乞う

@ubazame

第1話

 薄い氷の膜が張っている床。感覚がない手先。体中にこびりついた血は、もう固まっていて、痛いという感覚は、すでになかった。こんなことは、日常茶飯事だ。違うものは、周りが鉄の壁で、鉄格子がはめられてあること。けど、あんまり変わりはない。むしろ風が入ってこないからここのほうがいい。

 また、物を壊すか。

 彼が捕まった理由は、国立図書館の本を破ったからだ。今は冬季。外にいては凍え死んでしまう。誰でも出入りが自由な、国立図書館は、最小限でも、火が絶えず灯っていて、風雨にさらされることがない。彼のような孤児にとって、素晴らしいものだった。



 

 埃っぽい本が並んだなかの、ポツンと置かれている机に突っ伏して寝ていると、彼の隣に誰かが座った。

「やぁ少年」

 のそ、と少年は頭をあげる。そこには、真っ白な背広の服を着た、いかにも裕福そうな紳士が、得意げに座っていた。

「なに」

 邪魔だと言われるか。それとも叩かれるか。

「おや、言葉は喋れるのだな」

「……」

 少年は、答えずもう一度、寝ようと顔を伏せた。

「まぁ待て。少年のような者はこの本を読んだほうがいい」

 少年はめんどくさそうに顔を顰めて、分厚い本を見た。

「人間の真理が書かれた本だ。死んだ目をしていたからな。これを読むと、生きるための力が湧いてくるのだよ」

 少年は、また顔を伏せた。

「1ドルやろう」

 少年が顔を上げる。紳士から本を受け取り、顔を近づけて読み始めた。

「ひと、は。よ、わ、く。す、こ、しの。こ、こと、で。・・・ぜ、つ、ぼ、う。し、てしま。う、が。い、いきる。た、めの。も、も、も、く、ひ、よう。をたて、れ。ば。いき、る。か、かつ、り。よ。くが、う、ま、れる」

「人は弱く、少しのことで絶望してしまうが、生きるための目標を立てれば、生きる活力が生まれる。ようは、やりたいことがあれば強く生きれるということだ」

 少年は、目線だけ紳士に向けて言った。

「意味が分からない。なら、目標がなければ人はどうするんだ」

 紳士は、む、と眉を引きつらせた。

「そうだな。極端に言えば自殺とかするかもな。好きな女がいなくなったり、破産とかしたりするとなるな」

「・・・自殺?」

 水色の瞳を、光がなぞった。

「自ら命を断つことさ。自分を殺すんだよ」

「なんで?」

「だから、絶望するんだよ。人生に」

 少年は、一瞬、息を飲んだ。前髪が目にかかる。

 その日は、運が悪かった。食べ物を漁っていたら、近くにいた店の主人に殴られ、周りにいた子供達の笑いものにされた。女たちは、ゴミでも見るような目をして鼻を覆い、すぐさまドアを閉めた。

 その日は、運が悪かったのだ。

「……っけんな」

「は?」

 ぐ、とひいた口角。鋭い犬歯がのぞいた。

「ふざっけんなよ!!!!!!」

 少年は持っていた本を思いっきり引き裂いた。真っ二つに裂けた本を、少年は紳士の顔に叩きつける。

「そんなことで死ぬくらいなら俺にくれよ! もったいねえことしやがって。なら今生きてる俺はなんだ!! 俺は人だぞ!!! 人並みの生活してるやつが、高望みしてんじゃねえよ!!!!!!」




 そんなこんなで、一通り暴れて、捕まり、ここにブチ込まれた訳だが。

「……くそ」

 こうなることは分かってた。あそこで、我慢して1ドルもらったら、今頃温かいスープ飲んで寝てたころなのによ。空腹はクソだ。慣れても慣れても定期的に焼け付くような痛みが走る。寝ようと思っても、すぐに現実に引き戻される。

