第13話 我が美しき雌狼

 心残りが一つ消え、彼女は孤児院の裏手の壁を登り、森の際に繋いである馬を牽いていた。

 さあ、これからどう生きよう。

 すでに身軽になった。どこへなりも行けるのだ。

 肺に取り込まれる空気は清々しく、冷たい。月は澄んだ空の上に浮かび、夜の世界をぼんやりと映し出している。


 彼女は思いついて馬を孤児院の門前の柱に繋いでおいた。たとえリリーローズがここに戻らなくとも、朝には誰かが馬の耳に入った特殊な金具の形に気づいて邸に届け出てくれる。

 馬は不平そうに頭を左右に振った。自分も連れていけ、と言いたげだが、彼女が背中を撫でるとおとなしくなる。

 夜道を歩けば、はらわたを散らばらせた狐の死骸が草むらに埋もれていた。首に紐が括り付けられていた。腹にはナイフが入った痕がある。人間は乱暴なことをするものだと思う。

 孤児院から少し離れた森の入り口に立つと、ほう、ほう、とどこからともなく梟の声が響く。時々、風がさっと吹いて、木々のざわめきの音を外に運んできた。

 昔から馴染んできた森だが、昼間の明るさと月明りの下では風貌がまったく変わる。リリーローズはこれほど神秘的な森を見たことがなかった。

 しばし、森が気まぐれに開けた口を前に佇む。不思議と怖さは感じなかった。あるべくしてリリーローズはここに至った。そんな気さえしてくる。

 偶然切り離された木の葉が地に落ちるほどの時間が経つ頃には本当はもっと早くに来たかったのだと確信する。たまらなくなって、人間でない言語を喉から発した。まるで狼たちのように、天を仰ぎながら。

 走れ!

 誰かにそう命ぜられた気がした。身の内から無尽蔵に湧き出してくる衝動は熱く、大きすぎてとてもそれを溜め込んだ腹を膨らませたままでいることができない。

 走れ! 

 リリーローズもそう叫び、森に飛び込んだ。しかし、人の言葉を半ば忘れてしまったのか、それはまるで意味をなさないくぐもった音声でしかない。辻風のように走る彼女にはどんな声も後方へと押し流される。

 蛇行する獣道。柔らかな下生え。ところどころ露出する岩。苔むした倒木。古木の洞。闇にも溶け込まぬ白い茸。落葉が堆積してぐずぐずの水たまり。どれも横目にしながら止まることなく過ぎる。

 もっと! もっと早く!

 足が思うように進まないのがじれったくなる。


 ――その時、彼女の五感は狂う。視線はぐっと低くなり、聴覚はさらに鮮明で、四つ足で地を蹴る音が届く。舌はぐんと長く、口の外から垂れる。荒く、熱い息を吐いて吸った時の空気の味がする。手は毛の生えた前足となって、土と草の感触の違いを伝えてきた。

 枯草色の毛並みを持つ、一匹の雌狼が森を器用に疾走している。

 オオォ———ン!

 雌狼は本能のままに吠える。

 オオォ———ン!

 応える声も上がった。狼たちの声が聞こえる。ここだ! ここにいるぞ! と、告げてくる。耳をぴくぴくと動かしてから、雌狼は呼ばれた方角を目がけて夢中で走る。

 仲間だ、仲間だ!

 雌狼は全身で喜びを露わにぐんぐんと加速した。左右さえ気にならず、ただ自分の行く手を遮る物だけを避ける。あまりにも簡単なものだから、人間の時には四苦八苦していたのにこれはおかしいと笑いたくなる。

 やがて辺りは霧に覆われる。ちょうど森でも開けた場所に出た。すると、目の前の霧の中からいくつもの光が浮かぶ。のしのしと姿を現わしたのは所狭しと居並ぶ狼の群れである。光の数だけ彼らの眼があった。その数はとても一つの群れでは収まり切るはずもない。

 進んで前に出てきたのは、立派な体躯をした銀色の毛並みの雄狼と、その斜め後ろでぴったりと身体をくっつけている二匹の兄妹狼だ。

 新参者の雌狼は三匹と鼻面を突き合わせて挨拶を交わした。

 雌狼はボスに仲間に入れて、と願った。

 白銀の狼は答えずに白靄の天を仰ぐ。

 オオ―――ン!

