上京
恭弥は机に座って作業をしていた。薄手の白い手袋をはめて、ハサミを使って新聞の見出し文字をていねいに切り抜いていく。
切り取った文字は、白いA4用紙にバランスよく並べていく。
新聞の切り抜きが一段落つくと、並べた文章に誤字脱字がないかざっと確認した。三度読み返したが問題はなかった。
今度は白いA4用紙に並べた切り抜き文字を、一枚一枚ていねいにのりづけしていく。のりをあまりつけ過ぎると新聞の文字からはみ出してしまうから、人差し指の先を使って薄く伸ばしていく。
そしてようやく、文字の切り抜きから始めて一時間近くかかって目的のものは完成した。貼りつけた文字はバランスよく並び、満足のいく出来栄えだった。
恭弥は完成した文章にもう一度目を通した。
「そ」「の」「部」「屋」「は」「呪」「わ」「れ」「て」「い」「る」「。」「死」「に」「た」「く」「な」「け」「れ」「ば」「今」「す」「ぐ」「出」「て」「い」「け」「。」
問題なしと判断すると、出来上がった手紙を三つ折りにして、あらかじめ用意していた封筒の中に入れた。
明日、普段利用しない適当な駅で降りて、目についたポストに手紙を投函するつもりだった。
* * *
「
恭弥は、大学の校門から出てきた雅達也に声をかけた。
雅は一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに恭弥のことを思い出したらしい。
「君は、確か……」
「お久しぶりです、雅先輩。恭弥です。原口華菜子の弟の」
「そうだ。恭弥君だ。久しぶりだね……。上京してたんだ」
雅は、明らかにとまどった表情を見せていた。
恭弥は心情を察して言った。
「ぼくの顔なんて、見たくないって思ってますよね」
「そ、そんなことないよ……」
「いえ、別にいいんです。姉にあんなことがあったんですから当然ですよ」
「何か、ぼくに用があるのかい?」
雅は怪訝そうな顔で聞いてきた。
「ええ。実は雅先輩に、見てもらいたいものがあって」
「何を?」
「あの、今から落ち着いて話せる場所に移動してもいいですか」
二人して近くの喫茶店に入った。
注文したコーヒーがテーブルに置かれる。
雅は、だいぶ居心地が悪そうな顔をしていた。それもそのはずだ。自殺した同級生の弟が目の前に座っているのだから。
恭弥はコーヒーに口をつけてから聞く。
「雅先輩は、本田奈央さんと付き合ってますよね」
唐突の質問に、雅は驚いた顔をした。
「そうだけど……。それが何か?」
「ええ。まずは見てもらいたいものが」
恭弥はここで、バッグから姉の日記を取り出した。
「これ、読んでもらえますか?」
差し出した日記を雅が受け取る。
「これは?」
「姉ちゃんの日記です」
雅の顔がこわばった。
「どうしてこれを……」
雅は明らかに読むことを躊躇している。とはいえ、読んでもらわないことには先には進めなかった。
恭弥は断固とした口調で相手に言った。
「読んでもらえればわかります。すみませんが、付箋が貼ってあるとこのマーカーが引いてあるとこだけでも、読んでもらえますか」
雅はしばらく躊躇していたが、断念したように日記を読みはじめた。
およそ二十分後、雅は指示した箇所をすべて読み終えた。血の気の引いた顔には、ありありと罪悪感が浮かび上がっていた。それも当然だった。本人の行為がきっかけで、姉がダークサイドへと堕ちていったのだから。
見ると、雅は瞳を涙で濡らしていた。
「彼女は、ぼくのせいで……」
「ぼくも先日知ったばかりなんです」
雅は少し顔を上げたが、視線を合わせてくることはなかった。
そこでいきなり、雅は日記を置くと、テーブルに額を突きつけるようにして頭を下げた。
「本当にすまなかった! ぼくのせいで君のお姉さんは……」
雅は頭を下げたまま嗚咽していた。涙がテーブルにこぼれるのが見えた。
「頭を上げてください、雅先輩」
恭弥がそう声をかけるが、雅は頭を上げることはなかった。
雅に対してネガティブな感情がないといえば嘘になるが、彼も被害者だったのだ。姉の日記からも、彼のことを過度に責めている記述はなかった。全裸にされて暴行を受けたのだから、弱気になって当然だと思った。それに今の雅にはいくらか同情もした。暴行を受けたのも、高校時代からの恋人の仕業だと知ったのだから。ショックは甚大だろう。
「雅先輩。ぼくはあなたのことを恨んでなんかいませんよ」