「本なんかで腹が膨れるかよ」

 普通の奴らから見えてる俺は、人じゃない。犬とか、猫とか、ネズミとか。孤児なんて、そんなもんだ。孤児が珍しいところなら尚更。なんならあの背広の男のほうが俺を人として扱ったな。言ってることは意味わからなかったし、腹も立ったけど。俺に心があると思ってた。

「………………はっ」

 レイは、がりがりの体を、猫のように丸めて、うとうとしながら一夜を過ごした。



 もう随分と日が高く上がった頃に、レイは釈放され、フラフラと路地に入った。行くところはレストランの裏。あそこに行けば、何かしら食いもんがある。

 耳の中で、気持ち悪い音がなってる。ゆらゆらと地面が揺れた。壁にもたれながらなんとか、目的地に到着する。足の間を、ネズミが通り過ぎた。ゴミ溜まりに半ば倒れるように手をつっこむと、無我夢中で腐ったパンや、果物の皮を口に詰め込んだ。

 しばらくして、ようやく空腹が収まると、そこらへんに転がっている比較的綺麗そうな雪を、シャクシャクと食べた。口の中で溶けた雪が乾いた喉を滑り落ちて、レイは長く息を吐いた。寝床を探さなければ。そう足を踏み出そうとした時、視界の端に何かが写った。人だ。倒れている。普段ならそのまま気にせず歩き去っていたところだが、そいつが着てるものは、暖かそうだった。近づいていくと、それが女だということが分かった。

 好都合だ……

 その服に手を伸ばしかけて、レイは、はたと動きを止めた。女は、苦しそうに息をしていた。背格好からして、自分と同じくらいの年齢だ。着てるものに血がついている。直ぐ隣には、血がこびりついた矢が転がっていた。

「…………大丈夫か」

 そ、と触れるが、女は返事をせず、ただ苦しそうに息を繰り返している。

「……」

 うつ伏せになっているのを、裏返すと、女はうめき声をあげた。

 血が出ているところは、ふとももだ。

 ズボンを脱がしてそっと傷口に触れると、ものすごい力で手首を掴まれた。

 女の顔を見ると、ほんの一瞬、水縹の瞳が瞼の下から見え、また、すぐ閉じた。レイを掴んでいた手も、ぱたりと落ちた。レイはそれを一瞥して、女のズボンを引き裂くと、丁寧に、患部に巻いた。止血の方法は分からないが、おそらくこれで血は止まるだろう。女を、壁際に寄せて、レストランのゴミ溜めから、比較的食べれそうなものを近くにおいた。

「……頑張れよ」

 思わず、そんな言葉が出て、レイは固まった。一瞬自分が何をしたか分からなかった。いや、今の言葉だけじゃない。なんで俺は見ず知らずの女の世話をしてやったんだ? 自分がした行動がよく分からなくて、ぱちぱちと瞬きをする。屈めていた腰をあげて、首を傾げながらも、踵を返した。











 そこまで書いて、カノは顔を上げた。

 目の前にいる黄色みが強い巻き毛の金髪の男。まさにこの物語の主人公であるレイは、自分の伝記が書かれているというのにまるで興味なく、頬杖を立てて窓の外を見ている。

「ねぇ、私も不思議だわ。なんでユリさんをレイさんは助けたの?」

 水色の瞳が、一瞬こちらを見て、またすぐに外へと逸れた。

「それは、書紀としての質問か?」

「いいえ、個人としてのよ」

 間髪入れず答えたが、レイは相変わらず窓の外を向いたままだ。その無表情の顔からは、質問について考えてるのか、答えるつもりがないのか、まったく分からない。それでも、カノは根気強く待った。沈黙が二人の間に沈むが、重苦しくはない。

