第3話 『人食い狼』
孤児院に現われた小さな暴れん坊、アネット。職員たちからいち早く問題児という烙印を押された彼女は、極力リリーローズには会わせないように配慮されていたが、リリーローズ自身がそれに納得しなかった。孤児院にいるすべての子どもたちと交流を持っているのに、アネットとだけは話さないのはおかしい。それに、彼女ほど孤児院で印象に残る子もいなかった。
反省室から出た後は、アネットはリリーローズの前にも姿を見せるようになった。
いたずらばかり繰り返して子どもたちの輪から弾かれたアネットは遊び場の端でいつも背を向けて丸くなっていた。
着替えや入浴を嫌がるアネットの服は汚れている。子どもたちはアネットに噛みつかれない範囲ぎりぎりまで近づき、鼻をつまんで逃げ去る『遊び』に興じるのだった。
アネットの頭近くで膝をついた。
「こんにちは、アネット」
相手はぴくりとも動かない。アネットが孤児院に来てしばらく経つが、誰に対してもまだ心を開かないという。
「今日はね、皆に新しい服を持ってきたの。さっき、皆が走っていった足音が聞こえたでしょう? これから皆で着替えるの。アネットの分もちゃんとあるわ」
アネットの口は貝のように閉じたままだから、リリーローズもそのまま続ける。
「可愛い服よ。胸元に藍色の大きなリボンがついているの。色は黄色で、裾にも藍色の布でトリミングがしてあるの。これで交流会に出てみて。どなたもきっと、あなたをおうちに欲しいって思うわ」
リリーローズはアネットのほつれた赤毛を見下ろした。埃や油脂で凝り固まっているが、しっかり髪を洗い、櫛を通していけば鮮やかな赤が現われるのだ。
目鼻立ちもすっきりしていて、瞳の色はペリドット。元はお人形のように綺麗な子だろう、と彼女は確信していた。
孤児院では二月に一度外部の人間を呼び、交流会を開く。孤児院の子どもたちを引き取る心づもりのある新しい親たちが見学しにくる。運が良い子どもたちは養子縁組の後、新しい家庭に入るのだ。将来の親たちが真剣になるのはもちろん、子どもたちも交流会が近づくとそわそわと落ち着かない。リリーローズは彼らを見越し、半年に一度は比較的きれいな古着を大量に仕入れて、子どもたちに渡すことにしていた。それも、一人一人の顔を思い出しながら似合いそうなものを選ぶ。渡す時の子どもたちのきらきらとした笑顔は何よりの宝物だ。
「あとで他の方から渡されるだろうから、一度着てみてね。サイズが合わないところがあったら、今度直してあげるから」
話を終えてもリリーローズはそこに留まった。壁際に背をもたれて、さして大きくもない窓の外の空を見ると、ぴぴぴ、と小鳥が横切った。
小鳥の動きに気を取られるうち、アネットがいなくなったことに気付いた。ちょうど戻って来た子どもたちに尋ねると、一人裸足で外へと駆け出して行ったという。
リリーローズはアネットを探した。すると、裏手にある果樹園で、林檎の木によじ登り、枝の上で実の青い林檎を齧っている。その手前には薬草園もあるのだが、その一角が踏み荒らされ、薬草ごと引き抜かれていた。
リリーローズが近づけば、アネットは齧る手を止めて彼女を見下ろした。泥と土にまみれた手足が枝の上でぶらぶら揺れる。
「急にいなくなってしまうからびっくりしてしまったわ。その林檎は熟れてないから酸っぱいでしょう?」
アネットは手の中の林檎を見つめると、ぽーん、と遠くに放った。別の林檎の木に当たって落ちる。
アネット自身もひらりと飛び降りた。猫のように身軽な着地を見せて、風のようにまた奥へ奥へと走り去ろうとする。広い裏庭の奥に行っても、塀があるだけだ。
アネットは赤い髪の軌跡を残して、リリーローズの遥か前を走る。繁み向こうにアネットが消えたと思った時、けたたましい叫び声が上がった。
駆け寄った先で、アネットは足をかかえて蹲っていた。近寄ろうとしたリリーローズは息を呑む。近くには崩れた塀があり、縦長のすき間から一匹の狼の黄色い眼が見えたのだ。
