第5話 アネットのお守り
当時のリリーローズは空いた時間を孤児院のために当てていた。子どもたちと一緒に遊び、歌って、勉強を教えていた。生活は孤児院を中心に回っていた。邸から孤児院へは三時間の道のりがあるが、それでも数日に一度の訪問は気の休まらない日々の慰めとなるものだ。
金銭面の援助をするリリーローズの訪問を職員たちも表向き歓迎していた。が、内心煙たがっているのだろうことは容易に想像できた。そうなると腹に小石が溜まっていくような嫌な気持ちにもなるけれど、他の場所にいるよりは随分とましなものだった。
自分の邸にいることが、もっとも居心地が悪い。父恋し、母恋しと泣く子どもが邪気もなく尋ねることに、はっと胸を突かれたこともある。
リリーローズにとって、父は偉大で不遜な者、母は支配者だった。柔らかな綿毛に包まれるような情は両親からでなく、彼女を憐れんだ乳母からもらった。リリーローズを慈しんでくれたのもその乳母だけだったが、その彼女も一昨年死んだ。
兄弟姉妹の縁は父と母以上に薄い。姉妹たちは早々に嫁ぐことも多く、兄弟たちも年長の者は修行や仕官、他家への養子のために家を出ていた。そんな彼らにほんの時々、短い時間あったところで打ち解ける話ができるわけもなく、考えあぐねるうちに再び旅立って行ってしまう。
肉親よりも血のつながらない他人の方に親しさを感じ、子どもたちの『姉』のような存在になるのも変な話だった。ほめられたものではないと思う。
だからリリーローズは好んで家族の話をしないのだが、その日ばかりは違った。先日、孤児院を訪れた際、邸から急な呼び出しがかかった。普段は王都の別邸に住む、リリーローズの母の帰還のためである。彼女の孤児院への訪問に強い難色を示していた母の呼び出しというのは、命令と同義だ。
早々に孤児院を出発した代わり、急にいなくなったリリーローズに子どもたちは不満顔をしていた。途中までやっていたカード遊びまで結果的に放り出してしまったのもまずかったのだろう。日がまたいでも子どもたちはご機嫌ななめだ。話しかけてもどこかそっけない態度ばかり取られてしまう。
ごめんね、とリリーローズは一人一人の子どもたちと目線を合わせて謝った。
「わたくしのお母さまは少し厳しい人だから」
ある子は、どのくらい、とさらに尋ねた。リリーローズは微笑み、
「自分の娘を、自分そのもののように大事に考えているのよ」
その少年はよくわからない顔で「ふうん」と納得し、その話はそれで終わった。
彼らはリリーローズの差し入れのクッキーを食べると、ようやく不満を収めてくれた。いつものように彼女を遊びに誘ってくるようになったのでそれに加わる。
妹狼を引き連れた兄狼もそこに寄って来る。自分も入れて、とリリーローズの服の裾を噛んで引っ張って来たので、二匹も入れての追いかけっこだ。
中庭と裏庭を使って、子どもたちと狼二匹、そしてリリーローズが入り乱れ、興奮の熱が充満する。もっとも、狼兄妹は追いかけっこのルールもわからず、ただ動いているものを追いかけているだけだが。
この中で一番体力がないリリーローズは心臓が早鐘を打ってきた辺りで遊びを抜け、身体の熱を冷ますのと、子どもたちの様子を見回り始めた。しかし、案の定、誰が誰を追いかけ、追いかけられているのやら。野放図だ。
歩いているうちに、中庭の端で妹狼の尻尾を引っ張ろうとする少年を見つけた。パトリック。孤児院の一番のやんちゃ者だ。
「こら。やめなさい」
「げっ、リリー」
彼はさっと両手で何かを後ろに隠した。
「手に何を握っているの? 見せて」
渋々と見せてくれた手には小さな蛙が乗っている。これを狼の口に入れようとしていたらしい。
「パトリック。エルーが怯えてしまっているのがわかるでしょう? わざと嫌がるようなことをしてはだめ。それに以前、みんなと約束したことを忘れちゃったの?」
仔狼を孤児院に預けることを決めた時、リリーローズは子どもたちに大切なことを約束してもらった。
「……忘れた」
パトリックはむすっとした顔だ。リリーローズは蛙が逃げて行ったばかりの両手を軽く握る。