「……」

「……はぁ」

 カノの視線に耐えられなくなったのか、レイがため息をついてカノの方に体を向けた。

「なんでお前ら達はそんなに人の生に首突っ込むわけ? 仕事だけしてればいいのに」

 乱暴な言葉とは裏腹に、レイの顔には苦笑が浮かんでいる。

 カノも、ふっ、と苦笑した。

「仕事だけれど、気になることは聞きたいのよ。少し前の私ならそのままにしていただろうけど。……ユーラの受け売りね」

 カノの瞳は、遠くを見ていた。レイも、思い出すように顔を上げて、へぇ、と声を漏らした。

「あなたとは相性が悪かったと思うわ」

「だろうな」

 レイの記憶では、ユーラは酷く殺気立っている。運命という名の、仕組まれた路線の中を、無理やり歩まされた女。無理やり歩かせるために自由を奪え、と命じられ、実行したのは俺だ。大義でもなんでもない。自分の快楽を満たすために命令に従った。酷く怯え、猛々しく、自分の命を最後まで光り輝かせていた。強く、自分を睨んでいた顔を思い出して、自分とは違う人間だと今でも思う。それでも、境遇は似ていた。別に興味もなかったけど、あんな戦いがあったから、嫌でも互いの事を知った。

 あいつが死んで、悲しいとは思わないが、少しは同情する。

 目の前にいる女は、あれを思い出しているのか、さっきの強かな力はなく目を伏している。

 家族ではないものの、家族のような人が目の前で死んだのだ。それも、あんな形で。

 ……そういえば、こいつも孤児だったな。

 しん、と胸の中が静かになった。

「…………多分だけど」

 カノがゆっくりと顔を上げたのを感じながら、レイは、自分の手を見つめた。

「人に、なりたかったんだと思う」

 人? とカノが問いかける。頷くと、自分でもその表現が、ストンと胸に落ちた。

 過去を思い出すのは苦手だ。口で表すのも。それでも、あの時の行動は、今ではよく分かる。

「背広の男が、俺を人として扱ったから、人っぽいことをしてみたかったんだと、思う。人っぽいことをしてたら、周りのやつらが、もしかしたら人として扱ってくれるんじゃないかと、思ったんじゃないか、な」

 おずおずと顔をあげると、意味がよくわからないといった顔をしているカノと目が合った。

「………………つまりあなたは、人を助ければ、その、あなたの言う『人』として扱ってくれるんじゃないかと思ったの?」

「うん。多分」

 やっぱり、同じ孤児だったとしても、境遇が違いすぎて分からないのか。あ、いや。そもそもこいつは孤児ではないのか。里親がすぐに見つかっているのだから。

 それが分かると、胸の中が、すん、と冷めた。

「レイさんの中の、『人』っていうのはどういう人のことを指すの? 人として扱うって例えばどういうこと?」

 次は、レイが何を言っているのかという表情になる。そして考える素振りもなく、カノを指差した。

「お前みたいなやつのこと? というかそこらへんにいるやつらは全員人だろ。人として扱うっていうのは、まぁ普通に話したり、急に暴力を振るわれないってことじゃね?」

 駄目だ。話が合わない。自分がそんな目にあったことがないから分からない上に、矛盾だらけなのだ。レイさんの理論でいけば、その虐げられていたときも、レイさんは人ということになる。だけど、レイさんは『人』になるためにユリさんを助けた。つまりレイさんは、自分が『人』だと思ってなかったってこと。

「あなたの中では、『人』というものは、人を助ければなれるの?」

「……さぁな。少なくとも、あの頃はそう思ってたんじゃないか?」

 あの頃って……

 カノは愕然とした。レイさんの言うあの頃は、人に罵られ、蹴られていたころだ。それなら、尚更おかしい。レイのいう、『人』として扱われている人たちが、自分のことをまるで糞のように扱ったのに、レイさんは『人』というのは『人を助ける人』だと思っている。

 「脳内お花畑なの?」

 思わず本音が漏れた。言ってから失礼だ、と口を押さえる。慌てて謝るが、レイは、怒る素振りもなく、いや、きょとんとしてカノを見ていた。その瞳を見て、カノは違和感を覚える。

