第8話 王子の外出
その日はとても喜ばしいことがあったので、リリーローズは早足で孤児院の細い回廊を進んでいた。一室に飛び込むと、アネットはすねた顔つきでリリーローズを見上げた。その手には繕い物がある。
女の子は自分で繕い物ができるように練習のための時間が設けられていた。それぞれ一人いくつやるようにとあらかじめやるべき量も決められているのだが、アネットの横には山と積まれた繕い物が溜まっている。他の子なら、仲良しの子が手伝うか、互いに教えあいっこをするのだが、アネットの傍には誰も座っていなかった。終わった子はアネットの傍をすり抜けて外に遊びにいってしまうのだ。
リリーローズはその場にあった余った糸と針を借りて腰を下ろした。
「……なに」
「わたくしも、裁縫をやりたくなってしまったの。ほら、見てて」
手元がよく見えるようにアネットの隣にいざり寄る。とれかけた前掛けのポケットをちくちくと縫い合わせ、布が破れたところは当て布をして補修していく。
リリーローズは幼いころから孤児院に出入りしていたので、こういう細かい手作業は何でもこなすことができる。繕い物もお手の物で、他の子どもたちにもよく教えている。
「……お嬢様のくせに」
アネットは吐き捨てるように言いつつも、眼は真剣にリリーローズの手先に吸い込まれている。何をした方が自分のためになるのか、ちゃんとわかっているのだ。
リリーローズは赤い小さな頭を見下ろしてこう告げた。
「もしかしたら、アネットもそのうちお嬢様になってしまうかもしれないわ」
「うえ」
「そんな顔をしちゃだめよ? アネットは女の子なんだから」
「女なんて、損ばかりじゃん。男の言いなりになってヤられるだけだ」
口元を抑えたアネットがとんでもないことを言い出すので、彼女は慌てて辺りを見回した。誰も聞かれていないことにほっとする。
「思っていても言ってはいけないわ」
「だって本当のことだろ。小さな女の子にだって汚い大人が群がってくる」
彼女の喋り方はまるで本当に見てきたかのようだ。いや、実際にそうなのだろう。アネットは最下層の生活をしてきた。彼女が自分の容姿に無頓着なのもそこから来るのかもしれないし、また、彼女自身だって嫌な思いをしたとしてもおかしくない。
「あのね、話は少し戻るのだけれど」
意図して話を変えた。
「実はさっき、アネットをぜひ養女に迎えたいとおっしゃる方がいるって聞いて。それを知らせようと思っていたの」
「なんで」
アネットはリリーローズをじっと睨めつけてきた。深みのあるペリドットの瞳がきらりと光る。
「何でって……? 中央官吏をされているご夫婦なのだけれど、お子様がいらっしゃらないらしくて、以前、交流会に参加した時、あなたの眼を見てすぐに気に入られたそうなの」
「そういうことじゃない」
アネットは繕い物を放り出して、勢いよく立ち上がる。
「大丈夫よ? 今すぐどうこうしたいということもなくて、ただ考えてほしいというだけ」
リリーローズは慌てて付け加えた。
「違う!」
片足が床を叩く。リリーローズを見下ろす眼がかっと見開き、唇は青ざめ、手は服の裾を押さえていた。
「おまえが言うな! 絶対におまえには言ってほしくなかった!」
最初は、何を言っているのだろう。そう思った。
次に、自分が何か気に障ることをしたのだろうか。そう考えた。
最後に、もしかしたら、と自分に都合のいい解釈を直感的にしてしまった。でも、まさか。そんなこと。
「……アネットは、わたくしと一緒にいたい、と思う?」
「知るか!」
さっと顔を赤らめたアネットは、捨て台詞を吐いて逃げた。
「え、でも。……いつの間に?」
呆然と呟くも、やがて笑み崩れてしまう顔は覆い隠せなかった。
ごとごと、と馬車が揺れる。なだらかな丘を越え、林の脇を通り過ぎ、畑に向かう村人たちを遠目に、舗装が間に合っていない道を行く。
本邸から村はずれの孤児院への道のりは、ぱっくりと赤い口を開けた獣に飛び込むようなものだ。塀を越えた向こう側は深い森で、暗くなれば梟の声がどこともなく聞こえてくる。そして、狼の遠吠えだって。
