第一話 成年の儀②

 ◆

 その夜の事。ホーウ、ホーウ、というミミズクの鳴き声に黎はふと目を覚ました。外は暗い。どうしてだか、日も昇らない真夜中に黎は目覚めた。

 今自分が横たわっているのは普段眠っているのとは違う天蓋てんがい付きの寝台。広い部屋には同じものが二つ並べられていて、もう片方の寝台を覗き込むと布団の小山はわずかに上下運動を繰り返していた。

 小夜は静かに眠っている。ならばなおの事、どうして目が覚めてしまったのか自分でもよくわからなかった。部屋はさほど暗くない。恐らく外の月明りのせいだ。闇の中でもうすぼんやりと部屋の様子がうかがい知れる。シンと静まり返る部屋の中で、黎は上半身を起こすと布団から這い出た。何故だか妙に目が冴えて、そわそわと落ち着かない。小夜を起こさないように部屋の扉を開けると黎は廊下に出た。

 廊下には庭に面してガラス戸が建てられており、内裏の広大な庭が一望できる。左右に続く廊下は長く伸び、その先は暗くて見えない。不思議な事に誰の気配もなかった。本来なら何かあった時のために女官たちが近くに詰めているはずだが、その様子もない。

 黎は少し違和感を覚えながらも、不思議と寝台に戻る気にはならなかった。こういう場所だと、いつもならお化けが出るんじゃないかとおびえる黎だったが、今晩は何故かちっとも怖くない。ガラス戸の向こうを覗くと美しい満月が昇っていた。明るくてまるで昼間みたいに庭が一望できる。黎は吸い寄せられるようにガラス戸を開けて庭に出た。


 履物も履かずに素足のままで、冷たい敷石の上を歩いた。

 またホーウ、ホーウとミミズクの声がする。それから芝生や垣根から虫の音も。少し離れたところにある溜め池からはかえるの鳴き声もした。

 夜の庭は思いのほか賑やかで、黎は寝間着の襟元を握りしめながらそっとその音色に耳を傾ける。

 夜の徘徊なんてした事のない黎が、今日はやけに浮ついた気持ちになっていた。昼間、小夜と宮廷を抜け出そうとして怒られたせいだろうか。まるで何かに吸い寄せられるみたいに、黎は一人で夜の庭を歩いた。


 敷石を辿って歩くと大きな池に辿り着いた。池に繋がる水路に架けられた桟橋さんばしの上から水面みなもを覗き込むと、その下を立派な鯉が泳いでいる。水は透明に透き通り時折鯉が水面を揺らすと映った月がゆらゆらと揺れ瞬いた。その上を、すいと仄かな光が横切ったので黎は顔を上げた。


「蛍だ」


 気が付くと池の周囲に同じようなともしびうごめいている。闇に沈む池に広がる星々はそれだけでため息が出るほど美しかった。――と、


「蛍を見るのは初めてか?」


 夜の音の中に、低い澄んだ声が混じる。黎はハッと顔を上げた。


 蛍に見惚みとれていた黎の隣に男が立っていた。年はまだ若く、きりっとした目と眉に印象付けられた精悍せいかんな顔立ちからは雄々しさを感じさせる。だが、月明かりに照らされているせいかその輪郭はなんだか曖昧で、黎からそれほど離れていないところに立っているはずなのに、まるで蜃気楼のように遠く感じる。腕を組んでこちらを面白そうに覗き込んでくる男の姿に、黎は思わず飛びのいた。


「おっと、怪しいものじゃないぞ」


 男はおどけた調子でそう言った。だがこんな真夜中の内裏の庭に突然現れた者を怪しく思わない事は難しく、黎は恐怖で足がすくみあがる。


「何者、ですか? 泥棒? 狐? それとも幽霊?」


 黎が震え声で尋ねると、男は虚を突かれたように固まって次の瞬間声を上げて笑い始めた。笑い声は周囲の澄んだ空気を震わせ、高く空に昇っていく。この宮廷中に響き渡るような声だったが、やはりここには黎と男以外誰もいない。


「そうだな、私は泥棒でも狐でもない。でもしいて言うなら、……君は座敷童ざしきわらしを知っているか?」

「座敷童?」


 家に棲みつく童の姿をした妖怪の事だ。害は特になくただそこにいるだけ、場合によってはその家に繁栄をもたらすなんて伝承もある。


「私は座敷童みたいなものだ」


 男は真面目にそう答えるものだから、黎は言葉が出なかった。座敷童にしては随分と大柄な男に、ますます不信感は募る。だが『人ならざる者』という点では間違いではない気もした。青白い月明りに照らされた男の姿はどこか浮世離れしていて、それでいて真昼に見る陽炎かげろうのように瞬いて見えたからだ。

 光をまとう男の指に、一匹の蛍が音もなく止まった。まるで光を集めているようで、それは幻想的な光景だった。


「蛍は限られた場所でしか生きられない。澄んだ水に樹木や土壌、あらゆる条件を満たしたところでなければ彼らは住むことが出来ない。皇居では毎年蛍観賞が出来るようにと庭師が環境を整えてくださっている。こんな都会で蛍が見られるのは珍しいことかもしれない。――でも自由はない。彼らはこの狭い箱庭の中で生き、観賞用としてその命を終える」


 蛍は男の元を離れ仲間のいる水辺へと戻っていった。ふと、男が黎に目を向けた。またたく黒曜石は、夜の庭で穏やかに輝いているのにやはりどこか燃えるように熱かった。


「私もこの蛍たちと同じだ。定められた箱庭に何もかも整えられて、不自由はないが自由でもない」

「座敷童なのに自由に生きられないんですか?」

「そうだよ、生きられないんだ」


 座敷童は悲し気だった。それは少しだけ彼の顔立ちを幼いものに見せる。不安に押しつぶされそうな、少年の顔だ。


「常に人の目にさらされ、気高くある事を強要される。とても息の詰まる生き方だ。でも、私は箱庭から出るつもりはない」

「どうして?」

「それが私の使命だからだよ」


 二人の間を生ぬるい風が通り過ぎる。周囲の木々がざわざわと葉音を鳴らした。しばしの間、黎と座敷童はお互い無言で見つめあっていたが、


「……つまらない話を聞かせてしまったね。散歩の邪魔をしてすまなかった」


 座敷童がきびすを返すので、黎は思わず彼を呼び止めた。


「待ってください」

「……?」

「あの、――」


 どうして呼び止めてしまったのか自分でもよくわからない。戸惑いに体中を支配される中で、それでも黎は口を開いた。


「……箱庭の中にも、幸せはあると思います」

「……」

「自由でなくても、嬉しい事とか、楽しい事はあると思います。例えば……、誰かが一緒にいてくれて、笑ってくれるとか……」


 黎はふと小夜の顔を思い出した。もし黎が小さな箱庭に閉じ込められたとしても、小夜が傍にいてくれれば、きっと寂しくない。

 黎の言葉をどう受け取ったのか、座敷童が再びこちらに近づいてきた。さっきよりも近い距離で、座敷童は黎の顔を覗き込み、


「――なら、君が一緒にいてくれるか?」

「……⁉」

「冗談だ」

「あ、あの……!」

「またな」


 座敷童は口角を上げると、そのまま立ち去ってしまった。

 黎はしばらくそこを動く事が出来なかった。ただじっと彼が最後に残した言葉と表情を脳裏に思い出すばかりで、その後どうやって寝室に戻ったのか、目が覚めるといつもと変わらない空と庭が窓の向こうに広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る