第7話 嘘つき
王位継承権第一位のクラウディオ王子とリリーローズ・フラゴナールの婚約が公表された。いくつかの公的行事を王子同伴で済ませた彼女は、騒がしい王都から慌ただしく離れた。ほとぼりが冷めるまで母から解放されたことにほっとするのもつかの間、リリーローズのいた本邸に孤児院から連絡が入り、すぐさま馬車を走らせた。
馬車から降りた途端、子どもたちが建物から飛び出した。
「パトリックは?」
「こっち!」
彼らに両手を引かれた先は、子どもたちの寝室。パトリックは自分のベッドに横たわっていた。右のふくらはぎと右手には元の形がわからないほどに包帯が巻かれている。
リリーローズは枕元近くの丸椅子に座る。他の子には外で遊ぶようにとお願いすれば、部屋に二人きりとなった。弱々しく瞑っていた瞼が持ち上がり、傍らのリリーローズを映した。
「リリー姉ちゃんか」
「……痛かったでしょう?」
「別に。でもめちゃくちゃ怖かったぜ」
場にそぐわないほどの明るい声だった。
「姉ちゃん、泣かないでくれよ。俺は生きているんだから!」
パトリックは得意顔だった。
「そりゃ、あの犬ころが襲い掛かって来た時は無我夢中で木の棒を振り回したよ。もう生きてらんねえ、と思ったけどな! でも隣に住むおっちゃんが褒めてくれたよ、俺は本物の男だってさ。リリー姉ちゃんも狼がどんなに恐ろしい怪物なのか、これでわかったはずだ!」
「パトリック……」
リリーローズは孤児院の中でも年かさに当たる少年の短髪を撫ぜた。
事件は昼前に起こったという。その日は子どもたち全員で畑仕事をしていたが、パトリックはつまらなくなって途中で抜け出した。一人中庭で時間を潰していたら、グルル……と背後から唸り声がしたのだそうだ。
パトリックはすぐにその唸り声が狼のものだとわかったらしい。普段ならこの時間帯、仔狼たちは納屋近くに打たれた杭に巻き付けられた鎖に繋がっているはずだったが、不幸なことに誰かの不注意で皆に気付かれないまま仔狼たちは解き放たれていた。少年が焦り、知らせようと背中を向けたところで二匹はパトリックに噛みつき、抵抗されるや否や、孤児院の塀から逃げていったのだと。
パトリックはそう説明したという。
「話は全部、聞きました。あの二匹が突然、パトリックを襲ったのね?」
「ああ、そうだよ」
「パトリックは、自分からは何もしていないのよね」
「う、うん……」
少年は目をひょろひょろと泳がせた。
「当たり前だろ!」
「そうね。……パトリックのいうことを、信じるわ」
少年の頭を抱えるように抱きしめる。
「だから一つだけ、約束して」
「な、なにをだよ」
腕の中の身体がびくっと震える。
「嘘にはね、他人のための嘘と自分のための嘘の二つがあるの。他人を気遣ってする嘘が必ずしも悪いこととは限らないし、時には人に幸せを与えてくれるわ。本人に秘密で準備された誕生日会のように。――でもね、自分のための嘘は自分を不幸にする。嘘は嘘を呼び、何もかもが嘘だらけになることだって。覚えていて、パトリック。自分のための嘘を、もう二度と絶対についちゃだめ」
彼女は目元を拭って椅子から立ち上がった。
「パトリックのこと、大好きよ。何をしても嫌いになることもないし、自分の口から話したいことができたら聞くわ。怪我はゆっくり治してね。下手に動いちゃだめよ?」
「リリー姉ちゃん、どこに行くんだよ」
引き留めようと動いた少年の手は空振りに終わる。少年の顔に浮かぶのはもう笑顔ではなかった。
「……わたくしも出て行かなくてはならないから。狼狩りに」
パトリックを噛んだ仔狼二匹はそのまま孤児院から逃げたのだ。あの子たちは散歩、あるいは小さな冒険のつもりかもしれないが、人間の世界では許されない。
目論見を成功させた猟師たちも今頃、あまりに素早すぎる対応で害獣の射殺に血道を上げている。彼女もそれに加わらなければならないのだった。
子どもは天使であるけれど、同時に無邪気な悪魔でもあることを時々忘れる。あまりに純粋すぎるがゆえに、多大に大人の影響を受けてしまうのだ。パトリックの考え方は村の大人たちとまるきり同じ。狼は、存在自体が悪であり、弱いならばいじめて鬱憤を晴らしていい『物』だと。
……先の狼騒動で補修を終えた孤児院の塀は仔狼には越えられない。
部屋を出たリリーローズは息を吐く事で身体の熱を覚ました。右の拳を額に当てては、涙をやり過ごす。
孤児院を出たところで御者が猟銃を差し出した。
「お嬢様。こちらを」
「ありがとう。ペーター……ついてきて」
「承知いたしました」
狼狩りは三日続けられ、三日目の夕方、森に一発の銃声が響いた。ついで、狼を撃ち殺したという知らせを受ける。リリーローズが駆けつけてみれば、それは若い雄狼であの二匹とは別の個体だった。
それからまもなく狼狩りの終了が決まった。まだ子どもの狼だから森でも生き伸びられまいということだった。確かに見つかるところにいるならば、もうすでに発見されているはずだ。人に慣れた狼は人の気配に寄って来る。それがないということなら、もしかしたらもうすでに。
孤児院の子どもたちの反応は二つに別れた。年少の者や特別に仔狼たちの世話を買って出た者は大粒の涙を流すが、一部の年長の者や怖がりの者はどこかほっとした顔を見せていた。マツィとエルーは唯一生存を許された孤児院にさえ、居場所がなかったのかもしれないと思うとやりきれない。
