第一話 成年の儀③

 ◆

 成年の儀の朝は、いつも以上に空気が澄んでいてそして暑かった。皇太子は今日みたいな初夏の快晴の日の暁の刻に御生まれになったという。まるで彼の生誕を祝福するかのような強い陽光が黎の目元をかすめた。


「黎様、着付けが整いましたよ」


 朝早くに起こされて二時間近くをかけて身なりを整えられた黎は、欠伸あくびを押し殺して鏡の前に向き直った。

 紅色のうちぎの表着を重ね、その上にかけられた桃色の汗衫かざみすそがずるずると床に引きずられる位長く肩に重量がのしかかる。動きにくい二重ふたえはかまと共に黎の身体を厳重に拘束し、身動きを取れなくしていた。


「昔の人はこんなものを毎日着ていたのかしら」

「さすがにいつもではございませんよ。特別な日だけです、昔も、今も」


 メノウのあしらわれたかんざしが結い上げられた髪に差し込まれる。まるで千年前にさかのぼったような古臭い服飾の中で、簪だけが妙に現代味を帯びてキラキラと輝いていた。


「さあ、後はお化粧だけですわね」


 着付けをほどこしてくれた女官は嬉しそうに化粧箱を鏡台に置いた。


「あの、小夜は……」

「小夜様でしたら、今別のお部屋でお着替えをされていますわ」


 黎と同じように動きにくい着物を着させられて、白粉おしろいを施されているのだろうか。別々の控室に連れていかれた時、黎は少し泣きそうになるほど不安だったが、それを聞いて少しだけ安堵した。と、


「失礼いたします」


 ノックと共に別の女官が入室してきた。その女官は黎を着飾っていた女官に何か耳打ちすると、わずかに顔を曇らせて頷く。


「申し訳ございません、黎様。少し席を外させていただきますわ」


 そう言って女官たちは連れ添って出て行った。部屋に一人になると、黎はようやくまともに呼吸が出来たみたいで脱力する。


「皇族の儀式ってこんなに大変なのね」


 朝から冷たい水で全身を清められ、重たい着物を着させられて髪を結いあげられて、身体が人形のように強張ってしまいそうだ。

 ふと黎は窓の外に目を向ける。外は眩しいくらいの快晴。雲一つない青々とした空の中を鳶が飛んでいく。


「……」


 黎は何故かそれを見て泣きそうになった。あんなに悠々と美しい空を飛ぶ鳶と、こんな重りを纏って動けない自分。窓の外は目も開けられない程眩しくて、どうしてか胸が苦しい。

 外の世界はこんなに眩しかっただろうかと、黎は右手で目を覆う。――その時、だった。


「――黎、黎!」


 窓の下から声がした。黎は慌てて窓を開けると、


「小夜⁉」


 窓の外で身を隠していたのは小夜だった。黎と同じように礼服を着た小夜は、いつもと同じ悪戯っぽい笑みで口元に指をあて「静かに」と呟く。


「こんなところで何してるの?」

「女官たちがいなくなっちゃったから抜け出してきちゃった。本殿の方で何かあったみたいよ」


 黎は口を開けて放心してしまった。黎のところの女官もさっき仲間に呼ばれて慌ただしく出て行った。どうやら騒ぎと言うのは本当らしい。が、


「黎、今が好機よ。今度こそ外へ抜け出す道探しに行きましょう」

「い、今から⁉ 今日はもう儀式の日なんだよ。こんな日にいなくなったら」

「女官たちより先に戻れば平気よ。ほら!」


 小夜が窓の外から手を差し伸べた。その時、黎の心臓がどくりと鼓動を速める。


「その一番上に着てる長ったらしい奴と、袴一枚脱げば走れるわ。早く!」


 いけない事だとわかっているのに、黎は無意識に自身を拘束していた汗衫と袴を脱いで小夜の手を取っていた。

 黎は光の世界に引っ張り出された。鼓動は鳴りやまない、不思議と黎は笑っていた。




 女官たちは本殿の方に行ってしまったのか、庭には誰の姿も見受けられなかった。少し軽くなったとはいえ動きづらい袴姿で黎と小夜は堂々と庭園を駆ける。


「ほら、ここ! この間調べそびれたところ」


 そこはこの間黎が泣き出したせいで惜しくも宮の者たちに確保されてしまった茂みだった。今度こそは、と小夜は腕をまくりつつ躊躇ちゅうちょなく茂みに飛び込む。黎も一瞬迷って、着物が汚れるのも構わずその後に続いた。


