲睦なかむつまじい許嫁同士の逢瀬おうせとして久遠院家の使用人たちは気を使って小夜たちを二人きりにする。しかし小夜にとっては少々有難ありがた迷惑な話でもあった。


 誤解の無いように言っておくが、小夜は別に煌が嫌いなわけではない。煌は魅力的な男性だし幼い頃に出会ってから何だかんだと付き合いも長い。好きと言えば好きだ。けれど周囲が期待するような情熱的な恋模様とか、美しい夫婦愛とかを期待されても小夜には到底想像できない話だ。


「私もそれで構わないけれどね」


 対する煌もそう言って笑う。煌は表向きは皇太子らしからぬ態度を見せた事はない。いつも威風堂々として、将来この国を背負って立つ者としての威厳を崩さない。だが、彼の本性はまた別にある事を小夜は知っている。彼は威張るのが嫌いだし贅沢ぜいたくも好まない。次代の帝でありながら今日みたいに自分で車を走らせ出かけるのはしょっちゅうだし、悪戯好きで面白い事に目がなく、市井いちいで流行っているものにも詳しい。良くも悪くも皇太子らしくない皇太子は活発な気性の小夜と話があった。


「正直煌様が夫になる想像がつかないわ。どちらかと言えば兄みたいだもの」

「そうだね、私も君は妹みたいな存在だ」

「敬語も使う気にならないし」

「おしゃれもする気にならない?」

「それはまた違うけど」


 今の小夜は海老茶の袴から美しいはなだ色の振袖ふりそでに着替えていた。「殿下との逢瀬だから」と使用人たちが張り切って着付けた。帯は窮屈きゅうくつでさっき胃に入れたお菓子が逆流してしまいそうだ。こんなことする必要ないのに、と思ってもそれは仕方のない事。使用人たちがそれで満足するというのなら小夜もそれに甘んじるだけだ。

 煌は肩を震わせて笑うと、庭に咲いた美しい躑躅つつじの花壇に目を向けた。


「君は君のままでいてくれればいい。しおらしくされるのも違う気がするしな」

「本当に? 未来の皇帝陛下と皇后がこんなのでいいのかしら?」

「肩ひじを張らなくていいというのはすごく大事な事だ。案外そういう方が夫婦に向いているかもしれない」


 小夜は確かに、と頷いた。物語小説の中に出てくるような、身を焦がすような恋愛ではないのかもしれないけれど、自分の事をわかってくれる相手と一緒になれるのはとても幸運な事だと小夜は思う。

 小夜はすごく恵まれている。だからこそ、


「でも、私はやっぱり皇后には向いていない気がするわ」

「どうして?」

「おしとやかにできないし、すぐに外に出たくなっちゃいそう。それに、――黎に会えなくなるのは嫌」


 それは小夜にとって多分一番の懸念。黎と離れ離れになるのは身を切られる程辛いし、何より、


「黎が心配なの。あの子がちゃんと幸せになってくれるかどうか」


 黎はいつか父の決めた結婚相手と結婚させられるだろう。久遠院家には小夜と黎の他にもう一人跡継ぎがいる。後妻との間に生まれた壬晴みはるは小夜たちの異母弟にあたる。今、幼い彼とその母親は久遠院家の別邸、小夜たちが幼い頃に暮らしていた生家で暮らしている。


「壬晴が大きくなったらお父様はあの子をここに呼び戻すでしょうね。そうしてあの子に家督を継がせたら、私たちの事はきっとどうでもよくなるんだわ」

「小夜、そういう考えは良くない。恭夜殿は君たちを愛しているよ」

「そうかしら。お父様は合理主義者だから私たちの事もお家の道具としか見ていないわ」

「小夜」


 煌が小夜の肩に手を置いた。感情的になる妹をなだめるように煌は強い視線で小夜を諭す。


「大丈夫だよ、不安がる事はない」

「不安? ……そうね、不安だわ」


 自分が皇后になる事も、黎が知らない相手に嫁ぐ事も不安で仕方ない。今の生活がいずれ無くなってしまう事が、小夜には堪らなく不安なのだ。


「もし黎に縁談が来たら、まず私がどんな奴か見極めてやるわ。そして黎に相応しくないと思ったら――」

「思ったら、どうするんだ?」

「一発殴って、それからお父様に抗議する」


 小夜の強気の答えに煌は一瞬ギョッとして、それから豪快に笑いだした。


「そんなに笑わなくても」

「いやいや、頼もしいな。小夜は黎の事が好きなんだな」

「当り前よ」


 小夜にとって黎は最愛の妹であり、お転婆な小夜に愛想をつかす事無く付き合ってくれる唯一の親友だ。黎は臆病で内向的な性格だが、全てを受け止めてくれるような、そんなふところの深さがある。もし、この国で皇后に相応しい者は誰かと聞かれたら、小夜は迷いなく黎と答えるだろう。そんな黎に小夜は甘え、そして羨ましく思っている。

 煌は小夜の頭を優しく撫でた。子ども扱いされているようで少し不服だが、それでも彼にこうされて悪い気はしない。不安だの相応しくないだの言うけれど、つまるところ小夜は煌の事も好きなのだ。


「煌様も協力してくださいね」

「……そうだな、善処しよう」


 そう言って煌は静かに笑った。

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