2話
闇色の重苦しい帳が降りて半分欠けた月が太陽に代わる。大抵、こういった時間帯は静かなものだが、塹壕の中はそうではなかった。負傷者のうめき声や得体の知れない音さえも遠く響いた。
硬いパンをおいしくないスープに浸しふやかしたものがその日の夕食であった。補給品が砲弾で吹き飛ばされた時は食べる物も無かったので、こうして何かを口にできるだけでも戦場では一つの贅沢だろう。
特に、我々は非常に辛抱強く、頑固な民族だ。それは時折良くない方向へと物事を運んでしまうが、戦争、こと塹壕戦で言えば最高の民族的特色と言えよう。時に起きる数的にも兵器の質的にも上回る敵を相手に攻勢を跳ね除け続けられるのはこの民族性からだと考えている。贅沢な食事ではなく、真に身体が必要とする栄養を自然と求め、武器の手入れも自身の一部として丹念に武器を整備し、一ヶ月に何度か嗜好品を口に出来れば不満など感じないのだ。こういった人間的真面目さというべきものが自然と備わっている民族は我々以外にいるだろうか?
当然ながらそんな民族は我々だけとなっている。
こうして私は質素だが十分な食事を済ませて塹壕の中に掘った横穴の中で一息ついた。ランプの下では何人かがたむろして雑誌を読み、意見を交わし合っていた。それを目にして私はあの雑誌が昨日出たばかりで見ていない事に気がついた。
腰を上げて、低い空間を中腰で移動し仲間の輪に加わった。
「どうした。珍しいな」
隣の兵士が私のためにスペースを空けながら問うてきた。だが、私が塹壕内の兵士が綴った詩を気に入っていると思い出したのか、勝手に何度か頷いていた。
「昨日のか?」
雑誌と言うにはお粗末なそれを指差した。
「そうだ。今回は力作揃いだぞ」
見えるように広げられた粗悪な紙に顔を近づけ、一語一語丁寧に読む。
戦場という極限状態において思いがけず戦闘外の才能を開花させる者達が少なからずいて、この雑誌に詩を掲載している兵士も詩という芸術の才能を開花させていた。
その中でも特に素晴らしい物を私は見つけた。それは彼の故郷の情景を現した作品であり、実に写実的であり豊かな感性のもと生み出されていた。
「これを書いた者はどこにいるのだろうか?」
「多分、機関陣地の向こう側にいる」
どっしりと重たい水冷式重機関銃が据え付けられた方向を見る。もしかしたら今日の戦闘で戦死しているかもしれないと不吉な事を考えてしまう。だが、そういう事が日常で明日の今頃はここで雑誌を読んでいる人間は一人もいないかもしれないのだ。
再び詩を読む。これ程の才能があるのなら、戦場で命を脅かされ続けているというのは非常に残念だ。素晴らしい芸術家が死ぬというのであればそれを憂うのは当然であろう。
その夜、詩の批評を終えて眠りにつく時、彼の詩が自然と思い起こされた。私は幼少より芸術を欲する節が人一倍強かった。戦争という環境で長い間その欲は鎮まっていたが、彼の詩がそれを呼び覚ましたのである。
この事実に私は驚嘆した。そして、彼がもし生きているのであれば直接会ってみようではないかと考え出した。芸術家と話す、芸術を生み出す理論を聞くといった行為は芸術を愛するものであれば一度は夢見る事ではないだろうか?
その夢が直ぐ側にあるかもしれない、それだけで今までにない高揚を覚え、寝るのに苦労する程であった。
翌日、戦争が始まって以来、最も素晴らしい朝を迎えた。伝統的な石造りの家々と青々とした山々に限りなく透明に近い河川を見つめる、素晴らしい夢を見ていた。
なんとも清々しい朝を迎えて私は皆が寝ている場所から外へと出ていく。相変わらず火器が吐き出す煙に覆われた灰色の空があり、白っぽい太陽が広大な塹壕を照らしていた。泥と兵士達のすえた匂いや火薬の匂いが堆積している。
そんな中でもどこか私は爽やかな面持ちでぼやけた太陽を見上げ、深呼吸をした。
その時、耳馴染んだ風切り音が聞こえ、咄嗟に後ろの穴に飛び込んだ。
ヨーツンヘイムの巨人達が地を叩いているかの様な激しい揺れと轟音が響き渡る。驚いて起きた仲間達の叫びも砲弾の炸裂音が直ちにかき消した。
「これを!」
仲間が小銃を寄越して私の隣にしゃがみ込む。
「一日中続きそうだな」
私はその発言に同意して銃を手早く確認して戦闘準備を整える。
「この調子じゃまたシェルショック患者が増えちまう」
兵士の一人が不意にそう言った。
「患者が仲間を殴ったとか、とにかく攻撃してきたってのは本当か?」
「ああ、そうらしい」
味方が恐ろしげな話をし始め、
「やめてくれ、ただでさえ気が滅入りそうなのに余計に気が滅入る」
数名がその発言に同意した。私はどちらにもつかずにそれらを傍観する。
批判を受けて最初に発言した兵士は、
「そうだな。もっと別の事を考えたいよ」
そう漏らした。
どれだけ経ったかはわからないが砲撃音が遠くなると外に出ることに決めた。入口が土砂で狭くなっていたが、大した問題ではなかった。
いつも通り配置についてまた一日、敵との我慢比べが始まったのであった。
時々止むことはあったが、砲撃は夜も続いている。今は支給品のコートに包まって塹壕内でしゃがみ込んでいた。いよいよ敵は我々を潰しにかかる気らしい。しかし、そう思い通りにさせはしないのが我々だ。一瞬たりとも隙を見せずに耐えていた。
いつからかはわからなかったが、塹壕内がにわかに騒がしくなっているのに気付いた私は、おもむろに立ち上がって辺りを探り、聞き耳を立てた。どうやら、砲弾が塹壕内に落ちて更に敵も塹壕に入ったのではいかという話になっていた。
「アルベルト、ヴィルマー。確認してこい」
首から笛を腰にはサーベルをぶら下げた、この尊大な態度の男の指示を聞かねばならぬのは不服であったが、もし敵がこの塹壕に潜んでいるのであれば見つけ出さねばならなかった。
「行こう」
「ああ」
ヴィルマーと共に着弾地点へと向かっていく。遠かった混乱は近づいて騒がしくなってきた。
近くにいた者を捕まえて事情を聞けば、敵が侵入したというのは事実ではなかったが、土砂の中に何名かが生き埋めになっているらしかった。
「人手がいる手伝ってくれ」
銃をスコップではなく素手に切り替えて土をかき分けていく。土を掘り起こしていると手が伸びて私の手を掴んだ。
「ここだ。ここにいる!」
大声で叫び、更に掘る速度を上げる。仲間も加わって5分もせずに泥だらけの若い兵士を救い出したのだ。
「ルッツ、大丈夫か? おい」
先程の兵士が若い兵士の肩を叩いてそう問いかけた。何か引っかかった感じを覚えて暫く思案すると、あることを思い出した。あの雑誌にのっていた詩の作者を。
何という巡り合せだろうか、自分が心奪われた詩を綴った芸術家をこの手自らで救い出したというのだから。
静かなる歓喜の高揚を感じ、この若い芸術家を戦争の持つ何百何千もの死の手から守らねばならぬと直感し、使命とした。
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