「この辺にあるはずなのよ絶対! 壁が崩れて通行できるっていう穴」


 細かい枝葉をかき分けて小夜がうなる。その後を歩く黎は、ふとその枝葉の影に隠れた瓦礫がれきの破片を見つけた。


「――小夜! あったよ! これ!」


 慎重にかがむと、確かに茂みの向こうに人一人が通れるくらいの穴が壁に開いていた。小夜は腰をかがめてその穴の向こうを覗き込む。そして、


「行こう! 黎」

「うん!」


 二人は顔を合わせて強く頷いた。穴は少女の自分たちなら余裕で通れるほどの大きさで、幸い着物を引っかけて破いたりする事もなく通り抜けられた。

 最後は小夜に腕を引っ張ってもらって、何とか壁の外に這い出た。白袴に付着した泥を申し訳程度に払い、顔をあげると、


「わぁ……!」


 そこは珀宮はくのみやの北側にあたるところで、山の中腹に位置する宮廷の下には広大な帝都の景色が広がっていた。

 ひしめき合う建物、地に張り巡らされた路面電車の線路、豆粒のように小さな人々、そして通りのところどころには今日の晴れの日を祝うための茜と瑠璃のはたと装飾が散りばめられている。皇居の壁に隔てられた先にある圧巻の景色に、黎はおろか小夜ですら言葉を失った。


「帝都ってこんなに広くて大きいんだね」


 まだ幼い黎たちは知らなかった。自分たちの暮らす街がこんなに大きくて、そしてたくさんの人が暮らしていた事を。生命の脈動に溢れ、町そのものが一つの生き物のように息づいている事を。

 気づけば黎と小夜はギュッと手を握り合っていた。今目の前に広がる光景に飲み込まれてしまいそうで、黎は我知らず身震いする。もし黎が一人でこの広い世界に放り投げられたら、荒れ狂う大海原に投げ出されたような不安と焦燥が黎を襲う。


 黎は隣にいる小夜の横顔を覗き見た。小夜も同じように町の景色に見惚れているけれど。


 ――もし、こんな広い世界で小夜と離れ離れになってしまったら、黎はどうなってしまうのだろう。


 想像を絶する恐怖だった。黎は小夜と離れ離れになってしまう事がこの世で一番怖い。小夜がいなければ、黎はきっと呼吸することも出来ない。


「ねえ、小夜――」

「なあに、黎」


 置いていかないで、と言葉を紡ぐことが出来ない。言葉にすれば最後、二人が離れてしまう事が現実になりそうで――。

 小夜は不思議そうに首を傾げた。黎はずっと心の中で叫ぶ。


 あの時座敷童に言った言葉の意図がようやく自分で理解できた。自由が無くても、一緒にいてくれる人がいればいい。――裏を返せば、たとえ自由でも一人は怖い。


 置いていかないで。置いていかないで。どうか――。


 少女の願いが泡となって弾けていくその刹那、


「いい景色だろ」


 突然背後から声がして吃驚びっくりした二人は思わず抱きしめ合った。恐る恐る振り返ると、先ほど黎たちが這い出してきた穴のすぐ側に一人の男が立っていたのだ。

 まだ若いが少年とはいいがたく、少なくとも黎たちよりはずっと年上だ。白いワイシャツに黒のスラックスという典型的な洋装のスタイルで、壁に寄りかかって腕を組む姿勢だがどこか優雅な気品を漂わせる。こんなところにいるからには宮廷の関係者だろうが、黎はその姿を見た瞬間、夢から覚めたみたいにハッとした。彼の姿、その既視感が喉の奥から静かに込み上げてくる。


「あ、あんた、何者よ! いつからそこにいたの!」


 食って掛かったのは小夜だった。動けない黎をかばうように立ち、目の前の男を睨みつける。すると男はあろうことか肩を震わせて笑い始めた。


「な、何が可笑おかしいのよ⁉」

「いやいや、威勢のいいお嬢さんで。――いつからいたかと言われたら、『最初から』だよ。ここで町を見下ろしていたら、突然そこから愛らしい兎が顔を出したものだから、ちょっと吃驚した」


 その回答に小夜は数秒固まって、顔を真っ赤にして再び怒鳴り散らした。


「私は兎じゃない!」

「じゃあキャンキャン吠える小型犬かな?」

「犬でもない! もうっ、何なのよ!」


 すっかりへそを曲げた小夜は悔しさのあまり地団駄を踏んだ。黎はそんな小夜を宥めつつ、穏やか視線を送ってくるその男をじっと見つめた。


「で、そっちのお嬢さんは、何か質問はあるか?」

「……座敷童」


 黎が呟くと、小夜は怪訝な顔をして、そして男は豪快に笑いだした。その笑い声にあっという間にあの日の夜の記憶が呼び覚まされる。


「あっはっは、よく覚えていたな。夢で片付けられるかと思っていたのに」


 あの幻想的な夜の庭で出会った時は彼を本当にあやかしたぐいだと信じて疑わなかったが、今太陽の下で見るその男はそんな怪しげなものでは全くない。正真正銘生きている人間だ。


「ねえ、黎。この男、誰だか知ってるの?」


 小夜が黎に尋ねた。知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。黎はどう答えていいかわからず、小さな唸り声をあげて俯く。

