5話

 あの夜以来、激しい砲撃が続いた夜に何かは度々現れて兵士達を襲い、未知の非物質的な恐怖を我々に植え付けたのだった。噂は電光石火で広まるが悪魔的恐怖はそれを上回る速度で伝播していく。

 今や誰もが敵の銃弾や砲弾よりも何かを恐れた。私を除いて。

 もちろん、一切の恐怖が無いわけではない。もし恐怖を知らなければか弱い小鳥は獰猛な捕食者の眼前に平気で止まって羽を休めるだろう。だから私には最低限の必要な恐怖はあったが、差し迫った生命の危機に足を竦ませる重しになる事はなかった。

 理由は一つ、芸術家を守るためだ。

 この戦いの後、彼はその才能をより大きく広げるだろう。そんな夢想があらゆる敵に対する闘争要因の一つになっていたからだ。

 叫び声が聞こえたら寝ていたとしてもすぐさまこの眼を開き、芸術家とその敵を探し出すのだ。そして守護と迎撃を行うのであった。

 何度も彼を助けたが未だに何かを捉えることはなく、いつも闇の中に霧散されているのは悔恨の極みである。敵を討たなければ平穏は訪れない。

 しかし、一ヶ月は続く砲撃に加え、何かに対する恐怖は非常に我々の抵抗を困難なものとしていた。

 幾千もの砲弾に耐えていた塹壕も既に崩壊を初め、私は木を打ち付けて微々たる修繕を砲撃の隙をぬって行っていた。


「明日、重機関銃陣地の向こう側に移動するんだ」


 誰かが漏らした。皆黙っている、何を言いたいのかはわかっていた。


「懇願したのか?」


 沈黙の後に男の2つ隣でシャベルを振るう男が独り言の様に聞いた。


「したさ、だが、この通りだ」

「直ぐに隠れれば良いって」

「そんなの噂だろ!」


 誰かの発言に、全て言い終える前に怒声を放ち男は激怒した。

「死にたくないんだ」


 激しい形相がまたたく間に冷めて男は項垂れた。


「いや、違う。死ぬのはまだいい、砲弾なら気づかずに死んで、銃弾でも苦しむかもしれないがまだ人間に殺される」


 緩慢になっていた作業の手を遂に止めて男は顔を上げる。


「だが、何かは、体を引き裂いて地獄の苦しみを感じながら殺されるんだ」


 その時、脳裏に腹をきっと何かの鋭利な爪でズタズタに割かれた死体の姿が浮かび上がり、他の恐ろしい死に方をした者達が呼び起こされた。


「どうせ、死ぬんだ。だが、俺は御免だ!」


 あまりにも唐突な行動に誰も反応することが出来なかった。男を止めようとした時には既に塹壕の壁をよじ登り、地上へと出てしまっていた。


「殺してくれ! 殺せえ!」


 雄叫びは立て続けにこだます発砲音にかき消され、泥に重たいものが倒れる音がして刹那に静寂が訪れた。死のほんの僅かな静寂が。

 誰もが驚愕するでも悲しむでもなく男の選択をただ受け入れた。混沌とした塹壕を日常とした我々は死や混沌を当然の事とし、何の感情も抱くことはなかった。

 数秒の後、作業は再開された。

 数時間後にはまた配置について銃を構えていた。


「アルベルト」


 貴族ぶった抑揚の癪に障る声が私を呼んだ。


「なんでしょうか」

「貴様、夜に持ち場を離れていたな、逃亡は許さんぞ。反逆者は」


 サーベルの側につけた拳銃を宰相の滑稽なモノマネ男が叩いて見せた。


「その、いもしない反逆者に銃を向ける事を考えるのであれば、食料と弾薬の補充を考えるのが懸命ではないかと、僭越ながら意見具申させていただきます」


 顔を真っ赤にした道化は拳を振り上げたが、敵の指揮官もその手を上げたらしかった。

 非日常が終わり、砲弾の降り注ぐ日常が帰ってきた。

 降りかかる泥に首を竦めてからふんぞり返った男は拳を震わせながら下ろし、去っていった。

 回れ右した私はまた敵塹壕へと銃口を向けた。

 時間になると食事を受け取って重機関銃陣地を越え、すっかりお馴染みとなった場所に座った。

 少しするとルッツが同じく昼食を手に現れた。


「アルベルトさん」

「やあ、ルッツ、大丈夫か?」

「はい、いつもありがとうございます」


 彼は何かの一件以来、ことあるごとに私に感謝の念を伝えてきた。ご両親は素晴らしい人格者なのだろう。

 たしかに、あのとき助けたのは事実だが、普段隣で守っているわけではない。敵の銃撃砲撃、その他の脅威から身を守れるのは自分しかいない訳であり、彼が今の今まで生きていられるのはまず彼自身の行動によるものである。その次に同じ部隊の仲間達がいるだろう。


「アルベルト、ここまで抜け出して大丈夫なのか?」


 ルッツの部隊の面々も合流し、賑やかに食事の時間が過ぎる。この時だけが戦争の中、私が安らげる数少ない時間の一つであった。あとは同じ部隊の者と過ごす夜だろう。それだけ安らげる時があるのはとて幸運な事であった。


「この前の掲載された詩、とても素晴らしかった。子供心が蘇る、そんな詩だった」

「そうなんです。自分の昔過ごした親戚の家の出来事が元なんです」


 詩の話をする時に最もルッツは目を輝かせ、戦争も死や何かの恐怖も忘れていた。それは話を聞く者達も同様であった。純粋な若者は死をしばしば超越させるのであった。


「おいおい、俺のも良かっただろ?」

「お前のは駄目だ。おっさんの寝言を書き留めただけだ」


 他の者達も愉快に話していつしか楽しい時間は終わり、戦友達の顔から敵の顔へと自分の顔を向け、また長い忍耐と闘争の時間を迎えるのであった。

 ようやく眠れる時に耳を澄ませる。兵器の放つ破壊のうねり以外、未知のおぞましい音はしなかった。今夜、普遍の塹壕が防ぐ事のできる鉄の脅威以外は無い。

 きっと今夜は大丈夫だ。穏やかにルッツは眠っているだろう、願わくば美しい夢を見ていて欲しい。

 安堵と共に安らぎが訪れ、私は眠りについた。戦士は守護者は時に十分に眠り、戦いに備えなければならない。

 恐怖を運ぶ者たちと戦うために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る