「陰鬱な森だな」
平地の最中に忽然と立ちはだかって迫って来る森を小窓から眺めた彼はそう語った。
「我らの祖先はかつて未開の森を開拓して国を建国したと聞く。人の多い王都では忘れがちだが、この地方の自然はそれを思い出させてくれる。確か、この辺りの特産物には狼の毛皮があると聞いた」
「はい、殿下。我が父は夏に狼猟を解禁しており、この地域では年間三百頭前後の収獲をあげています。秋口の祭りと前後して、狼を含めた獣の毛皮のみを集めた市も開かれております」
リリーローズはバイオレットの瞳から逃れるように俯いて答えた。指には婚約者から贈られた指輪が慎ましく嵌る。贈った本人の前で付けないわけにはいかなかった。
「三百頭とは昨今あまり見ないな。狼も以前は王都の近郊でもすぐに見られたものだが。そういえば、あなたも夏になったら獣相手に猟銃で戦うのだったな。王宮でぬくぬくとしている私とはまるで違う世界に住んでいるのが今回の視察でよくわかった」
クラウディオ王子は一月の間、王都を離れて各地の視察に赴いていた。リリーローズのいる領地が最後の目的地となる。本邸に一泊する予定で、その間に領地の街を見て回ることとなっていた。婚約者が来ているのなら、リリーローズが歓待しないはずがない。女主人として振る舞う母の陰からではあるが。母はこの非公式の視察があると聞いた傍から本邸に戻ってきたのだ。
娘の婚約者に朝も夜も付きっ切りの勢いだった母だが、領地に帰ってきていた父が母の耳元で一つ二つ囁けば、青い顔色で引き下がった。そのために二人きりで馬車に乗せられた。
婚約者が街よりもリリーローズの生活を見たいと言い出したのだ。案内するのはリリーローズしかいない。
普段貴族らしい衣裳を着て孤児院に行かない。簡素で使い勝手のいい木綿のワンピースでないのが落ち着かないでそわそわした。
「殿下、わたくしは好んで猟銃を取るわけではありません。やむを得ない時だけです。それに、猟期は夏だとしても守られていないのが実情なのです」
「なぜ守らない?」
「家畜が死ぬたびに、狼のせいになるからです。噛み傷があったらまず狼を疑います。肉食の動物は必ずしも狼ばかりでもないのですが村人たちは頑なに狼だと信じています。彼らは狼を憎み、殺したがっているのです。だから理由をつけては季節関係なく狼狩りをします。この近年は『人食い狼』の噂のために何十頭も殺されました。森の個体数も激減したでしょうから、そのうちこの辺りでも狼はいなくなってしまうのかもしれません」
「それならばここの村人たちは大喜びだな」
「彼らにとっては害獣です。子どもの頃から夜物語でそういう存在として聞かされるそうです。狼は大抵悪者だという刷り込みがあるのでしょう」
しかし、もっと深い自然の中で生きていた昔の狩人たちは狼が身近すぎたため、彼らの生態をつぶさに見ることができた。人間と同じように集団で生活し、それぞれに役割があるということも、彼らの狩りのやり口も熟知できた。そういった狩りの知恵が狩人たちの中で綿々と受け継がれてきたと聞く。それを、銃の登場が狩りの仕方を一変させた。狼たちの命は簡単に貨幣に交換されるようになった。そして、今までの狩りの知恵が捨てられた。
「わたくしの知る狩人は弓矢を使う最後の世代でした。彼が言うには『均衡』が大事なのだそうです。それは単に生き物を根絶やしにして、次の獲物がいなくなることを心配しているだけでもなくて、人が自然に過剰に干渉しないことが自然のあるべき姿だと」
かすかに笑う気配がした。
「こんな鄙びたところにも哲学者はいるものだな。我々の歴史は森の開墾から始まると聞かされるのに。話を聞くのも面白いかもしれない。彼はご存命か」
「今は御者席に座っています」
リリーローズの背後で馬がいなないた。ペーターが鞭を振るったのかもしれない。
