第6話 リリーローズの指輪
あれから一時期、孤児院に行く頻度がぐっと減った。母の帰還が原因だ。ますます息苦しくなる邸だが、支配者の母には関係ない。母は来たる日に備え、リリーローズの予定にすべて口を出した。領地を離れ、王都に連れていかれた。母に付き添われた夜会に、有力者のサロンへ訪問、訪問客への応対。彼女も令嬢教育を受けたからこういう付き合いはできないわけでもないが、苦手なことに間違いはない。毎日毎日、ゆるゆると首を絞められているようなものだった。
わたくしの娘ですのよ、と知らない人々に紹介されるたび、心の中でひやっとした。娘。そこに特別なニュアンスが込められていることに気付く者は何人いるだろう。リリーローズに拒否権はない。
宮殿へも、娘以上に着飾った母とともに何度か行った。来たる日の打ち合わせのためだ。母は宮殿を我が物顔で闊歩し、自分に頭を下げてくる人々の数を、自分の臣下の数と勘違いしているような有様だ。母には廷臣たちの白けた視線など目に入らないのだろうか。リリーローズは恥ずかしくてならない。止められない自分も恥ずかしい。
宮殿に行くと大抵、婚約者に挨拶に行くのだが、その時も母が同伴する。母はリリーローズが口を挟むのを好まなかったので、会話はいつも母とクラウディオ王子がするものだった。リリーローズが話すべきことも母が代理という言葉で片づけることにも慣れたし、母がよく知りもしない娘の好みや趣味で嘘八百を並べ立てることにも慣れた。婚約者本人に訂正を加えたくとも母は王子との場から頑として離れない。まともに二人で語り合うこともないへんてこな婚約関係だ。
しかし、その日だけは妙なことがあった。母娘が王子の居室についた途端、王妃が母を呼び出して、母は渋々と連れていかれた。
大きな扉の前でぽつんと取り残されたリリーローズを王子が手招く。
「おいで」
彼は普段の微笑を表情に乗せることなく、庭に向かって開く両開きの窓から差し込む光を前に、厳かな雰囲気で立っていた。
母が離れ、一人きりで婚約者と対面する。ひどい緊張が強いられた。それは決して愛や恋といった甘やかな気持ちから来るものではなかった。たとえるならば、神を前にした信徒そのもの。彼はリリーローズが生まれた理由、彼女の存在意義だ。だからリリーローズのすべてが彼のものになることも自然の摂理なのだろう。そこに彼女自身の意思がないとしても。
「手を出して」
息を詰めたまま王子に近づき、手を出すと、彼はリリーローズの白い手袋を剝ぎ取った。
左手の指に小さな宝石のついた指輪がはめられた。
「これから婚約が公表される。指輪の一つも必要だろう」
「……そうですか」
ぞっとするほど無感動な声が出てきた。
何気なく透き通った色をする宝石を眺めていれば、奇妙なことが起こった。
宝石の中心から白い靄が煙のように充満していき、すぐに宝石全部が真っ白に染まった。たまに光を虹色に反射し、きらきらしく光る。
「王家に伝わる宝物だ。代々世継ぎの王子が妃に贈るもので、着けた人により色が変わる。どうやら性格を映し出すらしい。祖母の時は紫で『気品』、母の時は青で『知性』を示した」
そしてリリーローズは白。
きっとあなたは、と言いかけた婚約者と見つめあう。リリーローズは彼の瞳の色がバイオレットなのだと再認識した。一方で彼は唇を歪めて言い直した。
「……きっと、あなたの中身は空っぽ、ということだ」
リリーローズは否定しなかった。手を引っ込め、恭しく辞去の挨拶を述べて立ち去るつもりだった。婚約者も止める素振りを見せなかったが、最後に一言だけ告げる。
「おいで」
リリーローズは逆らわない。
近づくと羽のように軽く口づけられた。彼女は思わずその身体を突き飛ばした。
「婚約者ならこれぐらいは構わないのではないか」
婚約者の顔から顔を逸らし、きつく目を瞑る。
「……そうは、思いません」
子どもたちと仔狼のいる孤児院に帰りたかった。
――婚約破棄を言い渡された日の夜。ふと思い立ち、ベッドから起き上がる。机の引き出しに収められた小箱から細い鎖を通された指輪を取り出した。
窓越しの月光の下、指輪を嵌めた手をかざしてみれば、透明だった石が濁っていく。
真っ白に。丸い石ころは、月と少しだけ似ていた。
「これも……返さなくては」
妃になる女性に渡される指輪を、このままリリーローズが持っていてよいはずもない。自分から返しに行くか、返却を求める使者が向こうから来ることになるだろう。どちらにしても気が重い。
指輪を握ったままベッドに戻る。
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