 レイは確かにこっちを見ているのだが、その瞳は、何かを思い出すように、小刻みに動いていた。そして、ふと、焦点があい、レイの眦が柔らかく下がった。

「え、どうしたの……」

 引き気味に問うも、レイは気にしていない様子で、懐かしむように笑っている。

「あんたのその言葉。ユリも言ってたんだよ」

 普段の、無頓着な表情とは、まったく違った、優しい笑み。

「ユリに、怒られたことがあって。孤児のくせに、気持ち悪いほど純粋って。脳内お花畑って馬鹿にされた」

 言葉とは裏腹に、楽しそうな声。カノの頬も、自然と緩んだ。純粋って褒め言葉じゃないの? と聞くと、孤児が純粋だったら、すぐさま死ぬ。と返ってきて改めて、レイさんとは住んでいる環境が違うと思い直す。

 でも、レイさんの言う、『人』というものが少し分かった気がした。

 それを伝えると、レイは、微妙な顔をし、こう言った。

「今では、『人』にならなければよかったと思ってる」

「それは……なんで?」

「1人じゃ、息が出来なくなるから……」

 どういう意味かと、聞くカノに、レイは、ここからは書紀として聞いて、と言った。それは、今書いている本の続きを話すということだ。カノは鉛筆を持ち直した。









 その日は、機嫌が良かった。良い寝床が見つかってぐっすり寝れた。働いて得た給料で、久しぶりに温かいスープを飲んだ。寒くて嫌な日は、段々と暖かくなっていて、薄く積もった雪が溶け始めた。

 海の見える街に移動してから数日。レイはようやく働き口が見つかり、これでしばらくは安心だと、一息ついていた。なんとなく立ち寄った飲み屋で、一番安いビールをちびちびと飲む。

「よぉ兄ちゃん! 飲んでるかぁ!!」

 ガタイの良いおじさんに思いっきり背中を叩かれた。

 「ごっほッ、ゲホッゲホッ」

 なんていうか……骨に響いた。

「あっ、悪い。にしても兄ちゃん、がりがりだなぁ。これ食うか?」

 そう言って差し出してきたのは魚のソテー。

「いいのか?」

 チラ、と男の顔を見ると髭がボサボサした中年の男が、日に焼けた顔でニカッと笑ってうなずいた。

 海の魚は初めて食べる。なんか変な味がした。

 食べてる間も、男はこちらをジロジロと見て、時折酒を口にしていた。

「……兄ちゃん。あんた、ここのもんじゃないな?」

 レイは男の顔を一瞬見て、またソテーに向き直った。

「流れもんか?」

 口の中に入った骨を噛み砕きながらレイは頷いた。男はレイの反応を見て、しばらく黙っていたが、何か納得したのか、ふ〜んと呟き酒を飲んだ。

「ここでは流れもんが珍しいのか?」

 ソテーを食べ終え、レイはようやく顔を上げた。

「いんや、ああ。まぁ珍しいが。珍しくなったのはほんの数ヶ月前さ。あの方達が来てからだ。あの方達が来てから治安もよくなったぁ。危ない奴らは、ぜーんぶ追い返しちまってさぁ。まぁ、交易はほとんどあいつらがとりしまっちまったがなぁ。俺ら大工からしたら治安が良くなったのは最高さぁ」

 男は酔いが回った様子で、気持ちよさそうに笑顔になりながら話した。

「あの方って誰だ?」

「なんだぁあんた。知らないのか? カイ様だよ。カイ様のおかげで、大工の依頼がふえてなぁ、俺んの子供はぁ、七歳を超えられた。母ちゃんもよく笑うようになったんさ」

 その言葉が、レイの喉の奥に詰まる。喉の奥が熱くて熱くて、レイは口を閉じた。よかったな、とようやく声を絞り出して、レイは、安いビールを思いっきり流し込んだ。胃の腑が熱くなって、横の男が慌てるのも気にせず、レイは飲み屋を飛び出した。

 おぼつかない足取りで、それでもがむしゃらに走って。

 苦しくて、他人の幸せが、凄く苦しくて。俺がずっと望んだものが、ずっと望んだ暖かさが。つい隣にあるのだと。そう思うと、自分の生活が、自分が、凄く小さく、惨めだと気づいてしまった。

