第二話 二人の皇女①

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 古典の読解に習字。代数学に科学の実験。舞踏にお琴に針仕事。

 今年十六歳になった久遠院くおんいん小夜さよの毎日は、女学校という小さな牢獄の中で繰り返される、『退屈』と『労苦』で埋め尽くされていた。

 特に裁縫は厄介だ。小夜の天敵とも言っていい。こういう緻密ちみつな作業は性に合わないから、五分と経たずに投げ出してしまうのが常だった。

 小夜は自分の手の中にあるいびつな文様がほどこされた絹布けんぷを今すぐにでも放り出したい衝動に駆られる。それを何とか踏み留めてそれでも布地をくしゃりと握りしめると、


「いけませんよ、小夜様」


 すぐさま教官のお小言が飛んでくる。般若はんにゃのように眉を吊り上げた教官は決して怒鳴り散らすようなことはしない。むしろ他の生徒と同様に一喝いっかつしてくれる方がよほどスッキリするのだが、生憎小夜に声を荒げる不敬な教師はここにはいない。

 こういう時、小夜は自分が公家という立場にある事をわずらわしく思う。窮屈きゅうくつで人の目を気にしながら人々の期待に応えなくてはいけないという重責が、裁縫の授業というほんの些細な日常の中でもまざまざと思い知らされる。

 抵抗を諦め、ため息をついて針孔はりあなに糸を通していると、


「小夜の桜の柄、とてもきれいだよ」


 隣からこちらを覗き込んで微笑みかける者がいた。小夜と同じ顔をした少女の手の中には、自分と同じものを作っているとは思えない程繊細な刺し子が生み出されていた。


「そんな事言って、黎のはもっときれいじゃない」


 小夜が口をとがらせると、黎は「教本の手本通りにやっただけよ」と苦笑した。梅とうぐいすかたどった丁寧な刺繍ししゅうはため息が出るほどこまやかで美しい。小夜と違って手先の器用な黎は、刺繍だって完ぺきにこなす。

 双子なのにどうしてこうも違うのかしら、と小夜はため息を漏らしつつ布に針を埋め込んだ。


「小夜様。図面と違うところに刺さっておりますよ」


 目ざとく教官が指摘する。小夜は反抗したい気持ちをぐっとこらえて針を刺しなおした。

 その横で手際よく刺し子を続ける黎をちらりと盗み見て、小夜はまた深くため息をついた。



 学校が終わると小夜は迎えの自動車に乗って屋敷まで戻る。町の中を自分と同じ年の女学生が楽しそうに歩いているのを見て、小夜は少しうらやましさを感じていた。


「今日は体錬が無かったから残念だわ。私あの授業なら喜んで受けたのに」

「仕方ないよ。そういう日もあるわ」


 小夜の隣で黎が苦笑いを浮かべた。黎は静かに小夜とは反対側の窓の外を眺めている。


「そう言えば知ってる? 商工館の近くに新しいパーラーが出来たって話」

「パーラー?」

「クラスの子たちが話していたのよ。なんでもルクシアで修業して帰ってきたパティシエがいるんですって。どう、行ってみたくない?」


 ルクシアと言えば欧州おうしゅうにある洋菓子の本場の国。異国の色とりどりの菓子に囲まれた夢のような空間。年頃の女の子たちならば一度は夢見る世界に小夜も心を惹かれているが、


「ね、後藤。ちょっとくらいならいいでしょ? 寄ってよ」


 すると後藤と呼ばれた運転手は軽快に笑い始めた。


「小夜様。洋菓子にご興味がおありなのは重々承知しておりますが、本日は煌様がおいでになる日故、この後藤は旦那様から寄り道をせずまっすぐ帰宅するようおおせつかっております」

「ええ、そんなぁ」


 小夜は項垂うなだれてシートに身を預けた。後藤は長年久遠院家に仕えており、小夜たちの幼い頃も知っているので、小夜たちにとっては祖父のような存在であった。ので、多少の我儘わがままも融通を聞いてくれるとたかくくっていたが、そううまくはいかない。


「それに、今はあまり外をむやみにうろつかない方がようございます。ここの所、帝都は少々物々しいですからね」


 どういうことかと聞き返そうとすると、車外から拡声器を充てた男の声が響き渡る。


『我らの声は民の声であり、この国を真に支える者の声である。貧困にあえぎ倒れた我らの同胞たちのために、我らは最後の血の一滴になろうとも我らの悲願を果たそうではないか!』


 耳をつんざく怒号と歓声。何事かと辺りを見回すと、近くの広場に人が密集していた。ちらりと見えた毒々しい赤の旗。広場の中心の壇上で一人の男が唾を飛ばしながら何かを熱弁している。

 その周りに集まっている者たちも「そうだ、そうだ」と賛同の声を上げる。演説が白熱するほど周囲の熱も高まって、狂信めいた空気が広場中を占拠していた。


「『赤軍』と呼ばれる者たちでございます」


 後藤は押し殺した声で呟いた。隣に座る黎がキュッと身を強張こわばらせる。


「いわゆる無政府主義者アナーキスト。現政権を批判し、革命を声高に叫ぶ危険思想を持つ者たちです。元々欧州大戦以降、世界各国で見受けられた連中ですがね、この宵暁国よあきのくににもその思想を叫ぶ輩が増えてきているのです。一年前財閥総帥の邸宅が襲われた事件をきっかけに世間でも注視され始めました。議会周辺でのデモ行為や地下集会、結社の創設なんかも広がっているそうですよ。――あのように」