 小夜は黎とは反してキッと男を睨みつけ反抗の姿勢をとる。


「君が小夜か?」

「見ず知らずの相手に答える義理はないわ」


 小夜と男はしばし睨みあった。正確には面白がっている男に小夜が敵意むき出しで食って掛かっている、そんな状況なのだが。側でそれを見ていた黎はハラハラと様子を見守る。


 睨めっこの勝者は小夜だった。


「ちょっと、さっきから笑いすぎじゃない⁉」

「いいや、いいんだ。君は悪くないよ、こちらの事だ」


 男は目に涙を浮かべて肩を痙攣させる。「そうか、そうか」と何かを噛み締めるように何度か頷くと、


「悪かったね、お嬢様方。せっかく宮廷を抜け出したのに邪魔をしてしまった」


 男は柔和な笑みを浮かべる。


「町に行くんだろう? 早くしないと宮廷の人たちに気づかれてしまうよ」


 その言葉に黎と小夜は顔を見合わせた。眼下に広がる帝都から二人を誘うように祭囃子まつりばやしの音色が聞こえてきたが、


「行かないわ」


 答えたのは小夜だった。小夜の表情は苦い。その顔は双子の黎でもめったに見る事のない、小夜の思い悩む顔だ。


「何故? そこの脇道を降りていけば、宮の人間に知られずに麓まで行けるのに」

「出来ないわよ、そんなことしたら――宮廷の誰かが辞めさせられちゃうわ」


 黎も口を真一文字に結んで俯いた。小夜はわかっているのだ。いつも自分勝手で反抗的で、周りの人間を振り回すけれど、越えてはいけない一線を見誤るほど愚かではない。口では文句や不満ばかりだけれど、本当は誰よりも臣下の事をわかって、大事に想っている。


「……君はちゃんとわかっているんだな。それを聞いて安心した」


 すると男が小夜の頭を乱暴に撫でた。突然の衝撃に小夜はまた顔を真っ赤にして怒り出す。


「ちょっと! レディの身体に気安く触れるんじゃないわよ!」

「それは失礼。ならお詫びにいい事を教えてあげよう。ここの抜け穴の噂を流したのは私なんだ。噂好きな宮廷女官たちを上手く利用して、ね」

「な、なんで……そんな事」

「どうしても、君に会いたかったんだよ」


 男は小夜の前に立膝をついた。滑らかで洗礼された挙動に小夜の呼吸が一瞬止まる。隣にいた黎も息を呑んだ。その光景は物語の挿絵のように美しく、只々ただただ目を奪われる。


「一週間前、皇太子の成年の儀に参列するため、久遠院家のご令嬢二人がこの宮廷に滞在する事を聞いた。私は彼女たちがどんな子たちなのかを知りたかった。でも、童子とはいえ婚前の令嬢の元を堂々と訪ねるのは気が引けてね、それで知恵を振り絞って、どこか宮廷の者の目の届かないところで会う方法はないかと考えたんだ。噂ではお転婆で探検好きと聞いたから、きっと喰いつくと思ったんだけど。どうやら予想は当たったようだ」


 その瞬間、小夜の顔が熟れたリンゴみたいに真っ赤に染まった。ここ数日の小夜の行動はこの男の策略の上であった事に、今更ながらに羞恥を抱く。そして、


「それから、君も」


 男は黎の方を向いて、


「あの夜池の前で君に会ったのは本当に偶然だけど、まさか君が彼女の片割れだったとは」

「え……」

「私はあの時、君が――いや、やめておこう」


 男は不自然に言葉を途切れさせると、静かに立ち上がった。


「二人とも誤解しないで欲しい。別に邪心じゃしんとか悪意を持って君たちの前に現れたわけではない。ただ、今日の日を迎えるにあたって、儀式の前に一度会っておきたかったんだ。私の――」


 その時、黎たちのいる高台から伸びた塀沿いの道の向こうからバタバタと足音が近づいてきた。女官たちや侍従長、挙句の果てには内大臣までもが、血相を変えてこちらに走り寄ってくる。


「殿下! こんなところにいらしたのですか⁉」

「ああ、どうやら時間切れの様だ」


 男はやれやれと立ち上がり天を仰いだ。それに対し臣下たちはもはや怒っているのか慌てているのかも判別できない程息を振り乱して男に叫ぶ。


「殿下! 今日は大切な儀式の日です! 今日ばかりは時刻が来るまでお部屋にいらしてくださいと念を押したはずでしょう!?」

「わかった、わかった。もう戻るよ。儀式の準備をしないとな。――そうだろ、お嬢さんたち?」


 不敵に笑う男、彼を殿下と呼ぶ大人たち、儀式の準備、それはつまり――。


「自己紹介が遅れたな。俺はあきら今上帝きんじょうていの第一皇子。――小夜、君の許嫁いいなずけだ」


 そして煌は黎の隣で同じように固まっている小夜の手を取った。


「それではまた、宵暁珀しょうぎょうはくの前でお会いしよう」


 うやうやしく礼をした煌は、なぎのように静かにその場を去って行った。黎はちらりと小夜の顔を覗き見る。彼女は目を見開いたまま固まっていた。その視線は煌の去った方向に注がれ、微動だにしない。


「小夜、大丈夫?」


 黎が声をかけても小夜は黙ったままだ。相変わらずリンゴの様に赤くなって、煌が消えていった方向を凝視していた。

 やがて黎たちも駆けつけた女官たちに促されて宮廷内へと連れ戻される。嵐が通り過ぎたその秘密の場所には鳶の声だけがこだました。

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