 いっぱいあった。こう思うことは、いっぱいあった。自分が、惨めだなんて、とうに、知っていたことだ。

 酔ってるんだ。だから気持ちが、こんなに激しく。小さい頃からずっと、燻ぶっていた怒りが、願いが、酒のせいでまるで火がついたように暴れ回ってるだけだ。

 よく焼けた、油の滴るパリッとした鶏肉を食べてみたい。祭りのとき、砂糖につけた果物を食べてみたい。布の布団で寝てみたい。宿の布団で寝てみたい。人に愛されてみたい。愛してみたい。暖かさを知ってみたい。自分が暖かいことを知りたい。

 全部、俺には叶わない。

「なんッ、っで!」

 俺が孤児だから? 薄汚いから? みすぼらしいから? 俺が、誰かに愛されたことがないから? 自分の名も、自分でつけた。

 ……俺の名前を、誰が呼んだことがある?

「ぉわぁっ!!!」

 何か黒いものが視界を遮ったと思う間もなく、凄まじい上からの衝撃。からの下からの衝撃。顎を強く打ち付けて、いや、肋骨が逝った。痛い。

 ようやく、俺は理解した。上から人が降ってきたのだ。そして、そいつが俺の上に乗っていることも、いててなんてほざいていることも。

 身動きができない。目だけ上を向くと、チラッと肩まである黒髪が見えた。

「どっ、けぇ……!!」

 なんとか声を振り絞ると、上にいた影はようやくどいた。

「ゴホッゴホッ、っゲホッ」

 肺が軽くなり、貪るように息を吸う。脇腹が、ヒビが入ったんじゃないかと思うくらい痛んだ。上から降ってきたやつは慌てずもせず、何やら、カバンを漁っている。

「悪い。これで許してくれ」

 そう言って差し出された物は、銀貨二枚。レイは反射的にその銀貨をむしり取った。視界の端に、何か、白いものが映り込む。包帯だ。怪我をしてるのだ。その、怪我の位置に、レイは覚えがあった。

 顔をあげる。そいつの顔は、髪に覆われていた。

 見覚えのある髪色。見覚えのある背格好。

 体が自然に動いていた。無意識に伸びた手が、髪に触れた途端、そいつは弾かれたように俺の手を払い除けた。

 一瞬、水縹の瞳が見えた。

「あっ、あんたこの前の!!怪我していた女!」

 一拍。

 凄まじい悪寒が、背筋を走った。

 腹に、刃物が当てられていた。

「誰だ。この怪我のことをどこから聞いた」

 女とは、思えない。地を這うような声。

 ただ、運が悪かったのか、よかったのか。この時、レイは酔っていた。そもそも、酒に慣れてないやつが、強いわけがない。

「なんだよ。その怪我の血ぃ止めてやったの俺だぞ」

 声が震えていたのは気のせいだ。

 女は、豆を食らったような顔をして、刃物を取り落とし――――――。

「どぅっわッ」

 間一髪。レイはなんとか刃物を避けた。あのまま避けなければ太ももに刺さっていたかもしれない。鼓膜がドックンドックン鳴ってる。目線だけ動かし、女を見た。

 女は、気の抜けた表情で、自分の手元を見つめていた。だが、やがてゆっくりと顔を上げて、レイと目があった。

 白い肌が、さぁ、と紅色に色付く。

 それにつられてレイの心臓もドッキーンと跳ね上がった。不整脈起こしてないか? これ。てかなんで赤面した?