孤児院の中庭の隅に、一部の子どもたちと仔狼たちのための墓をつくった。小石を積み上げただけで、中には何も入っていない空っぽの墓だ。ささやかだけれども花が置かれることもある。
数日後、墓の前にアネットが背中を向けて座っていたのを見つけた。手先が動いている。
そうっと横から見れば、小さな骨を埋めている。その日食事に出てきた鶏の食べ残しらしい。アネットは彼女にすぐ気づくが、構わず骨に土をかぶせた。それも終わって、どこかに行こうとしたところで声をかけると、アネットは舌打ちをした。
「死んだやつは葬らないと、化けて出てくるんだ」
妙な言い訳にリリーローズは思わず笑ってしまった。
「あれは餌なの?」
「違う。玩具だ」
アネットはパンパン、と両手の土を叩いて払った。
「可哀想だったから」
リリーローズの息が詰まった。
「大人にいいように利用されたあの馬鹿は今更気づいて落ち込んでいる馬鹿だった。犬死にだ」
「……パトリックのこと?」
「馬鹿というなら、あいつしかいない。すぐに騙されそうなやつだと思っていた」
「パトリックには言った?」
「言ってやった」
「そう。だからアネットは」
視線はアネットの口元に。唇の端が切れていた。パトリックも先ほど頬を腫らしていたのを見かけていた。
「……あの子の怪我はまだ治っていないのに。アネットも綺麗な顔がもったいないでしょう?」
ポケットから出したハンカチをその顔に近づけると、アネットは嫌がって顔をそらした。
「知るか。あたしに構うな」
にべもない。こうなると何を言っても立ち去ってしまいそうだ。おとなしく口を噤む。
「おい」
すると珍しくアネットの方から声をかけられたので、リリーローズは一拍遅れて返事をした。
「どうしたの」
「おまえ、気持ち悪い。あの嘘つきをかばうなんて、変だ」
「嘘つき? ……パトリックのこと?」
「うん」
「変……かな」
真剣なペリドットの瞳を受け止めて、改めて考えてみる。
「ことさらにかばっているというわけでもないけれど……パトリックも『弟』だから。狼を嫌っていた理屈も、理解できないわけでもないもの。そうね……これは怒るよりもただ、悲しい」
震える息を吐く。
真相はきっと味気ない。パトリックは近くの村の大人にそそのかされるがままに、孤児院の門を開け、マツィとエルーを無理やり外へと引きずり出そうとしたのだろう。そして逆に抵抗されて、噛まれた。二匹は開いた門から出てしまい、もう二度と帰ってこなかった。
「でもほんのちょっとだけ、これでよかったのかもしれないと思ってしまうの。以前、アネットが言ったように、このまま檻の中で飼い殺しにされるのも可哀想だった。ならせめてどこかで生きている、とそう信じていたい」
「ふうん」
アネットは下を向いて、がりがりと小枝で地面に何か書いている。
たどたどしく、二匹の狼が輪郭を持って浮かんできた。
「おまえは、妙に狼にこだわる。狼は金持ちの趣味じゃない」
「狼の毛皮を欲しがる人はたくさんいるわね。わたくしが変わっているとするなら、狼は生きているのがいい、と考えるところ」
そのせいで周りからはおかしな眼で見られる。母などは『狼』と聞くだけで空恐ろしいものを聞いたようにぶるぶると震え、金切り声を上げる。
「夕方。闇に紛れてくる丘の上に、狼の群れを見たことがあるの。遠吠えの大合唱と、重なり合う影法師が五つ。互いに身を寄せ合って、じゃれあって。それを遠くから眺めていたら、不意に涙が出てきた。あれからずっと、わたくしは狼に魅せられ続けているわ」
やむを得ず猟銃を取ることもあるが、狼への敬意を忘れたことはない。仔狼たちは、皆守りたくなってしまうのだ。
しかし、どうしてもリリーローズが関わった狼たちは皆死んでいく。初めてマツィとエルーを抱いた時、今度こそはと誓ったのに。
仔狼を拾ったのはこれが最初ではなかった。
以前は、彼女自身がまだ子どもと言える時分で、森の中で怪我をしていたのを拾ったのだ。だからその時の経験でマツィとエルーの世話もまごつくことなく子どもたちに教えられた。
「狼はあるがままがいい」
初めて世話をした仔狼は「モイ」と名付けた。白銀に近い柔らかな毛並みをした、それは美しい雄狼だった。ふさふさの尻尾をぴんと立てた森の王者の風格を持っていた。なかなか触らせてくれなかったが、眺めるだけでも惚れ惚れとしたものだ。
そしてその外見のために殺されてしまった。
可哀想に、という言葉では片づけられないほど憤ったのはあれが最後だった。声を嗄らして叫んだ訴えも聞き届けられなかった時、リリーローズの中の怒りは静かに死んでいったように思う。
リリーローズは笑んだ。
「アネット。気にかけてくれてありがとう」
「知らない」
仔狼の落書きの横には女性が書き足されていた。
少女は蠅が顔周りを飛び回ったような顔をして、そっぽを向いた。
あの時のアネットが何を考えていたのだろう。
彼女の眼には世界がどう映っていただろう。
アネットは孤独を好む少女だった。特定の友達もいない様子で、職員たちも彼女の扱いには苦慮していたのを覚えている。しかし、本人はそれを歯牙にも欠けていなかったし、周囲が彼女のことで困惑していることにも無関心を貫いた。
執着したものも二つだけ。狼の牙の首飾りと――リリーローズ。
――手の中の指輪は、月の光をより集めたように淡い輝きを放っていた。
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