今朝も院長が、近頃、付近に『人食い狼』が出没するという話をしていたばかりだ。
狼は人を食う。特に子どもや若い女性を好む。一度人間の味を覚えると、人を獲物と認識するのだ。孤児院などは、恰好の的に違いない。アネットも塀から脱走しようとして、「待ち伏せ」されていたのかもしれない。狼はそれほど気が長く、執念深い生き物なのだ。
アネットは捕まる間際でどうにか塀の内側に戻って来られたようだが、その時に足を怪我してしまったらしい。
塀の亀裂は浅い。いまだ頭部しか見せていない狼はなおも前足をかけてこちらをよじ登ろうとするが、辛うじて阻むだけの高さはあるようだった。不満そうな唸り声を上げている。頭部を覆う毛並みは黒々とし、口を開けると鋭い犬歯が現われる。頭の大きさからしてかなりの巨体と想像された。狼と見つめあったまま、アネットの近くへ寄り、腰を落とした。
「背中に乗って」
後方の気配は動かない。
「お願い。今だけは聞いて。早くここを離れなくちゃ」
崩れかけた塀で、いつ亀裂が深まるかわからない。ほかの子どもたちにも知らせ、今すぐ室内に避難させる必要がある。
「大丈夫よ。わたくしの馬車の御者は銃を持っているの。狼もすぐに仕留められるわ。ほら」
リリーローズは震えあがった心を押し隠し、アネットに背中に乗るよう促した。
一方で、がりがり、と音がする。塀に飛びついた狼が前足で塀を引っ搔いている。彼女は焦るが、アネットを置き去りにすることは思いもつかない。
子どもは宝。子どもを守りきれるなら、命を落としても本望だ。本気でそう信じている。
唐突に、背に痛みが走る。とんとんとん、と視界の端で芝生に転がっていったのは小石だ。
「……アネット?」
狼から目を逸らせず、アネットの顔が見えない。
もう一度、小石が背中に当てられた。先ほどよりも強く。
「どっか行け! 消えろ!」
二度目のアネットの発言もまた、リリーローズに向けられたものだった。
「いなくなれ、死んじまえ!」
その怒りはリリーローズに投げつけられる小石にも表れている。アネットが何を考えているのかわからなかった。
「ごめんね。死んではあげられない。そうしたら今、アネットを助ける人は誰もいなくなってしまうから」
「偽善者!」
「そうね。……そうなのかも」
以前と同じ答えを返す。偽善者、と罵られた時、リリーローズは本当に驚いた。十歳そこそこの子どもの語彙としては難しいものだということも、彼女の中でもすんなりとアネットの言葉を受け入れてしまえたことも。
相手が望んでいないのに救いの手を差し伸べること。
自分のすることは正しいからと、余計な世話を焼くこと。
この二つだけでもアネットにはリリーローズが立派な『偽善者』に見えるだろう。彼女自身も否定しない。
「でもね、今やるべきことを間違えてはいけない。わたくしを利用してもいい。生きなくちゃ。アネットは本当にここで自分が死んでしまっていいと思うの? 狼に噛まれるのは痛くて苦しいことに決まってる。……あとに残されるのは、食い散らかされた自分の死体、ということもあるでしょう?」
聞いていた話の通りの『人食い狼』が来ているなら、十中八九襲われた遺体は無残な状態に違いない。獣害は山や森の多い地域には免れようもない。だから人々は外壁や高い壁を作り、そこに暮らす。脅かすつもりでもない事実であるし、アネットもそのことは十分理解しているだろう。彼女が保護されたのは、野犬が吠え立てる空き家の梁の上だった。野犬はアネットの肉を狙っていたのだという。
かさかさと草が擦れる音が響き、高い体温がリリーローズの背中にくっついた。リリーローズにアネットの震えが伝わる。
「……ありがとう」
怖がりな少女を背負って立ち上がる。
その時、狼の前足がうまく塀のすき間に引っかかったように見えた。見えない後ろ足をばたつかせ、塀を越えようともがき、じりじりと巨体が塀の上にとせりあがって来た。
じとりと嫌な汗を感じながらゆっくりと後退する。後ろ向きで木々の間を縫うように。目を逸らしては負けだった。