 女の水縹の瞳がふいっと横にずれる。

「……な、んで。助けてくれたの?」

 そう、尋ねられて、レイは、一瞬戸惑った。助けた理由なんて特にない。自分と同じように傷ついていたから? 違う。俺はあの時いつもと同じだった。女だったから? 違う。そんなの気にしたこともない。なんとなく哀れに思えたから? 違う。哀れなやつなんてそこらへんにいるだろ。

「……分からない。そんなの、知らないしどうでもいいだろ?」

 毒気を抜かれたような顔。女は、レイをそう見つめたあと、優しく、ふんわりと笑った。

「そう、ありがとう」

 安心したようなその顔に、レイは首をかしげる。貰った銀貨二枚を大事に懐に入れ、レイは立ち上がった。明日から仕事だ。早めに寝たい。

 じゃ、と立ち去ろうとしたレイの服の袖を、女が握った。

「あの、名前は?」

 間。

 「え?」

「だから、名前は?」

 なまえ、ナマエ、生餌……名前?

「あっ、名前ね!! うん! あるよある。うん。名前ね」

 女は怪訝そうに俺を見た。

「俺の名前はレイ! レイっていうんだ! あんたの名前は?」

「……私は、ユリよ」

 レイは瞬きした。

「ユリ、ってあの花のユリ?」

 こくん、とユリが頷く。

 花の名前をつけることもあるのか。

「へぇ。なんか似合わないね」

 ユリの水縹の瞳を見て言う。

 キラッとユリの瞳が反射した。

「……うん。そうだね」

 顔が髪で隠れる。ユリの良く分からない反応に、レイは首をかしげた。そんなレイの様子を無視し、ユリは立ち上がった。

「じゃあね。レイ」

 小さく手を振ってユリは、すぐ近くの路地を曲がった。

 レイは、その路地の角を、ぼーっと見ながら、思考が追いつくのを待った。

「……名前、呼んでくれた」

 そう呟くと、興奮がぐわっと腹の底から駆け上がった。初めて人から呼ばれた名前。俺が俺につけた名前。クルクルと喉が鳴った。

 気がつくと、俺は夜の道を、飛び跳ねるように歩いていた。というか走っていた。さすがに明日の仕事のことは忘れていなかったが、もう気が狂ったように笑っていた。人生で初めてこんなに笑ったんじゃないかと思うくらい笑った。人に名前を呼ばれるのはこんなにも嬉しいことか。幸福というのはこういうことか。まだ、酔いが回っているのだろうか。それとも、腹一杯ご飯を食えたからか。寝る場所があるからか。名前を呼んでくれたからか。

 絶えず、胸底から幸福がくるくる登ってくる。さながら上り飴のようだ。金糸を引きながら、くるくると上る飴。食べたことはないけども。砂糖で作られているあれは、絶対美味しいに違いない。

 くい、と顎を上げる。夜の冷たい空気が美味しい。潮の匂いが、鼻孔を揺らした。

 次の日も、その次の日も。またその次の日も。ユリに会うことはなかった。レイも、会いたいと思ったことはなかった。探しに行くこともなかった。ただ仕事をして、ご飯を食って、寝て。それだけで幸せだった。

 

 








 「ここらへんで、俺は、『人』の生活をしてみようと思ってる。人に名前を呼んでもらって、あるはずのない自信がついたんだろう」

 カノは、想像がつかなかった。本当に、自分とはまるっきり違う人生。人に名前を呼ばれるなんて、当たり前のことではないの? それでも、レイさんの表情を見ていると、痛いほど分かるのだ。

 その喜びも、悲しみも。淡々と、表情をも動かさないが、水色の瞳が、揺れる。ユリさんの話になると、見ていて辛くなるくらい、記憶の中のユリさんを思い出そうと、まるで縋るように。

 そんなに重要なのだ。『人』として扱われるっていうことは。

 初めて、『人』として扱われて、喜んでいるレイの姿が、瞼の裏にありありと浮かんだ。その姿が、痛々しく、見ていて哀れにも感じる。

「はは、哀れだろ。こんなことに喜んで」

 首を横にふりかけて、思いとどまり、こくんと頷く。

「ごめんなさい。……私は、今日まで、あなた達のような人がいるなんて思わなかった。すぐ国王陛下に伝えます。まだ、混乱期にあるけど、今だからこそ、変えなければ」

 記憶が薄れる前に、変えなければ。

 頭を下げるカノを見て、レイは頷いた。その表情は、複雑で、居所が悪いというような顔だった。

 カノは顔を上げて、筆を構える。それを見て、レイはまた、窓の外を向いた。

 瞳が、遠くを捉える。









 


