第4話 春の日差しと仔狼
うららかな春の日差しが差し込む中庭で、二匹の仔狼がじゃれている。その光景を建物の石柱にもたれた少女が眺めていた。
たった一冬を共にしただけなのに、少女は蛹が蝶になるような変貌を遂げた。前よりも背が伸びて、顔の幼さも少し抜けた。痩せっぽちだった体も健康的にふっくらとして、少女らしく。孤児院でも飛び切り目立つ美少女になったアネットに、院の男の子たちが話しかけようとしているのを何度も見かけるほどだ。
「アネット」
話しかければ、「何」と睨んだ眼でリリーローズを見上げる。
狼の一件からアネットの態度はわずかに軟化した。
リリーローズに一言、二言だけでも返事をするようになった。
嫌々ながら着替えをするようになった。渋々と身体を清めるようになった。
他の子どもたちや職員とはまったく言葉を交わすことはなくとも、言うことをある程度聞くようになった。
脱走癖は、相変わらずだ。ただし、自分で戻って来るようになった。
孤児院を自分のいる所と思えてきたのならいいことだ。
それには仔狼の兄妹の存在もあるのだろう。
冬に死んだ狼の子どもだ。臨月近かった母狼の身体から腹を裂き、生まれた二匹。取り出したペーターはそれを布で包み、リリーローズのところへ持ってきた。どうしますか、と。皺の中のしょぼくれた眼は、彼女の答えを半ば予想しているようだった。
たとえ『人食い狼』の子でも、その子までもが人食いになるわけではないのだと。
反対意見も多かったが、リリーローズは根気強く説得した。いくつかの条件と引き換えに、仔狼たちは奇蹟的に今も生き延びている。
仔狼たちは彼女の眼が届きやすい孤児院で飼われることとなったが、突然やってきた仔狼たちに対する子どもたちの反応が一番の気がかりだった。
しかし初めは怖がっていた子どもたちも、木箱に入れられた小さな猛獣と日常的に接するうちに愛着が湧いたようで、今では進んでしつけを施し、二匹も加えて遊ぶようになった。子どもたちの適応力には目を見張る。
子どもたちは新しい友だちに名前を付けた。兄の方が「マツィ」で、妹が「エルー」。生まれた時から孤児院にいたからか、どちらもよく人に懐く。子どもたちが軽く耳を引っ張っただけでは怒ったり、噛みついたりもしない。以前、ある子が転んで大泣きしている時にマツィがふらりとやってきて、その子の頬を舐めてやっているのを見かけたことがあるが、あれには本当に驚かされた。
人気者になった仔狼たちには大概子どもたちが張り付いていたのだが、その輪から外れたところにアネットが立つようになったのがいつからかわからない。
リリーローズが気づいた時には、むっつりとした顔で妹のエルーと見つめあっているところだった。彼女が声をかけると一目散に逃げ出したが、それからも二匹の傍に誰もいない時を見計らって会いに来るようになった。
「そろそろ行きましょう。これから勉強の時間よ。他の子ももう集まっているわ」
「やだ。ここにいる」
動かないのを主張して、アネットはその場で座り込んだ。ペリドットの瞳は仔狼たちから離れない。
「金持ちはあっちに行っちまえ」
悪態をついたアネットは膝を抱え込んだ。リリーローズへの拒絶はいつものことだったから、構わず同じように隣で膝を抱えて座った。勉強も大切だが、今のアネットには誰かが傍についている方が大事だと思ったのだ。
「何を見ているの?」
「知っているくせに」
間髪入れずに答えが返る。いかにも不機嫌そうな顔で、リリーローズを一瞥すらしない。
「けれど、よくここであの子たちを眺めている理由を知りたくて。何を考えているの?」
「どうでもいい」
アネットは近くに落ちていた小石を拾い、そのまま天高く投げた。繁みに落ちた音で狼の子どもたちが気づき、二匹そろってどこだ、どこだと探し回る。鼻先を繁みに突っ込み、背中をこちらに無防備にさらしているのはどことなく滑稽で微笑みが漏れる。
「可愛いわね、あの子たちは。ずっと見ていたい気になるのもわかるわ」
「馬鹿じゃないの」
アネットは唇を突き出した。
「やつらは母親と一緒に死ぬべきだった」
「……どうして、そう思ったの?」
アネットは、だんまり。そういう時にこそ自分の意見を主張してほしい、とリリーローズは歯がゆい。非難するわけではなく、純粋に興味を持ったから尋ねているだけなのに。
「あなたの話を聞きたいの、アネット」
言葉を重ねると面倒になったのか、ぽつりぽつりと重い口を開く。
「やつらは、ここに閉じ込められているから」
小石探しに飽きた仔狼たちは今度、芝生を横切る虫を玩具に遊び始めた。ガウッ、ガウッ、と互いに牽制しあい、マツィが口先で咥えて宙に放り投げる。エルーは芝生に落ちた虫の死骸に向かって低く体勢を構えて、兄の出方を待っている。
