狼令嬢リリーローズの心

川上桃園

第1話 狼の歌


 茂みに隠れて息を殺していた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。十を数え上げた途端、隣にいた父とペーターが揃って猟銃を構えた。示し合わせたように同時に撃つ。ドゥン、と腹に音が叩きこまれるのと同じく、一匹の狐が草地に倒れた。

 触れた狐の毛並みはまだ温かく、しかし、見開かれたままの目はすでに「死」によって翳っている。腹が赤い血でぐっしょりと濡れていた。


「子どもの方を逃がしてしまいましたな。母を亡くしたなら長生きできないでしょう。かわいそうなことをしました」


 草地にいた狐は二匹いたが、仔狐は母が撃たれた音に驚いたのか、一瞬、飛び跳ねたと思ったらみるみるうちに森の奥へ消えたのだ。


「かわいそう?」


 幼い私が尋ねたら、仔狐を狙っていた老人は抑揚のない声音で応えた。


「ひと思いに殺してやった方が楽なものです。一匹だけでは生きられませぬ」

「ペーター」

「へい」

 

 話に割り込んだ父が、両足を括った母狐を放り投げた。老狩人は獲物を、これまでの「戦果」と同じように大きな木の下に置いてあった大きな袋に詰め込み、肩に担ぐ。

 それからぴゅう、と口笛を吹く。老人が可愛がっている狩猟犬二頭がよだれを垂らして駆け寄ってきた。


「おまえたち、今日はもう追い立てなくてもいいぞ。帰ろう」


 皺の入った手が犬の頭をそれぞれひと撫でし、そのままチョッキの内側へ。小さな干し肉を取り出すと、丁寧な仕草で犬たちに与えた。

 私は老狩人にまとわりついて喜びをあらわにする犬たちを興味深く見ていた。本当は触りたかったけれど、父が嫌な顔をするだろうからと言い出せなかった。


「そろそろ日暮れになります。旦那様、お嬢様。終わりにいたしましょう」


 父は黙って頷いた。

 さらに老狩人がぴゅうぴゅうと二度節をつけて口笛を吹く。

 長年仕込まれてきた犬は合図の通りに駆けた。敏捷な身体はすぐに木立の向こうに消えた。犬は先ぶれとなって、館の面々に主人たちの帰宅を告げに行く。

 今日の収穫物を軽々と担いで先導する狩人の背中は大きい。暗がり迫る森を切り開くような歩みだ。

 そんな彼が、ふと足を止めた。左右を見回し、背をかがめた。振り返って、私と父に、


「狼がおりますな」


 誇らしげに言った。

 ……耳を澄ましてみてください。ほら、狼の声が聞こえるでしょう。

 老練の狩人が告げるとおり、私の耳にも、低くて太い音が届く。ひとつきりではない。幾重にも折り重なった音が、不気味な曲を奏でていた。まるで切々と何かを訴えているような……。心が苦しくなる声が風に乗って流れ込んでいた。


「こちらが風下なので気づかれないでしょうが、念のためにここで待ちましょう」


 しばらくはじりじりと時が経つのを待った。何の前触れもなく、狼たちの歌が止む。

 これを合図に、一行は慎重に前進を始めた。ようやく森の出口に至ったところで、老人は再度態勢を低くした。口元に人差し指を立て、開けた景色の向こう、小高い丘を指さした。黒い影がいくつもある。それは狼の群れだった。


「じきに去ります。お嬢様、こちらへ」


 狩人は自分の前に私を座らせた。


「ペーター、こわい」

「大事なことですよ」


 狼の群れから隠れるのに、小さな茂みだけでは心もとなかったが、ペーターはそれでも私に前を向かせた。


「旦那様とともに狩猟をされるならば、熊や兎や狐よりも先に狼との付き合い方を心得なければなりません」


 深みのあるかすれ声が私の耳元で囁いた。この場で大きな音を立ててはいけない。「彼ら」に気付かれてしまうから。手から汗がにじむ。


「彼らは同じ獲物をめぐって争う人間の競争相手です。単体で動く熊よりはよほど賢い猟の仕方をする。彼らは獲物の集団の中で病気や怪我をしている、もっとも弱い個体を選んで殺します。もし道途中で狼の牙の痕がある動物の死体を見つけても触らずにその場を立ち去ってください。そこは狼たちの餌の保管庫なので、いずれ戻ってきて、少しずつ食いますから」