「少なくとも、自然の秘密をよくわかっていないわたくしたちがその形を歪めていいものとは思えないのです。それに人間が自然に勝てるとも思いません。雷、嵐、雪、火事、地震。どれをとってもわたくしたちの理解の外で動くのです。勝つことを考えるのではなくて、自然と共生することを考えた方がいいのだと。ペーターの話を聞くと、そう感じます」
「なるほど」
リリーローズは控えめに微笑む。
建国当時の昔には森の恵みに感謝し、森に生きる動物に畏敬の念を持っていた人々が大勢いたという。彼らのように森に生きるすべての動物たちに敬意を持ち、自然との付き合い方を考えること。言うだけでは簡単だが、実際はとても難しい。しかし彼女には船の羅針盤のように自分の生き方を指し示しているように思えていた。
「自然と比べれば我々の世界の争い事など、我々が見る蟻の営みと同じなのだろう。あまりに小さな世界しか知らず、自分が偉いと胸をそらしていれば思いもよらないところでしっぺ返しを食らう。愚かな生き物だよ。そして私はその愚かな生き物を率いる、とびきり愚かな個体に過ぎないのかもしれない」
ごとん、と大きく馬車が揺れた。おのずと姿勢を正してみれば、彼は熟考するように顎に手を当てている。その手には透き通るような青い宝石を収めた指輪が嵌められている。意匠はリリーローズのそれと、まったく同じ。
「そういえば、先日の婚約発表に絡んで、わたしとあなたの周囲に暴漢が出没したのを覚えているか。彼らは今の政治機構への反逆を声高に叫び、ナイフや銃で権力に抵抗しようとしている。ああいうのでさえ、わたしたちの生活には大きな影響を与えた一方では、世界の広大さと比べると、ほんの小さな出来事に過ぎなくなる。この見方は人の命が軽く見えてしまうな」
先だって行われた婚約発表と宮殿での式典の合間に、クラウディオ王子とリリーローズ、二人それぞれ、馬車での移動中に暴漢が現われるという事件が起きた。すぐに護衛が暴漢を引きはがしたが、二人ともが現在の王政への反抗を主張したという。組織的な犯行とみられており、リリーローズの母はすぐさま娘を領地へと戻した。王都にいれば危ないというわけだ。
「先日の件は、死者もでないで済ませられて幸いでした。わたくしは早々にこちらに戻ってきましたから、その後の詳しいことは伺っておりませんが……」
「伺わずともすぐにわかる。私とあなたの件は公の場での犯行だ。裁判にかけられ、上手く行って終身刑、悪くなれば絞首刑となる。裏にいた組織の全体像もそろそろ掴めてきた。私がここにいられるのも、そういうわけだ」
リリーローズはあの事件のことを思い出そうとするが、ほとんど記憶に残っていない。誰か青年が近づいてくると感じた時には、数人の護衛たちが彼に飛びかかっていた。銃を持っていたというのも、後から聞かされたのだ。
「あなたは、ジェレミア・カーストンを知っているか」
ジェレミア・カーストン。婚約者の口からその名前が出てくるとは思わず、鼓動が跳ねた。一瞬のうちに時を遡った心地になる。最後に会った彼は、馬車の窓向こうで深々と赤い頭を下げていた。車輪は止まらず、彼の姿は遠ざかる……。
今、王子の眼はリリーローズの奥底に眠るものまで暴き出せそうなぐらい、鋭い。ある確信を持って話をしているのだ。
「この先にある孤児院で育った男だ。組織をまとめているボスとして、名が挙がっている。調べてみると意外なことがわかったよ。彼はあなたの幼馴染。そして……」
「殿下」
彼女は話を遮った。内々で婚約が決まってから初めて、彼が孤児院に来たのはそのためだったと、十分に知ったために。
「彼はそのような人物ではありません。わたくしが保障いたします」
王子はそら恐ろしい笑みを浮かべ、リリーローズに手を差し伸べた。
「おいで」
その言葉はリリーローズに魔法をかける。黙って目を閉じれば唇を合わされて、言いたいことが封じられた。どうして、こうもままならないのだろう。
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