眠れ
我々は選択を迫られていた。今や城郭の如し塹壕線もその機能を失いつつあった。地平線いっぱいに列をなしていた熟練兵も数える程となっていた。
何が残っただろうか?
戦争の先を見据える時が来て、そのために選ぶ必要があった。だが、それは政治家達の話でしかなかった。
塹壕に転がり込んだ手榴弾を投げ返し、引き金を引いて戦う、敵とではない、死と。戦うか逃げるかといった限られた選択だけが兵士達に与えられいた。
私は戦うという選択肢を選び、僅かな装備でここを守っている。最後の戦いになるだろう、予感はきっと現実になると確信していた。しかし、抵抗を続けて決して死を待ちも敵に屈することもない。
この抵抗により守れるものがあるのであれば。若い才能を後世に残せるのであれば。
弾が切れ、弾薬ポーチに手を入れた隙を狡猾な一人の敵兵は見逃さなかった。砲撃によって生まれた穴から飛び出し、狼の様に私へ襲いかかってきた。
顔面めがけて突き出された銀色の物体を掴み、首を傾けると銃剣が左耳に風切り音を残して壁へと突き刺さった。反撃に出る間もなくシャベルの縁が側頭部を切り裂かんと払われて咄嗟にしゃがむ。
頭上に刹那の影が過ぎ、私はバネの様に勢い良く足を伸ばして相手を殴りつけた。だが、直ちに反撃の殴打を浴びてよろめく。
しかし、長年の経験が自然に足を動かして敵の足をすくい取った。敵が立ち上がる前に落としていた銃を拾い、その鋭利な銃剣を振り下ろした。硬い感触に弾かれ、斜めに突き刺さった銃剣から密度のある柔らかい感触が伝わり、敵は口から血を吐いて息絶えた。
銃を引き抜いて弾を込め、また新たな敵へ向けた。夕焼けの赤いオレンジの光が戦場に染み込んで、血の海を連想させた。荒涼とした波間から泥で黒く染まった敵が現れ続け、我々を一掃せんと向かっていた。
日も沈み夜になって更に数時間経った時、ようやく私のいる塹壕に対する攻勢は止んだ。他の場所には攻勢が続いており、こちらの防衛線を突破しようとしているのは軍人でなくともわかる事であった。
敵の集中攻撃に対応する為に自分のいる部隊から一部引き抜かれ、この塹壕内においては生きている者より死者の方がその数を優に上回っていた。
「アルベルト、大丈夫か?」
「ヴィルマー、大丈夫だ。お前は?」
「なに、かすり傷程度だ」
ほとんど最後の最も古い戦友が隣に腰をおろした。半月より細い月がぼんやりと空に映っていたので、ただそれを眺めた。とにかく疲れた。空腹も私の側を離れようとはしない。
ただ二人で漠然と待機していると銃声がこだます。
一瞬で警戒態勢へ切り替わった私は銃を持って音のした方を見る。
「敵の夜襲だ」
ヴィルマーも私同様に銃を構えて小声で耳打ちした。その可能性は高く、狙いは重機関銃陣地だろう。視界の悪さや鉄条網によって正攻法を諦めて塹壕内に入り、内部から重機関銃陣地を封殺する腹積もりだろう。
「きっと重機関銃陣地が狙いだ」
「だろうな。あれを潰されたらここを突破できる」
足早に重機関銃陣地に入り、向こう側へと敵を探りに行く。何度目かの銃声がより近い位置で聞こえ、また聞こえ、そして慎重に角を確認しようとした時、悲鳴が聞こえ、おぞましい叫びも混じった。
何かだ!
「背後を頼む」
「ああ」
そっと角から通路を伺う。何かが立っていた。しかし、常にクネクネと奇妙な動きを続け、獣の動きで塹壕の外へと出てしまった。
「敵は?」
「死んだ。何かがやったんだ」
暫くすると更に先から悲鳴が聞こえた。
「行こう」
「待て、ここで待ち伏せしよう。敵にしても何かにしてもここで迎撃した方がいい」
ヴィルマーの言う事は正しかった。視界の悪い中で前進するのであれば、息を潜め、鋭く尖らせた感覚で相手より早く見つけて致命的一撃を加えたほうが良かった。
しかし、ここにはルッツがいる。敵を野放しには出来なかった。
「じゃあここで待ってくれ、先を見てくる」
「おい、自殺行為だ」
ヴィルマーが肩を掴んで制止してくるが、
「駄目だ。彼がいる、お前を殴り倒してでも行かなきゃならないんだ」
ほんの数秒だけヴィルマーは迷い、薄い月光が生む暗闇の中、瞳だけ光を淡く反射させて私を見た。
私の肩は解放された。
頭を下げて進む。どんどん早く。そうでなければ助けられないかもしれないと感じたから。
驚愕した声に苦痛に悶える叫び、銃声。何かが近い、すぐそこにいる。
飛び出した先、そこに黒い人影があり不気味に蠢いている。その隣には横穴があった。夜、彼はそこで眠っている。
この時、この瞬間が仕留めるチャンスだと、素早い動きで銃を構え、暗闇に揺れ動く何かに銃を向ける。
照準を合わせて指を引き絞る。弾けた銃口から漏れ出す閃光が視界を染めて、銃弾は何かの腹に埋没した。
撃たれた事で何かは踵を返して逃げようとするが、その背にもう一発放って何かを追う。
仕留める時が来た、私は最高潮に達していた。ある意味で最悪の脅威をようやく排除できるのだから、目は冴え渡り、頭は歓喜の時を迎えていた。
ジグザグの塹壕を進み、三箇所目の角を曲がった先に倒れた影を見つけた。
何かか?
ゆっくりと近づくとそれがどういった存在かを理解し、私は一気に全身の血が熱を失うのを感じた。
ルッツだった。
「ルッツ!」
銃を投げ捨て彼を抱きかかえる。腹から出血し、背中に回した手にも生暖かいぬめりを感じる。
「ここは危険だ。ヴィルマーのいる場所まで運ぶ。ほら、押さえるんだ。大丈夫、もう大丈夫だ」
血が溢れ出る傷口を押さえさせ、ルッツを運ぼうと抱えあげる。走りながらずっと彼に声をかけ続ける。
「前に言っていた、詩は出来たのか。出来てたらみんなに見せなきゃならない、出来てないなら完成させなきゃならい」
「まだです」
「喋るな。話を聞いているだけでいい。大丈夫だから」
「アルベルトさん、あなたがいれば、安心です。何度も命を救ってくれました。ありがとうございます。今、とても安心です」
ルッツの声が一際力強くなって次第に弱々しいものに変化していく。傷口を押さえていた手は胸ポケットへゆっくりと伸ばそうとしていた。
私は立ち止まり、近くに彼を寝かせた。
「ルッツ、私は君の詩が大好きだった」
彼は頷いた。
「言葉で言い表せない感動を貰ったんだ」
彼は一度ゆっくりと目を閉じ、長い時間ののち瞼を持ち上げた。呼吸はもう浅い。
「君に会えて、良かった。いや、私の人生最大の幸福だ」
沈黙が流れていく。
彼の胸に手を置いて顔を見る。
「もう、安全だ。絶対に」
「アルベルトさん、ありがとう」
最後の生命の収縮が行われた。
彼が去った時、私の人生で最も大きな悲しみが訪れた。ただ泣くことしか出来なかった。
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