 私はぞっとした。「動物の死体」を「自分」に置き換えて想像したのだ。はらわたをくいやぶられ、手と足をかじられたまま、放置されるしかない「自分」……。


「これも森には必要です」


 穏やかな口調に振り向くと、老人は日に焼けた皺の多い顔に対して不揃いな黄色い歯を見せていた。


「猟師の中には昔から『狼は獲物たちを強くする』という言葉があって、狼が弱い個体を狩ることで、種としては強い個体ばかりが残るというわけですな。森には何一つ無駄なものはないわけです。彼らは森の生態系の頂点にいる。しかし、近ごろでは狼も減りました。ああいう光景を見るのもなくなってしまうでしょうな。昔は、『森の王』とも呼ばれて恐れられていたものですが」


 冷たい風が丘から森へと吹いた。

 西日に照らされた狼のシルエットが黒く切り取られている。互いにじゃれていた狼たち。ふいに尻尾をぴんと立てた狼が天を見上げ、両耳を伏せて、遠吠えをし始めた。他の狼たちもそれに合わせる。狼の奏でる音楽は、全身が楽器そのものだった。


 のびやかだが、力強く。しかし個性で揺らぐ音色。よくよく聞けば一つとして同じものはないのだった。


 私はいつしか耳目を奪われて、狼たちの――自然の美しさに心までもさらわれた。


「狼は無情ではありません。群れの仲間は大切にし、仲間を失った時には一日中でも遠吠えする。それに、仔狼の時に受けた恩は忘れません。わたくしめも祖父から寝物語に聞かされたものです。曾祖父が助けた仔狼は成長した後も曾祖父の狩猟小屋まで時々戻り、遠吠えを聞かせたようですな。彼らは仲間を呼ぶのにも、遠吠えをするのです」


 だったら、あの狼たちは何のために遠くまで届くように吠えるのだろう。

 狼の声に耳を傾け、その姿に目を凝らしているうち、彼らの仲間に入りたくなった。――狼たちが呼んでいるから。

『おいでよ、リリーローズ』

 ふいに茂みへ向いた雄狼の眼が私を絡めとる。瞬間、魂が抜け出て、彼らの居場所へ飛んだようだった。狼たちは、私を歓迎し、喜んだ。私は安堵した。私は彼らで、彼らは私。私の魂は狼たちと溶けあうべきものだったのだ。

 ああ、そうなのか。あれは、狼というものは……。

 その時、背後で小さな金属音がし。銃声とともに狼たちは風のように駆け去った。

 ……行ってしまった。私を置いて。

 心にぽっかり穴が開く。先ほどまではあんなに満たされていたのに。

 氷のような無表情の父は舌打ちして白煙を上げる銃を下ろす。


「古い考えだな、ペーター。精霊たちに満ちた森の伝説はもう絶えた。今は開拓の時。やつらは森の王などではなくなった。王者交代したのだ。今や地上すべてが人間のものだろう」

「旦那さま……」


 これを聞いた老狩人の目が曇る。すると、その身体はずいぶんと小さくなり、まるで十は老けこんでしまったようだった。


「やつらは敗者。弱い者が滅びるのも神が与えたもうた摂理だ。次は殺し尽くす」


 父の言葉はそら恐ろしく、私は身を縮こまらせた。先ほどまで思っていたことを父に知られたらどんな折檻をされるのだろうか。

 私は父に狙われた狼が気になって、丘を凝視した。

 丘から森へ黄昏混じりの風が流れてくる。

 撃たれた狼はいなかった。

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