第2話 婚約の行方
足にまとわりつくドレスの裾がじれったい。ハイヒールなんていらない。本当は、訪問の許可を得たら今すぐ宮殿へ走り出したかった。実際には豪奢な宮殿の応接室で小一時間ほど待つ必要があったけれど。
彼の足音が扉前で止まると、腰を浮かせて彼を待ち受ける。
「待たせたな、リリーローズ。執務が長引いてしまった」
「いいえ、殿下」
リリーローズの婚約者――クラウディオ王子殿下は繊細な面立ちに秀麗な微笑みを浮かべたが、私の右腕に巻かれた包帯を見た途端、厳しい表情で駆け寄ってくる。
「怪我……まだ治っていないじゃないか」
リリーローズを椅子に座らせてから、自身も向かい合わせの椅子に腰かける。苛立ち混じりのため息を吐きだすようにそう告げたのだ。
彼女には言いたいことがあった。負傷をおしてでも息苦しい宮殿まで来たのはそのためだ。
しかし、いざ彼を前にすると、奮い立たせた気持ちが萎むような心地がする。
「……殿下も。まだ包帯が取れていないのですね。いろいろとご不便でしょう」
先ほどからさりげなく見せないようにしていたから、彼女も気づく。
彼は諦めたように白布に覆われた左手を掲げた。
「利き手ではないからどうにでもなる。侍従もついている。あなたの方こそ大変だろう」
「私にも侍女がおりますので……」
会話が断ち切られる。どうしようもない沈黙の間に、包帯を巻いた右腕を強く押さえていた。苦痛に顔が歪むが、そうしないと正気を保っていられるか自信がない。
目の前の婚約者を真正面から受け止める勇気もない。目を閉じてやり過ごしたところで、自分が無力であることは変わりないのに。
結局、彼の方から彼女の訊ねたいことを切り出してくれた。
「あの少女は、生きているよ」
はっ、と顔を上げれば、王子はリリーローズをまっすぐに見つめていた。瞳の色は珍しいバイオレット。いつもこの瞳には気圧される。王国の将来を担う者としての重圧にも真っ向から立ち向かう強さを湛えていて、揺らいだところを一度も見たことがない。
「まだ幼い子だ。命までは取られまい。代わりに、あの少女は生涯あなたと会うことはない。その身柄は島の流刑地に送られることになった」
赤毛の「あの子」の笑顔が思い浮かぶ。野原で花を摘み、ぎこちなく花冠を作る手つきに互いに笑いあった日のこと。ようやく心を開いてくれたと思っていた矢先だった。
『アネット』。それがいじらしいくらいにリリーローズを慕ってくれた年下の少女の名。彼女と交わした言葉を思い返せば、その一つ一つで視界が滲む。涙の洪水で目まで押し流されそうになる。
「聞きたかったのはこのことではないか」
婚約者は淡々と言い放つ。それから両足を組みなおして、じっと彼女の返事を待つようだった。
「いえ。そのことは父より聞いています……」
彼女は首を振り、否定の意を示した。しかし、そこからがまた続かない。覚悟を決めて対面したはずが、頭の中が真っ白になって、唇は震えるばかりで声にならない。膝の上の拳が二つ、きつく握りしめられる。心臓の音と呼吸の音しか耳に入らなくなった。
「殿下、わたくしは……もう」
「あなたは弱いな、リリーローズ」
惨めな気分で俯いていると、感情がこもらない声が降って来る。
「王妃は強くあらねばならず、こんなことで感情を乱すようなことは私の妃には許されないことだ。国民に悲しい顔を見せてはならない。教師にもそう習ったはずだ」
「仰せの通りです、殿下……」
ドレスの布にきつく皺が寄るが、彼女は離せなかった。目元の熱さを忘れることに集中する。だから、彼女は正面の人物が立ち上がって、あの決定的な言葉を告げた時、反応が遅れた。
「今の弱いあなたではとうてい私の伴侶にはなれないだろう。婚約についても破棄した方がよいかもしれないな」
「え……?」
一寸、彼女は驚き、顔を上げかけた。まるで彼女の考えていたことをそのまま代弁したような申し出だった。リリーローズは、王妃にふさわしくない。己が数年来抱いてきた王妃の資質についての懐疑に、本人の口から引導が渡されたのだ。
彼女は、ほっとした。国母の地位につくのは、こんな役立たずであってはならない。
そもそもなぜ婚約者に選ばれたのかもよくわかっていなかった。候補となる令嬢たちが呼ばれたお茶会に行かされて、疲れてひとりで休憩していたら声をかけられた。それだけの接点だったのだから。
「感謝いたします、殿下……」