 その生活が、一週間。二週間。一ヶ月。二ヶ月。

 ちょっとずつ、ちょっとずつ金を貯めて。5月にある春祭りに使おうと。そう思っていた矢先。

「ごほッゴホッ、ゔ、げほ」

 久しぶりの感覚。鉄の味がする喉。鈍痛を放っている瞼と腹。重い体。

 油断していた。最近いい事だらけで、油断していたのだ。ガンッ、と肩に衝撃が走る。思わず肩を庇うと、比べ物にならない重さの衝撃が腹に走った。肺の空気が押し出されて、ぐらりと世界が歪んだ。

「ッぅぅ」

 視界の端に、鉄棒が見えた。

 あ、やば。

 こめかみに衝撃。思いっきり首が振れて、俺は意識を手放した。



 誰かの、声がした。少し高い、女の声。

 誰だ・・?

「ッ」

 手が、頬に振れた。怖くて、びっくりしたけど、その手付きは、柔らかかった。

 酷く安心するとともに、どうしようもなく胸が苦しくなった。

 生暖かい液体が、頬を滑り落ちた。傷に染みるのに、次々と落ちてくる。

 息がし辛い、暗い視界の中で、キラキラと涙が反射する。

 暖かい。暖かい。胸が、痛い。暖かい。

「かあ、さ・・・」

 また、誰かが頭を撫でた。

 その手は、ずっと、ずっと、俺が泣きつかれて眠るまで、優しく、撫でてくれた。

 意識が浮上する。それに連れ、体の痛みもはっきりしてきた。

 体が暑い。この暑さには覚えがある。手ひどく殴られた後にでる熱。ほら、瞼が重くて上げられない。口の中がカラカラで声が出ない。

 寝てしまおう。寝たら、夢を見られる。こんな重い体とおさらばして、どこへでも飛んでいける。そういえば、さっき見た夢は・・・。

「ーーーーーーー」

 え? 誰?

 ひんやりとしたものが顔に触れた。腫れぼったい熱が取れる。

 誰かが顔を拭いてくれてるんだと、回らない頭で思った。

「口開けて」

 耳に、柔らかい声が届く。声に従って少し口を開けると、ガサガサとしたものが口に触れた。

「水よ。飲んで」

 そう言われた途端、口の中にひんやりとした液体が入ってきた。コク、と喉を動かす。熱い喉を通る水は、冷たく、甘く感じた。一頻り無心で水を飲んで、ようやく落ち着くと、急激な眠気が襲ってきた。ウトウトと、初めて感じるような眠気。

 恐怖がなかった。恐怖がない眠気は初めてだった。あの夢で感じた暖かさ。夢で感じることしかできなかった暖かさが、今、そこにある。

 顔が見たかった。誰か分からないけど、この暖かさをくれた人の。知らない人のはずなのに、何故か安心できる人の。そんな人、思い当たるのは一人しかいない。もしかしたら、もしかしたら、お母さんかもしれない。お母さんが迎えにきてくれたのかもしれない。そしたら、本当の名前を・・・。

 「大丈夫よ。大丈夫。ゆっくり寝なさい」

 聞きやすい、中音の声。それに引きづられて、意識が段々と沈んでいく。

 意識がなくなる寸前。ふと、気がついた。

 この声・・・。聞き覚えがある・・・。確か、ユリ、って人の・・・。


 久しぶりにあの夢を見た。それは、小さい頃なんども見た夢。

 朝起きると、母さんがいて。スープのいい匂い。朝日で見えないけど、笑ってる口元。柔らかく、ふんわりとした声で。

 「       」

 

 僕の名前を呼ぶんだ。



 







