第4レーン:走る意味

幼いころから、「次お前ん家遊びに行っていい?」と聞かれるたび、何も言えなくなっていた。母親は家にいると酔っぱらって寝っ転がっているだけだったし、父親に至っては誰かも分からない。家に来る男は数か月に一度入れ替わっていたし、誰一人自分の事なんて気が付いてはいなかった。ご飯も自分で作っていたけどお金ももらえていなかったので盗みを働くようになり、何度も警察の世話になった。食事をくれるだけ、親よりマシだった。そんな自分でも受け入れてくれたのは、陸上競技の世界とそのチームメイトだった。当然直接話してはいなかったが、彼らは自分が犯罪者と薄々感づいていながら普通に接してくれた。走っているときは全て忘れられたし、仲間と競い合って成長するのは単純に楽しかった。自分にとって、初めての居場所で、「家」だった。だが、その家すらも自分が壊してしまった。


逃げ惑う人々、「止めろ」と叫ぶ人々、ピクリとも動かない人々。それを引き起こしたのが自分だと、心のどこかでは知っていた。でも、まるでおとぎ話の中にいるみたいに、この状況が非現実的だった。頭では何も考えていなかった。その一時間前に、知らない人から「母親が死んだ」と連絡されたのだ。交通事故を見た人かららしく、近くに落ちていた母の手帳に書いてあった番号にかけたらしい。いてもいなくても変わらない母親だったが、それを聞いてもう未来が見えなくなった。親なしで生きていくには、自分は弱すぎた。もう、それからは死にたいとしか考えられなくなった。しかし、いざ警察がくると、足は動き出した。ああ、またか、と考える間もなく、ランナーズハイに入った。足だけはすごく速かったので、たまに警察からも逃げおおせていた。まあ、どうせそのあとに捕まるのだが。まるで陸上のレースかというほどの速度で走りだしたが、いつもと違いこの時は、突如として自分の「良心」らしきものが話しかけてきた。「現実と向き合え」「夢じゃなく前を見ろ」と。それを聞いて、止まろうと思った。それは、人の目を盗んで棚の商品を取ったり、絡んでくる不良を気絶させるより、遥かに難しかった。しかし、良心は語り掛け続け、自分は念じ続けた。「我に帰れ」「頼むから足をとめてくれ」。だんだん自分の走る速度は遅くなりついに止まった。体感では何時間も格闘していた気分だったが、実際は10秒ほどの出来事だったらしい。その後、警察に逮捕されたが、やはり自分は死ぬことしか考えておらず、何度も留置所で死のうとした。その、まさに死にかけの自分を拾ってくれたのは、ある警察官だった。——当時の事を思い出しながら、藤田東吾は50メートル地点をトップで通過した。彼は自分を、ある条件で解放し、自分の起こした事件の犯人は死んだことにしてくれた。その条件が、「陸上を続ける」ことだった。最初は当然「殺人犯が走っていいのか」と自分で委縮してしまい結果が出せないまま3年が過ぎた。その間も、自分が嫌っていた警察官は励まし続けてくれた。「お前が日本を代表する選手になることが一番の罪滅ぼしだ。」その声を、叱咤激励を追い風に自分はより力を出せた。最初は事件の前に比べて一秒以上遅れていたタイムも少しづつ改善していき、ついには本当に日本を代表する陸上選手になった。多くの人が自分のせいで被害を被ったし、自分を守るために身を粉にして動いてくれた警察官も、常に見守ってくれている。だから、例えばこの公式記録にならないレースでも、自分は負ける訳にはいかないんだ。


藤田は、過去から逃げず走って夢をつかみに行くと決めていた。

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