 広場に掲げられた赤旗には、『貧困にあえぐ民に救いを!』と仰々ぎょうぎょうしく墨書きされており、風でそれがはためく度小夜はざわついた気持ちになる。


「彼らの目標は貧富の差のない平等な社会の実現。西華せいかとの戦争以降、工場労働者が激増して、資本家と労働者の軋轢あつれきは増していきましたからね」

「それで政府なんていらないなんて言うの? めちゃくちゃだわ」


 確かに産業革命以降国民の間で貧富の差が生じている事は経済学の授業でも学んだ。けれどもそれを改善するために政府だって労働法を整備したり、普通選挙の実現に動いたり、福祉の充実だって議論されているのに。


「まあそれだけが背景にあるわけではないんですよ。一番大きな理由は、『アウレア・イッラ』の存在でしょうし」

「アウレア・イッラ、大陸の北東に出来た新興政権ですか?」

 黎の問いに後藤は小さく頷いた。信号が変わり車が走り出す。ようやく赤い集団が見えなくなって、小夜はホッと息をついた。


「アウレア・イッラの指導者が世界中の同志たちに世界革命を呼びかけているそうなのですよ。あの国は国民の平等をうたう共産政権ですから。彼らが赤いシンボルを身に付けているのも、赤を国色に定めるアウレア・イッラをなぞらえての事でしょう」


 アウレア・イッラが成立したのは十年ほど前、欧州大戦の最中に旧王朝を革命で倒した革命家グラニテスの采配さいはいの元生まれた共産主義国であった。突如起こった革命は世界中を震撼させ、アウレア・イッラの戦線離脱が膠着こうちゃくしていた戦線を大きく揺るがせ終戦へと導いた。

 その後、グラニテス率いる新政府のたくみな手腕で国内商工業を大きく成長させたアウレア・イッラは、今や国際経済の一角を担う存在となる。


「幸い赤軍の連中が標的にしているのは、官僚や議員、有力財閥などで皇族に対して異を唱える者はいないようです。ですが、世界革命なんてものを理念に掲げている連中ですからね。どんなことが起ころうとも不思議じゃありません。ですから、お嬢様方も警戒しておいて損はないでしょう」


 後藤の忠告を小夜は真摯に受け取った。自由に外を出歩けないのは不満だが、命の危険には変えられない。

 ふと、横を見ると後藤の話を聞いてすっかり青ざめてしまった黎がいた。小夜よりもずっと臆病な黎は、今の話を聞いてますます外に出る事を躊躇ってしまうかもしれない。


「心配しなくても大丈夫ですよ」


 そんな黎に後藤はミラー越しに優しく微笑みかけた。


「政府だって対策は講じておりますからね。それに、この国には帝の統帥する碧軍がおります」


 碧軍とは宵暁国陸軍の俗称だ。青碧の軍服を身に纏っている事からその名で呼ばれるようになった陸軍は、議会から独立した組織でありその忠誠を誓うのは帝に対してのみ。とはいえ現代の碧軍は将校が実権を握っており、帝の統帥権など形骸けいがい化したようなものだが。


「最近では赤軍討伐に向けた専門の部隊を編成しているなんて噂も聞きますからね」

「軍部の難しい事はよくわからないわ」

「はは、そうでございますね。軍人というものは一般人とは違う思考に生きる生き物と言われていますから。とはいえ、この国を守ってくれるのは事実です。彼らは皇帝の名のもとに忠誠を誓っているわけですから」


 小夜は後藤の話を聞きながら、本当にこの国を守ってくれているのかしら、と疑念を抱く。小夜たちの通う女学校の中にはもう嫁ぎ先を決められている子たちがいる。小夜も言ってしまえばその一人なのだが、彼女たちの相手は華族や政治家の子息、あるいは軍人が多い。

 とある将校にとつぐことが決まっている友人のぼやきを聞いた事がある。お相手は真面目で良い方だが、やや利己的なところがあると。全ての軍人がそうだとは限らない。けれど、その話を聞くとどうにも、国や皇帝に完璧な忠誠を誓う軍人が実際どれほどいるのかいぶかしんでしまう。


「本当に……守ってくれるのかな?」


 外を見つめ、怯えたように呟く黎の手を小夜はギュッと握った。


「大丈夫よ、黎。もしあんたに近づく悪い奴がいたら、私が追っ払ってあげる」

「小夜……」

「体錬の授業でも見たでしょ? 男だってひょいって投げ飛ばしてあげるから」


 すると黎はくすくすと笑い始めた。その表情に、もう恐怖はない。

 小夜は黎が笑っているのが好きだ。臆病で引っ込み思案じあんで人づきあいの苦手な彼女を守ってあげられるのは自分しかいない。


(そうよ、黎は私の大切な――)


『小夜様は気性が荒くて皇后には向いていらっしゃらないわ』

『おしとやかな黎様の方がきっと――』


 小夜の脳裏に雑音が混じった。遠くからまだ聞こえる赤軍の演説と共に、小夜の脳を揺さぶる。


「――ありがとう、小夜」


 けれども、目の前にある黎の笑顔が小夜を引き戻した。慈悲じひ深き、国母の微笑みの様だった。

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