いまだ雅は顔をテーブルに向けて泣いていた。
「それに姉ちゃんだって、しょうがないことだったってわかってると思いますよ」
雅は少しだけ顔を上げた。
「でももし、姉ちゃんに対して罪悪感を感じてるんだったら、ぼくに力を貸してくれませんか」
「力を……貸す?」
雅が顔を上げて言った。
「ええ。どうしても、あなたの力が必要なんです」
「ぼくは何をすれば……」
「もう少しだけ、本田奈央との関係を続けてください」
雅は絶句していた。当然速攻で別れるつもりでいたからだろう。
彼は声を震わせながら聞いてきた。
「な、何でぼくが、彼女と……」
恭弥はここで、自分の思いをストレートに伝えた。
「ぼくは彼女に復讐するつもりです」
「復讐!?」
雅は驚いて目を見開いた。
「お姉さんの復讐をするっていうのかい?」
「ええ」
雅は明らかに及び腰になっていた。しかし手の込んだ復讐のためには、彼の協力が必要不可欠だった。
恭弥はぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。
「ちなみにだけど……。日記の件、ご両親は?」
「両親は知りません。彼らは世間体をひどく気にするタイプだから、きっとなかったことにするだろうなって思って」
「なるほど……。田舎の人は、そういう人が多いからね……」
「ええ」
「この日記だけど、警察に届けたらどうかな……」
「どうですかね。警察がどこまで真剣に捜査してくれるのか、ぼくは疑問ですけど」
「確かに……」
雅は協力したくないからか、他の代替案を必死に模索しているように見えた。しかし恭弥は、彼の罪悪感につけ込んで、必ず協力を取りつけるつもりでいた。
「雅先輩。ぼくが考えている復讐ってのは、姉ちゃんを
恭弥は、計画の詳細を語って聞かせた。
説明を終えると、恭弥は相手の反応を待った。
雅は考え込むようにしばらく黙り込んでしまった。
恭弥は、沈黙している相手に言った。
「あの女を充分に怖がらせて、姉にしたこと、心底後悔させてやるつもりなんです。姉ちゃんを死に追いやったあの女を、ぼくは絶対に許すことはできない」
もし協力を得られなければ、姉の霊に怯えさせるというアイデアは使えなくなってしまう。
雅の沈黙は長く続いた。だが恭弥は、彼が協力を拒むことはないだろうと思った。多少なりとも正義感というものを内に秘めていれば、姉の日記を見て協力を拒むという選択肢はあり得ないと思ったからだ。
しばらくして、雅が覚悟を決めたかのような顔をして言った。
「わかった。協力させてもらうよ。こんなこと、許されるべきではない」
「ありがとうございます」
恭弥は結果に満足した。
雅は、ほとんど口にしていなかったコーヒーを飲み干すと言った。
「それでぼくは、何をすればいいんだ?」
* * *
雅と再開したのは二か月後のことだった。
恭弥は、包装紙に包まれた箱を雅に差し出した。
「これは?」
雅は怪訝そうな顔で聞いてきた。
「監視カメラ内蔵のデジタル時計です」
「え、監視……」
雅は不安そうな顔をした。
「それをあの女に、プレゼントとして渡してくれませんか?」
「これを、彼女に?」
「ええ。監視カメラであの部屋を観察したいんで」
「そっか……」
「彼女の部屋の、机の上に置いてもらえたら」
恭弥は有無を言わさぬ感じで言った。
雅はあきらめたような顔をして答えた。
「わかったよ。彼女に渡すよ」
「ありがとうございます。そのままの箱だとカメラが付いてるってバレちゃうんで、箱は別のものと取り替えてあります」
「うん。わかった」
「ではよろしくお願いします」
雅がここで、ズボンのポケットから何かを取り出した。
彼の手に握られていたのは部屋の鍵だった。
「はい。これ、頼まれてたやつ」
「ありがとうございます。でもこれ、作るの大変だったんじゃ」
恭弥が聞くと、雅は少し得意げな顔をして答えた。
「そうでもなかったよ。彼女を自宅に呼んだときに、キーケースだけ鞄から抜き取っておいたんだ。それで彼女が帰ったあと、すぐに合鍵を作りにいってね。合鍵ができたあと、何食わぬ顔でキーケースを返したってわけさ」
「なるほど。雅先輩の家でキーケースが見つかったのなら、彼女も不安に思わないはず。これが交番とかに届けられたとかだったら、用心深い人なら、鍵を交換するかもですからね」
「そうだね」
恭弥はさっそく、受け取った合鍵を自分のキーケースに繋げた。