 それは雌狼が知る限り、もっとも美しく澄んだ音色だった。他の狼たちも白銀の狼たちに追従し、狼たちの合唱が始まる。

 森、地、空気のすべてが轟く。音という音が森の中で凝縮されている。森が一つの生き物となって躍動する。森に生きる生命が溶け込んで、あるがままにそこにある。

 ――『リリーローズ』も、そこに加わりたいと思った。少女のころに呼ばれた時のように。

 左手に急激な痛みが走ったのはその時だ。


「っ。あ……あ……」


 彼女は、自分の手を見た。五本の指が備わっている。指輪が嵌っている。眼前の狼たちを、見下ろした。

 リリーローズは、人間だったのだ。

 合唱はいつしか止んでいた。彼女を取り囲んでいた狼たちが口を下げ、のそのそと一方向へと向かって歩いていく。時に彼女の外套の裾を掠め、太ももに触れるほど近くですり抜けていく。その列には枚挙にいとまがない。今森にいる狼たちだけいるのではなかった。生と死も、過去も現在も未来を通して、この森で生きていた狼たちが住処を離れて旅立つための、別れの儀式なのだ。

 狼たちの流れに逆らうように、彼女の外套の裾が引っ張られた。すっかり成長した姿で現れた二匹の頭に手を伸ばす。


「マツィ……エルー……」


 ぽろりと涙がこぼれる。大きな身体を引き寄せてしっかり抱きしめて放す。


「モイ……」


 美しい白銀の雄狼に手を伸ばす。モイは、鼻を彼女の手のひらに押し付けて匂いを嗅いだ。

 モイは一度だけ力強く吠えた。それが彼らにとっての別れの挨拶だった。

 三匹は身体を翻した。彼らの身体はあっという間に他の狼たちの背中に紛れて見えなくなってしまう。

 もっと触れていたかったのに、連れて行ってほしかったのに。

 彼らにかけられる言葉が見つからない。

 リリーローズは一つだけ吠えた。

 さようなら……さようなら!

 言葉から有り余るほどの万感の思いがこもる。

 そうして狼たちはいなくなった。

 濃い霧が再び覆う。やがて何も見えないほどに世界は真っ白に染まっていった。



「さよなら、リリー」

「さよなら、人間たち」






「やっと見つけた」


 周囲の者を遠ざけてから跪いたクラウディオは木の幹にもたれかかる婚約者の頬に手を伸ばした。血の気のない頬は凍るほど冷たく、濡れていた。


「雨の中で靴も履かないまま、どこに行くつもりだった?」


 屋敷を飛び出し、森に入ったきり戻ってこない。

 その知らせを耳にした時、クラウディオの息が止まった。

 たしかに一時、距離を置いた方がいいと思っていた。彼女は疲れ切っていただろうから。しかし、邸を飛び出すほど追い詰められていたとは知らなかったのだ。


 ――リリーローズ……!


 彼は抱えていたすべての仕事を投げ出し、森に入る捜索隊を指揮した。

 彼の乙女を連れ戻すために。

 祈りは通じた。

 何日もかけて発見された彼女はぼろぼろの外套と寝間着を着て、腕や足、手には切り傷や痣を山のようにこさえていた。頬にまで小さなかすり傷がつき、その傷にも泥が跳ねている。

 それでも生きて、クラウディオの元に戻ってきた。


「リリーローズ。何があった。何が君をそうさせた?」


 名前を呼ばれたためか、女は焦点の合わない目を開いた。

 雨の音と雷鳴が二人の空間に割り込む。

 口を開きかけたリリーローズは顔を背けた。


「……狼が、いなくなったのです」


 すぐに消えてしまいそうな、寂しげな呟きだった。


「この森から……。わたくしは、森の奥の向こう側へついていけなかった」

「そうか」

「どうして連れて行ってくれなかったのか、考えて、考えて……。気が付いたらここにいました」

「うん」


 クラウディオはリリーローズに身を寄せた。白い指にはまった指輪に口づけを落とす。


「君が人間で、私の婚約者だからだよ。君は私のために生きている」


 ……気が付けば、クラウディオは泥まみれだった。押し倒され、息が苦しい。

 顔の上には、狼のようなリリーローズ。

 クラウディオの首にリリーローズの両手が食い込んでいる。


「どうして! おまえが……!」


 その声は獰猛な獣だった。リリーローズが大きく口を開けて吠えた。


「おまえがいなければ、《あそこ》に行けた! 私は《あそこ》が良かった! こんなところにいたくない!」


 怒りで振り乱された髪がクラウディオの頬にうちかかる。涙の粒も落ちかかる。


「こんな指輪があるから……! こんなもの! ……こんなもの!」


 指輪をはずした彼女が右手を振り上げる。

 それでも、指輪を投げ捨てなかった。指輪を握った拳は解かれない。震える。

 彼は冷静に婚約者を見上げた。

 