「アネット。……しっかり捕まって」
小さな果樹園を抜け、開けた薬草園の辺りで狼が塀を越えてきた。ぶるん、と狼は身震いをする。目算で距離を測れば、室内に逃げ切るにはまだ距離が足りなかった。
折り悪く、後ろから「リリー!」と呼ぶ声がした。孤児院の子どもたちの声だった。
「来ちゃだめよ!」
リリーローズは鋭い声で制した。
「ペーターに猟銃を取ってくるように言って! 今すぐ! 早く!」
状況に気付いた子どもたちは静まり返り、次の瞬間には甲高い泣き声が真っ青な空に響き渡る。
「あなたたちも、建物の中に入って!」
泣き声が止まない。舌を出した狼が獲物をねぶるように段々と近づいてきた。
「リリーローズ様!」
職員たちも気づく。
「子どもたちを中へ! ペーターは? 猟銃を持ってきて!」
「お、お嬢様!」
老御者が息を切らして走って来る。手には猟銃がある。
すると、猟銃を目にした狼も動いた。狙いは手負いの獲物。……リリーローズたち。
背中にアネットを乗せて走る。しかし、狼の足に勝てるとは思わない。
ぐんぐんと差は縮む。一か八かの賭けに出た。
「ごめんね、アネット!」
背中に抱えたアネットをすばやく地面に下ろす。
「ペーター!」
リリーローズは両手を差し出した。御者は渾身の力で猟銃を投げた。受け取って構える。
その時、牙を向いた狼が地を蹴った。
直後、ドゥン、と発砲音。銃口から白煙が上がる。
黒い獣は重力に逆らえずに草原に落ちた。右目に穴が開き、おびただしい量の血が流れ落ちる。ぴくぴく、と身体は小刻みに痙攣していたが、それも絶えた。左目に残された目の光も消えていく。
リリーローズは銃口を下ろした。横たわる狼の腹を見る。腹は不自然に膨らんでいて、対照的に毛並みは使い古された雑巾のように乱れている。
「……ごめんね」
強烈な疲労感を覚えたリリーローズは狼の傍に坐り込む。
斜め後ろに老人が控える。
「お嬢様、見事な早撃ちでございました。さすが旦那様から仕込まれたものですな。わたくしめの腕ではとても一発では決められませんでした」
鼻の穴を大きくした老御者が彼女を褒める。
「あまり気持ちの良いものではないわ。子どもたちにも嫌なものを見せてしまったし、仕方のなかったこととは言え、『彼女』にも……」
狼は飢えていた上に、胎には子どもがいた。生きるために何でもした。だが自然の中で必死に生きた野生の命を、鉛の弾は簡単に刈り取る。銃は、この世でもっとも無情な武器だ。
さぞや彼女を恨めしく思い、死んでいったことだろうか。
老御者は彼女の手から猟銃を受け取る。
「後始末をいたしますので、お嬢様は他の子を連れて中にお戻りください」
「……ペーター」
老御者は心得た顔になる。
「仰せの通り、適当なところで土に埋めましょうぞ。森の命は森に還すものですからな」
「ありがとう」
リリーローズが振り向けば、建物の扉に鈴なりになっていた子どもたちが一斉に隠れた。狼を仕留めた彼女が怖いのだろう。もう二度と懐いてくれないかもしれない。その恐れはリリーローズの顔を曇らせる。
「さあ、アネットも。行きましょう」
同じぐらいの視線の高さにいるアネットに微笑みかけようとすると、アネットは唇を半開きにし、こちらを凝視していた。
「変なの!」
目が合うと、アネットは憎まれ口を叩き、そっぽを向く。
結局、再度リリーローズの背中に乗ることは最後まで拒み通したが、それが逆にいつも通りの行動だったことに一抹の安心を覚えたものだ。
――思えば、初めから不思議な子だった。
ベッドのリリーローズは回想する。
炎のような赤い髪とペリドットの瞳を携え、世界に対する怒りを身の内に貯め込む。
リリーローズが慕わしく思う人の面影を容姿だけでなく、言動までも色濃く映していたアネット。出会ったのも神の采配なのだ。
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