第二話 二人の皇女①
◆
古典の読解に習字。代数学に科学の実験。舞踏にお琴に針仕事。
今年十六歳になった
特に裁縫は厄介だ。小夜の天敵とも言っていい。こういう
小夜は自分の手の中にある
「いけませんよ、小夜様」
すぐさま教官のお小言が飛んでくる。
こういう時、小夜は自分が公家という立場にある事を
抵抗を諦め、ため息をついて
「小夜の桜の柄、とてもきれいだよ」
隣からこちらを覗き込んで微笑みかける者がいた。小夜と同じ顔をした少女の手の中には、自分と同じものを作っているとは思えない程繊細な刺し子が生み出されていた。
「そんな事言って、黎のはもっときれいじゃない」
小夜が口をとがらせると、黎は「教本の手本通りにやっただけよ」と苦笑した。梅と
双子なのにどうしてこうも違うのかしら、と小夜はため息を漏らしつつ布に針を埋め込んだ。
「小夜様。図面と違うところに刺さっておりますよ」
目ざとく教官が指摘する。小夜は反抗したい気持ちをぐっとこらえて針を刺しなおした。
その横で手際よく刺し子を続ける黎をちらりと盗み見て、小夜はまた深くため息をついた。
学校が終わると小夜は迎えの自動車に乗って屋敷まで戻る。町の中を自分と同じ年の女学生が楽しそうに歩いているのを見て、小夜は少し
「今日は体錬が無かったから残念だわ。私あの授業なら喜んで受けたのに」
「仕方ないよ。そういう日もあるわ」
小夜の隣で黎が苦笑いを浮かべた。黎は静かに小夜とは反対側の窓の外を眺めている。
「そう言えば知ってる? 商工館の近くに新しいパーラーが出来たって話」
「パーラー?」
「クラスの子たちが話していたのよ。なんでもルクシアで修業して帰ってきたパティシエがいるんですって。どう、行ってみたくない?」
ルクシアと言えば
「ね、後藤。ちょっとくらいならいいでしょ? 寄ってよ」
すると後藤と呼ばれた運転手は軽快に笑い始めた。
「小夜様。洋菓子にご興味がおありなのは重々承知しておりますが、本日は煌様がおいでになる日故、この後藤は旦那様から寄り道をせずまっすぐ帰宅するよう
「ええ、そんなぁ」
小夜は
「それに、今はあまり外をむやみにうろつかない方がようございます。ここの所、帝都は少々物々しいですからね」
どういうことかと聞き返そうとすると、車外から拡声器を充てた男の声が響き渡る。
『我らの声は民の声であり、この国を真に支える者の声である。貧困に
耳を
その周りに集まっている者たちも「そうだ、そうだ」と賛同の声を上げる。演説が白熱するほど周囲の熱も高まって、狂信めいた空気が広場中を占拠していた。
「『赤軍』と呼ばれる者たちでございます」
後藤は押し殺した声で呟いた。隣に座る黎がキュッと身を
「いわゆる
広場に掲げられた赤旗には、『貧困にあえぐ民に救いを!』と
「彼らの目標は貧富の差のない平等な社会の実現。
「それで政府なんていらないなんて言うの? めちゃくちゃだわ」
確かに産業革命以降国民の間で貧富の差が生じている事は経済学の授業でも学んだ。けれどもそれを改善するために政府だって労働法を整備したり、普通選挙の実現に動いたり、福祉の充実だって議論されているのに。
「まあそれだけが背景にあるわけではないんですよ。一番大きな理由は、『アウレア・イッラ』の存在でしょうし」
「アウレア・イッラ、大陸の北東に出来た新興政権ですか?」
黎の問いに後藤は小さく頷いた。信号が変わり車が走り出す。ようやく赤い集団が見えなくなって、小夜はホッと息をついた。
「アウレア・イッラの指導者が世界中の同志たちに世界革命を呼びかけているそうなのですよ。あの国は国民の平等を
アウレア・イッラが成立したのは十年ほど前、欧州大戦の最中に旧王朝を革命で倒した革命家グラニテスの
その後、グラニテス率いる新政府の
「幸い赤軍の連中が標的にしているのは、官僚や議員、有力財閥などで皇族に対して異を唱える者はいないようです。ですが、世界革命なんてものを理念に掲げている連中ですからね。どんなことが起ころうとも不思議じゃありません。ですから、お嬢様方も警戒しておいて損はないでしょう」
後藤の忠告を小夜は真摯に受け取った。自由に外を出歩けないのは不満だが、命の危険には変えられない。
ふと、横を見ると後藤の話を聞いてすっかり青ざめてしまった黎がいた。小夜よりもずっと臆病な黎は、今の話を聞いてますます外に出る事を躊躇ってしまうかもしれない。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
そんな黎に後藤はミラー越しに優しく微笑みかけた。
「政府だって対策は講じておりますからね。それに、この国には帝の統帥する碧軍がおります」
碧軍とは宵暁国陸軍の俗称だ。青碧の軍服を身に纏っている事からその名で呼ばれるようになった陸軍は、議会から独立した組織でありその忠誠を誓うのは帝に対してのみ。とはいえ現代の碧軍は将校が実権を握っており、帝の統帥権など
「最近では赤軍討伐に向けた専門の部隊を編成しているなんて噂も聞きますからね」
「軍部の難しい事はよくわからないわ」
「はは、そうでございますね。軍人というものは一般人とは違う思考に生きる生き物と言われていますから。とはいえ、この国を守ってくれるのは事実です。彼らは皇帝の名のもとに忠誠を誓っているわけですから」
小夜は後藤の話を聞きながら、本当にこの国を守ってくれているのかしら、と疑念を抱く。小夜たちの通う女学校の中にはもう嫁ぎ先を決められている子たちがいる。小夜も言ってしまえばその一人なのだが、彼女たちの相手は華族や政治家の子息、あるいは軍人が多い。
とある将校に
「本当に……守ってくれるのかな?」
外を見つめ、怯えたように呟く黎の手を小夜はギュッと握った。
「大丈夫よ、黎。もしあんたに近づく悪い奴がいたら、私が追っ払ってあげる」
「小夜……」
「体錬の授業でも見たでしょ? 男だってひょいって投げ飛ばしてあげるから」
すると黎はくすくすと笑い始めた。その表情に、もう恐怖はない。
小夜は黎が笑っているのが好きだ。臆病で引っ込み
(そうよ、黎は私の大切な――)
『小夜様は気性が荒くて皇后には向いていらっしゃらないわ』
『お
小夜の脳裏に雑音が混じった。遠くからまだ聞こえる赤軍の演説と共に、小夜の脳を揺さぶる。
「――ありがとう、小夜」
けれども、目の前にある黎の笑顔が小夜を引き戻した。
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