「それが君の本性か、リリーローズ?」


 我慢を重ねて、自分を押し殺してきた婚約者。彼女の人生は彼のために用意されたものだが、彼女自身がそれを良しとしてきたかは別の問題だ。

 リリーローズは人として生まれた狼なのだ。最期に森が示した神秘の化身そのもの。

 初めて会った時から、彼女は他と違っていた。瞳の奥に獣を飼っている。

 クラウディオは本当の彼女を見てみたいとずっと願っていた。


「君の中身は烈しく、優しく、美しいな」


 首にかけられていた手は離れ、指輪が土の上を転がった。

 クラウディオは拾い上げた指輪についた泥を払って、彼女の指にはめてやった。指輪の石は、冷たい月の輝きを宿している。白に染まる意味は「慈悲」。そう伝わっている。


「そうだ、君のいうとおりこの世界は所詮、「こんなところ」なんだ。私だっていたくない。ずっと溺れているようなものだ。息継ぎにだって苦労する。でも、君がいると少し違う。君は私のためのものだから……安心できる」


 クラウディオは両手を伸ばして、柔らかな身体を抱きしめた。彼女は抵抗しなかった。くたりと体を預けてくる。彼女の泣き声がしばらく響いていた。

 好きだ、嫌いだ。

 愛している、愛していない。

 そんな次元で生きている自分たちでなかった。

 真夜中の森の中、頼りない星の光を頼りに隣り合ってどこかに行こうとしているような二人なのだ。手のつなぎ方さえわからないのに、遠く離れることは耐えられない。


「今はこの『鎖(指輪)』に繋がれてくれないか。いつかきっと……解き放ってあげるから」

「嘘を言わないで……」


 肩越しの婚約者がくぐもった声で非難した。


「執着なんてしないで今すぐ自由にしてください。殿下の心が、わたくしには苦しいのに……」


 ふいにリリーローズが彼を抱きしめ返し、クラウディオは驚いた。


「リリーローズ?」

「……あなたがただのクラウディオだったらよかったのに」


 そう囁くと彼女は身を起こして立ち上がる。

 その間、クラウディオは動けなかった。普段は深く押さえ込んでいる罪悪感が頭をもたげていた。――リリーローズを一番苦しめているのは、自分クラウディオだ。

 クラウディオはリリーローズと初めて交わした日のことを今でも鮮やかに思い出せる。そっと人の輪から抜け出して、ひっそりと木陰に座っていた彼女に話しかけた。


『君は私の婚約者という地位にあまり乗り気でないようだ。恋をしたことは?』

『恋……? そうですね。恋しく、思うことはあるかと……』

『だれに?』

『だれ……? 人でなければいけない理由はございませんでしょう。……森へ行くのです』

『森へ?』

『朝からひとりで入り、昼は生き物たちの声に耳を澄ませ、夜の星空を見上げるのが幸せです』

『森は危ないのでは』

『いいえ? 危険な目に遭ったことはありません。森にいる時は見守られている気がするのです。きっと『森の王』たちが見ていてくれているのでしょう』


 今――森の狼と別れ、クラウディオを振り返った彼女はかすかに微笑みを浮かべていた。

 それは「あの時」とは違う、獰猛さが漂う微笑みだ。


「参りましょう、殿下。……狼の狩場は森の外にもございます」


 そう告げたリリーローズの眼は遠く――王都のある方角を見つめていた。



 ――後年、クラウディオは多くの改革を為し、良き国王として国を導いた。その王妃リリーローズは夫を支えた苛烈な女性として知られる。国王は彼女のことを「我が美しき雌狼」と呼び掛け、いつまでも彼女を敬い、愛したという。


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狼令嬢リリーローズの心 川上桃園 @Issiki

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