「大事なことよ。あの子たちは、みんなの兄弟姉妹で同じ仲間なの。仲間をいじめるのはよくないことよね?」
パトリックは鼻を鳴らす。構わず続けた。
「マツィとエルーは、ここでしか生きられない。せめて精一杯優しくしてあげてほしいの。みんなにはね、あの二匹と過ごして、どんな生き物にも敬意を払える大人になってほしい。平気で命を奪えるような冷たい人にはなっちゃだめ。それはとても悲しいことだから」
リリーローズの言葉が彼に届いているのか、不安になってくる。
「狼は人間の姿を見ると逃げてしまうぐらいとても臆病な生き物よ。群れ総出で長い時間をかけて狩りをしなければならないぐらいに無力なの。そして、私たちと違う生き物であることもしっかり理解していてほしいの。でもそれは人間が偉いということでもなくて、ただ違いがあるというだけ。私たちには私たちの生活があるように、狼にも狼たちの生活があるわ。何でもしていいと思って接するうちに、吠えられたり、噛まれたりすることだってあるかもしれない。それは狼が悪いのではないの。反応してしまうのが狼の本能だから。関わり方を間違えたわたくしたちの問題なの」
じっと目を見つめていると、
「わかったよ。手を放してくれよ」
パトリックが理解してくれたものと思って、手を放す。彼は辻風のように走り去った。
妹狼もその場にはもういない。
代わりに、柱の影にアネットの姿がある。子どもたちの追いかけっこに加わっていなかったのだ。
「アネット」
彼女の呼びかけに聞こえないふりを決め込むアネット。突然、その場でしゃがみこみ、何やらいじり始めた。服に汚れがつくのも気にならない様子。近くに寄ってみると、彼女は柱横の敷石の一枚を剥がしていた。その下には小さな穴。そこに一見、ガラクタにしか思えない細々とした小物が入っている。食事に出されるスプーンや木べら、きらきらした小石やよくわからない鉄くずなどだ。それを全部取り出してからアネットは顔を上げた。
「あいつ、こりない。馬鹿だから」
一瞬何のことかわからなかったが、パトリックのことかと思いなおす。
「あの子にとって難しい話かもしれないわ。少しずつでも理解してほしいのだけれど……」
「あいつ、馬鹿だから」
アネットは黄色く、親指よりも小さな骨のようなものを手元でいじっていた。元は穴を開けて革紐を通したものらしい。
ちょうど狼の牙に似ている。
「アネット。それは?」
昔、何かあるたびに特別なお守りを握りこむ癖を持っていた人がいた。今、アネットも同じように握りこみ、とんとん、と胸を叩く。その仕草まで同じ。
少女はリリーローズの疑問に弾かれたように反応し、後ろ手に隠した。
「大事なものなのね」
「知らない」
上目遣いのまま、アネットは唐突にこんなことを言った。
「おまえ、母ちゃんがきらいだろ」
「え? 急にどうしたの」
確かめるようにアネットの眼を見れば、同じように見返してくるペリドットの眼はとうに確信の域に達しているようだった。
「見ればわかる」
言葉少なであるが、アネットが孤児院に来るまでの劣悪な環境を生き抜くために身に着けた知恵と考える
ならそんなにおかしな話ではなかった。それにリリーローズは前例を知っている。
そのことで聞く機会を伺っているのだが、アネットとの距離はいまだはかれない。親しくなったと思ったら、次には警戒心たっぷりにどこかへかけ去っていく彼女。まるで狼のよう。
「何と言えばいいのかしらね」
口ごもり、俯く。気のない笑みがこぼれてきた。
「きっと違う国の言葉を使っているのよ、わたくしたちは」
あるいは、リリーローズの方が異端なのだ。
――そういえば、パトリックは元気だろうか。
リリーローズの思考はそちらへ流れた。彼は銀行家の夫婦に気に入られ、次の秋から都会の学校に通うことになっている。
彼はあの後すぐに起こった事件のせいで性格が変わった。それ自体は喜ばしいかもしれないが、払った犠牲は大きい。
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