3話
砲撃が止まぬまま、硝煙の立ち込める戦場を朝日が照らして鋼鉄の細かな矢じりが挑発的な挨拶で嘲る。いかにも恐ろしげな朝かもしれないが、兵士にとっては朝に小鳥のさえずりを聞き、朝日を浴びると同じ様なものであった。今日も貪欲な敵の邪悪なる手指から祖国を守る為、この未だに澄んだ瞳で敵を睨みつけなければならない。邪で悪意に満ちた存在はそれを監視する絶対的な視線に怖気づき、監視者の鉄槌を恐れるのだ。
敵の連続速射は数日間続いている。しかし、塹壕は堅牢さを保ったままでいる。
小銃を構えて撃ち、榴弾の炸裂から身を護る。その様な事を永遠に続けていると持ち場の交代が始まり、自分も別の兵士と交代して食事を摂ることにした。
配給された缶詰とビスケット数枚を持って比較的安全な場所に座り込もうとしたが、この前に助けた者がどうなったのかまだ見ていない事を思い出し、彼のいる場所までそそくさと走り彼を探した。
「どうしたんだ?」
見覚えのある顔が銃に弾を込めながら問うてくる。
「ルッツを知っているか?」
そう聞きながら、相手は私があの時に生き埋めになった味方を助けていた内の一人だと気がついた。
「ああ、思い出した。あの時の。ルッツならあっちだ、今はメシを食ってる」
泥だらけの男が示した方へ行く。するとぽつんと一人で缶詰にスプーンをさしている若い兵士がいた。
「ルッツか?」
「えっ? はい、そうです」
私の事など当然知らない彼は困惑した視線を向けてきた。
「私はアルベルト、重機関銃陣地の向こう側にいるんだが、この前の救助に参加してね」
そこまで言った所で彼は大きく目を見開いて口に運びかけていたスプーンも缶詰に戻し、
「私を助けて下さったのは、貴方ですね」
「うん、そうなる」
「ああ、何とお礼をしたらいいか。貴方がいなければ死んでいたかもしれない」
大げさでオペラ的な感情表現に驚いてしまうが、彼が芸術家である事を思い出した私は自然と納得した。この様な豊かな感情があるからこそ、あのような生き生きとした美しい詩を描けるのだと。そう、描いているのだ、綴るのではなく。きっと彼はそうやって詩を創造するのだ。
「君みたいな素晴らしい詩人を助けられたというのは私にとって名誉な事だ。とにかく、無事で良かった」
最後にそう言い残して持ち場に戻ろうとすると引き止められた。
「食事はまだですよね。一緒に食べましょう。まあ、あまり良い事では無いかもしれませんが」
一塊にならない方が良いとはいえ、たかが二人、危険も無いといつも慎重な私の本能も態度を軟化させた。これは非常に珍しい現象であった。
「うん、そうさせてもらおう」
彼の隣に腰掛けて缶詰を開けて匙を入れる。やや畏まったルッツに階級名を付けられたが名前だけで構わないと伝えた。
「はい。アルベルトさんはどうしてわざわざ自分の安否を確認に来たのですか?」
「君の詩を見てね。あの時も、もしや、と思ったんだよ」
「あっ、あれですか」
ニコリと笑いながらルッツは口元を拭う。
「とても美しい詩だった」
往々にして真の芸術というものは雄弁に自らを我々に語りかける。まずはそれを聞くのだ。
そして、芸術の持つ美を慎重な観察をもって本質を汲み取り、精緻な構成を理解する必要がある。だが、これは公正な判断力の元行われる必要があった。
彼の詩は実に多くを私に語りかけた。そのおおらかな声に耳を傾け、その細部を見つめた。するとどうだろうか、周囲に漂う死の芳香により息詰まり、窒息して、二度と蘇らなかったかも知れぬ感性が水を得て大きく呼吸しだした。振りまく生の呼気は戦場を豊かな自然に変え、血と火薬の匂いを花の香りに変えた。
そんな詩を創造した者と並び、食事を共にするのは夢ではないかと錯覚しそうな、稀有で幸運な出来事であった。
「故郷を思い出しながら書いたんです。自分の生まれ育った場所が美しいから、それを素直に詩にすれば良いんです」
私はこの創造者に感嘆した。自身の瞳で見た美を詩を通じて私に見せたと言うのだから。写真とは違う、匂いも日差しも葉の擦れる音すら聞こえる、情景へと誘う魔法を使って見せたのだ。
「それは普通の人には出来ない、君だけの幸だ。大事にしてほしい」
「はい、なんだか、気分が良くなりました」
彼は朝よりもより濃い煙で隠された空へ視線を向けた。瞳は輝いていた。未だ敵の制圧を受けていない、死に纏わりつかれ窒息させられてもいない。この輝きを磨くことは自分には出来ないだろうが、保つ事、穢そうとしてくる灰と煙、打ち砕かんとしてくる鋼鉄と鉛を打ち払う事は出来るだろう。
「新しい詩を書きたい気分です。良い詩を神様が授けてくれるかもしれません」
彼は土で汚れた頬を緩ませた。
抑圧された塹壕で私は期待で胸膨らんだ、新しい詩、新しい芸術と美の誕生を予感したからだ。
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