特別観覧席:走る人間、見守る人間
まるで何かにおびえるウサギのようだった。外では強気にふるまっていたけど、心の内には弱い彼がいた。自分の出身校に通う少年にどこか愛着が沸いたのは、どこか昔の自分に重ね合わせる部分があったからかもしれない。そんなことを、特別観覧席の質素な椅子に座る元警察官の栗田は考えていた。うちは親がずっといなかったがなんとか盗みはやらず、前科なしで警察官にまでなれた。唯一店の物を盗ろうとした時は、それを見つけた従業員が不問にしてくれたし、八百屋のおばさんはいつも野菜を分けてくれた。自分とは違って周りの人に報われなかった彼に同情して、その少年に自分も大好きだった陸上を続けさせて、なおかつ上司に頭を下げて事件の犯人を死んだことにした。日本の法律を踏みにじる行為に、意外と迷いはなかったし上司も同じだった。それ以来、彼の様子を見て金銭的にも援助し、我が子のように扱ってきた。
彼が本当に自分の子供だと知ったのはつい最近だった。
川島花は、とにかく見ず知らずの他人にも優しくできる、本当によくできた人間だった。彼と長い間交際して結婚の約束までしていた彼女だったが、ある時ふとしたきっかけで薬物に依存してしまった。昔の優しさは消え失せ、空虚で人を罵倒する理不尽な人格のみが残り、ついに彼女は栗田を捨てて出て行った。栗田は、彼女を探そうとしたが、ついに見つからなかった。こんなに近くにいるとは夢にも思っていなかった。ましてや、出て行ったとき彼女が妊娠していたとは露ほども知らなかった。今思えば、犯行に使われた拳銃は自分の家から彼女が持って行った物だった。我が子と判明したことは、まだ東吾には伝えていなかった。栗田は、東吾が実際自分の子でも違っても、全く関係ないと思っていた。周りの人が自分を心配してくれたように、人に愛情を注ぐのに実際の親である必要などないのだ、と確信していた。
彼は白熱したレースを眺めた。今回のレースは自分が企画して自費と町の人たちの募金で開催した。走者たちも当然無料で参加してくれたし、町の人たちの中にもなかなかの金持ちがいたため、なんとか今日まで漕ぎつけられた。走者は、ちょうど五年前の高校での拳銃殺傷事件で人生が変わった選手を集めた。事件で仲間を失い、しかしそこから這い上がって一流選手となった神山。事件をきっかけに陸上競技を始めた柳と竹下。そして、事件を起こして自分までも消そうとしていた藤田。性別も、年齢も、本来の出場距離も違うかれらが、最も本人たちは知らないだろうが一堂に会し、一つのレースを構成している。そのことに栗田は、非常に感動していた。
栗田は全体を一瞬眺めてから、トップを走る東吾を見つめた。
元の名前を三好ケンジといった彼を。
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