兄のマツィは活発な性格を持つ黄金に近い毛並みをし、妹のエルーは灰色に黒が混じった毛並みで、臆病で兄の後ろをついて回る性格だ。その首には飼い犬と同じように皮の首輪がつけられていた。
また、孤児院からの脱走時の処分も決まっている。見つけ次第、射殺だ。場合によってはリリーローズも再び猟銃を手に取ることになる。それが彼らを保護する時の条件の一つだったのだから。
「森の生き物が森で生きられないのは、おかしいんだ。死んだ方がまし」
彼女らしい考えだと思った。彼女には孤児院が大きな檻に見えている。だから逃げ出そうと脱走を繰り返すのかもしれない。たとえ、他に行くところがなくとも。
「悲しいやつらだ。この先ずっと、自由に生きられない」
森で狩りをすることもなく、人の飼われる身になった狼の子どもたちは野性を知ることもない。文字通りの飼い殺し。そんな人生を強いたのは、命を助けたリリーローズの他にない。しかし仔狼たちは知らないから、彼女にも例外なく懐くのを見ると、リリーローズはいたたまれなくなるのだ。あなたたちの母親を奪ったのは、この手なのに。
「金持ちは、何でも自分勝手に考える。死んじまえばいいんだ」
だから金持ちは、とアネットは事あるごとに口にする。孤独だったアネット。ひもじい思いをしたことも一度や二度ではないだろう。町の片隅でぼろ布にくるまり、他人の軒先を借りて、道行く人をひねた眼差しで見上げるアネットが思い浮かぶ。
「勝手な都合で生かされて、勝手な都合で殺されるんだからな。金持ちは自由自在だ」
アネットからは、そう見えるらしい。
「言いたいことはわかるわ。でもわたくしはこう思うの。自分の好きなように生きている金持ちがいるとしたら、それはとんでもない愚か者。その家はあまり経たないうちに潰れてしまうわ。何代も続く金持ち……王様や、貴族、領主たちには家系を守ること以外にも、その富を皆に分け与える義務があり、尊敬されるに値するだけの行動をしなければならないの。各地にここのような孤児院が建てられ、貴族たちがさかんに寄付をするのもそういう理由で、あの子たちの件にしてもそう。あの二匹の処分についても、母狼に被害を受けた村の代表者と交渉したわ。彼らは射殺を主張していた」
襲った狼と同じ血を引いているというだけで怒りの的にするには十分なのだ。
「一方でわたくしは生かしてほしいと頼む方。あの二匹には、死んで当然の理由なんてないと考えたから」
狼は言葉を持たない。いくら主張したくとも伝える手段もないのだ。
人間には裁判があるし、弁護士もいる。
「本当は、人間の世界の決まり事にあの子たちを引きずりだすのも変な話に思えるの。まして、当の狼でないのならなおさら。人間でさえ、罪人とその両親を一緒に処刑するという法はないのにね。でも彼らにも怒りを収めようがなかったの。結果的には我が家から、その村に見舞金を出し、この二匹を外に出さないことを条件にして、折り合いがついた。我が家には理屈で言えば見舞金を出すだけの落ち度はなかったのかもしれない。けれどこういう時に損も見返りもなく、領民に尽くすのが務めなの」
リリーローズはアネットの顔を確認しながら話すが、その表情には理解の色が見える。以前から感じていたが、頭の回転の速い子だ。
「アネットはさっき狼の側のことを言ったでしょう? 母親と死んだ方がよかった、それがあるべき姿だって。わたくしも、狼の幸福は野で生きることだと思うわ。でも、人に幸福がそれぞれあるように、あの子たちの幸福が何かということもわたくしたちにはわからない」
「生きる」ことが一番の動物の本能だったら、人間に守られる選択をするのもありえることだが、それも一つの想像なのだ。答えは永遠に仔狼たちの中にある。
「世の中には色々な考え方があるけれど、いい考え方、悪い考え方と真っ二つに分けられない。わたくしが今言ったことも、物の見方の一つでしかない。――そんな中でもね、一つだけ言い切れることがあるの」
「なに」
「『常に思考すること』。自分の中の善なるものと悪なるものとを、問い続けること。――逃げないで、ね」
かつての言葉通り、リリーローズは何度も思い返して、思考する。
あの頃のアネットに何かしてあげていたら、結末は変わっていたのかもしれない。
あるいはリリーローズがもっと慎重に接するようにしていたら。
――アネットという少女が、銀のナイフを手にすることもなかったはずなのだ。
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