「なぜ礼を言うのだ。結婚しない方があなたにとっては安心なのだな」
「……はい。殿下には申し訳なく」
規則正しい靴音がリリーローズの足元まで近づいた。自らの席を立ち、リリーローズの椅子まで回り込んだのだ。
王子が自分を見下ろしている気配がする。きっと呆れているのだ。この完璧な人には彼女の悩みは些末なことに違いないから。
「私は早々に婚姻することを求められている。すぐに別の婚約者が宛がわれるよ。婚約者があなたであったことにも大して意味はない。誰でもよいし、それなりに上手くやっていくつもりもある。あなたでなくても別に問題はないんだ」
私はあなた以外の女性とも結婚するよ、と。
かけられた言葉も彼らしい。リリーローズは粛々と受け止めた。
「今日はもう帰るといい。あなたに必要なものは休養だ」
返事も聞かずに彼は立ち去る。部屋を出ていく背中はとても大きく見えた。
リリーローズは邸に戻った。邸内でも笑みを保ったままで自室に入る。ドレスから軽い部屋着に着替えると、体の中でずっと張りつめていた何かがぷつりと切れた。たまらずベッドの中で身体を丸める。
きつく目を瞑ると、思い出す。今日会った婚約者と――クラウディオ王子との打ち解けないやり取りに至るまでの――とりとめのない出来事たちを。
まずそれを語るならば、ある少女のことを語らなければならない。
リリーローズとクラウディオ、二人に深く関わることになる少女の名は、アネットという。
※
リリーローズが、初めてアネットという少女に出会ったのは孤児院だ。リリーローズは後援者の家の娘で、アネットは孤児院に引き取られてきた子どもだった。アネットは親も兄弟もなく、ずっと一人で盗みを働きながら路上に暮らしていたという。保護される時も逃げようと無我夢中で暴れたらしく、リリーローズは引き取られた話は聞いていても、危ないからとしばらく会わせてもらえなかった。
「孤児院にもいろんな子がいますが、あんな暴れん坊は滅多にいませんよ! 本当に手を焼かせる子ですよ!」
普段温和なはずの院長がアネットのことを口にする時には感情を露わにしたのを覚えている。
初対面も、孤児院の地下にある、ほとんど牢屋のような反省室の格子越しだった。アネットは、リリーローズの訪問前夜に脱走騒ぎを起こし、その罰で反省室に閉じ込められたのだ。
この出来事を聞いたリリーローズはとうとうアネットに会ってみたいと告げていた。
孤児院にいながら一度も見かけたことのない女の子。それでいて、孤児院の話題をさらい、皆の中心に居座る子ども。皆が会わなくてもいいとリリーローズを止めたが、彼女は俄然興味を持った。大人しいと人から言われるリリーローズとは、まるで正反対の女の子のように思えたから。
リリーローズは付添人すら断り、ひとりで反省室への石階段を下りた。
小さな子どもは明かり取りの小窓の光が届かない室内の隅で身体を縮こまらせていたが、リリーローズの気配に気づくとぎらぎらとした野生を湛えた眼で警戒心を露わに睨みつけてくる。普通なら怖くて動けなくなるかもしれない。しかし、リリーローズはそこに他者への怯えを見た。
何も信用していない眼。逞しさと孤独を湛えていた。
「こんにちは」
リリーローズは格子前で両膝をつき、呼びかけてみた。
「わたくしはリリーローズ。時々、この孤児院を手伝っている者です。皆には、リリー、と呼ばれているわ。……あなたの名前を教えてくださる?」
返事はなかったが、それも仕方がない。
少女にとってリリーローズは妙に馴れ馴れしく接してくる怖い大人だ。そうやって極度に警戒しなければならないほどに荒れた環境にいたことも予想がつく。この孤児院にいる子どもたちは多かれ少なかれ、心に傷を負っている。胸の痛む話だ。
「また来ます。その時にあなたの名前を教えてくださいね」
彼女は持ってきた食事用のプレートを格子前に置いた。一食分抜いていると聞いていたから、空腹で辛いだろうと思ったから。
今日はこのぐらいにしようと踵を返した時。背中に衝撃が走った。
振り返ると、先ほど置いたプレートがひっくり返されている。上に乗せた木製の椀も。足元には、彼女が作った野菜スープの残骸がまき散らされていた。
格子向こうで立ち上がっているアネットと目が合う。彼女は中指を立て、リリーローズに言葉の槍を突き刺した。
「偽善者。地獄に堕ちろ」
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