 ふと、レイの声が聞こえなくなり、カノは筆を止めて顔をあげた。

 思わず、息を飲んだ。

 レイは泣いていた。

 声をかけることが出来なかった。あまりにも衝撃的だったから。

 静かに。窓の外を見たまま。頬に伝った涙を拭おうともしていなかった。

「この後から、ユリと親しくなっていって、全部知った。楽しさも、嬉しさも、人として扱われることの嬉しさも。飴って頬がとろけるくらい甘くて、こんがり焼いた肉は、柔らかくて、うまくて。仕事ももらった。自分に武芸の才があると知って、たった二年で護衛士にもなれた。全部ユリ、いや、カイのおかげだった。カイが根回ししてくれたんだ。カイは大商人に雇われた組織の長で、あの海辺一体を取り仕切っていたから。でも、俺は知らなかった。カイは、俺の前ではユリと名乗って、普通の女の子だったから」

 自嘲気味にレイが笑った。だが、カノにはレイのすすり泣きが聞こえてくるようだった。上がった口角は、震えていて、目は、苦しそうに歪められていた。

 もはや、レイはそこにいなかった。独り言のように話す言葉は、自分に対する怒りと、その事実への悲しみに染まり、意識だけが、遠い過去に飛んでいた。

「俺は、失うべきじゃなかった。ユリ、じゃない。カイは絶対に失っちゃ駄目だったんだ」

 思い出すたびに、引き裂かれるような痛みに襲われる。カイの笑顔が浮かんでは、自分のしたことを後悔する。

「1人じゃ生きられない。どんなに強くても、賢くとも、1人だったら生きられない。生まれて、物心ついた時から、ずっと広がっていた虚無を払ってくれたのがカイだった」

 奪われて、喪失感と虚無感が俺を覆った。飢餓のようなそれから逃れるために、ついには人外となってしまった。

 

「これが、さっきの問いの答え。『人』を知った。『人』になった。でもそれは一瞬で、またすぐに1人になった」

 閉じた瞼の裏に、『あれ』がフラッシュバックする。


 


 ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!

 なんで気づかなかった。なんで気づけなかった!!

「ユリ!! ユリ!! くそッ。どこだ、どこにいる!?」

 屋根の上から港を見回すがさざ波の音しか聞こえない。

 …………大丈夫だ。ユリは死んでない。……大丈夫。大丈夫。

 浅く息を吸いながら必死に心を落ち着かせようとする。

 桟橋なら視界が広い。

 向かいながら、レイは祈った。

 神なんて信じたことないけど、いるんだったらどうか。どうか。

 頼むから。ユリを死なせないでくれ。奪わないでくれ。



 開けた。

 まだら模様の春曇から差し込む海の中で、レイは、吊るされてるユリを見た。

 心臓が縮んだ気がした。鼓動が、異常にはやいのを感じる。

「ユリ!!!」

 急いで向かう。二人の男が側に立っていた。そいつらはにやにやとしながらレイに道を開ける。

 鼓動が痛い。結び付けられている縄を切ると、潮の流れに体を持っていかれそうになりながらも陸にあげた。

 ………………………………冷たい。

 瞳孔を見るために顔を向ける。

「ヒュッ……」

 ユリの目は開いていた。これでもかと見開いていた。その目は、真っ黒だった。白目のところも、水縹の虹彩もだ。

 死んでる。

 その事実が、胸のところから、じわじわと冷たく上がってきた。

 殺された。殺された。殺された。殺された、殺された、殺された、殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された殺された……

 さっきまで痛いほど鳴っていた心臓が、潮が引くように遠ざかったのを感じた。

 びしょ濡れの髪をそっと撫でる。何かが、キラッと反射した。視線をよこすと、そこには、レイのあげたイヤリングがあった。

 清く、澄んだ青が水滴に濡れて反射している。

 ユリの目みたいだからとプレゼントした。

 でももうその瞳は青くない。

 一生見ることができない、自分の光。




 



 1人じゃ、息ができない。




 

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