ここで思い出したように恭弥は言った。
「あ、そうだ。部屋の写真もありがとうございます」
先日、本田奈央の部屋の写真を、メールで受け取っていたのだ。
雅はここで、言いにくそうに口を開いた。
「恭弥君……。君に協力するのは、これで最後にさせてもらえないかな」
「え、何でですか?」
「彼女の近くにいるのが、もう耐えられないんだ」
「そうですか……。まあ、そうですよね……」
雅はあの女のせいで激しい暴行を受けたのだ。気持ちは理解できた。
「ごめんよ。本当はもっと協力したかったんだけど……」
「いえ、気にしないでください。充分助かりましたから」
「それと恭弥君。隣の部屋が空いたみたいだ」
「わかりました。すぐに契約して移り住みます」
* * *
「いい部屋だね〜」
マコは室内を見渡しながら言った。
恭弥は彼女とともに空き部屋を内見していた。単身者向けで、四階建てマンションの二階の部屋。
二人で部屋を見ている間、不動産屋の男は部屋の隅で笑顔を浮かべて立っていた。三十代後半くらいで、ヒゲの剃りの跡が目立つ色白の男だった。
ベランダから外の景色を眺めながら恭弥は言った。
「マコ。ここに決めたら」
「うん、そうだね」
マコは営業の男に向かって言う。
「ここに決めます」
「わかりました。それでは店舗に戻って、契約の手続きのほうを」
営業の男が運転する車で移動して、数分ほどで店に着いた。地域密着型という感じの、小さな不動産屋だった。
恭弥がマコと横並びでカウンター席で待っていると、事務員らしき中年女性がお茶を用意してくれた。
しばらくして、営業の男がやって来て、契約書類をカウンターに並べた。
「こちらが契約書類になります」
ここで営業の男が、マコに向かって神妙な顔をして言った。
「ちなみに、契約の前に、一つお伝えしておくべきことが……」
「何ですか?」
営業の男は、言いにくそうな感じで切り出した。
「あのですね……。実は前にあの部屋に住まわれていた方のもとに、こんなものが届いたらしくて……」
男はそう言って、一枚の用紙をカウンターの上に置いた。
それは新聞の切り抜きで作られた手紙だった。
「そ」「の」「部」「屋」「は」「呪」「わ」「れ」「て」「い」「る」「。」
「死」「に」「た」「く」「な」「け」「れ」「ば」「今」「す」「ぐ」「出」「て」「い」「け」「。」
「やだ、怖い……」
マコは驚くフリをして見せる。
恭弥が営業の男に聞く。
「あの部屋で、何かあったとか?」
営業の男は強く否定した。
「いえいえ、そんなことはありません。まだ築浅ですし、あの部屋に限らず、他の部屋でも何も起こってませんから」
「じゃ、何で、こんな手紙が」
「いえ、それは私どもにも……。おそらく単なるイタズラかと……」
「恭弥君、あの部屋、やめたほうがいいかな?」
マコが不安を装って恭弥に聞いてきた。
「うーん。いい部屋だったからなぁ……。ちなみに、その前の住人の、そのまた前の住人にも、同じような手紙が届いてたりとかは?」
「いえ。私どもが知る限りでは、ないはずです」
「そうですか……。ならマコ、大丈夫じゃね?」
「そうかなぁ」
マコはまだ、不安が残るという顔を装っていた。
恭弥は営業の男に聞く。
「ちなみになんですけど、こんな手紙の件もあるなら、家賃とか、もう少し安くなったりしません?」
「そうですね……、これでも少し下げた感じなんですけど……。ちょっと待っててもらえますか? 今からこのマンションのオーナーに電話して相談してきますんで」
「わかりました」
営業の男はカウンターを離れて奥のほうへ引っ込んでいった。
恭弥はマコとともに営業の男を静かに待った。
五分ほどして営業の男が戻ってきた。
「お待たせしました。今、オーナーさんと話してきまして、一万円ほど安くできるとのことです。どうしますか?」
恭弥はマコに言った。
「そんな安くしてくれるんだったら、あそこに決めちゃえば?」
「うん、そうだね。恭弥君がそう言うなら」
営業の男は、マコの言葉に満足そうな笑みを浮かべた。
「一万円も安くなるなんてラッキーだったな」
不動産屋を出るなり恭弥は言った。
マコも満足そうな顔をしていた。
「だね。そんな長く住まないにしろ、安いに越したことないもんね」
もともと安かった家賃がさらに値下がったことで、恭弥は気分がよかった。単身者向けのため、二人で住むことは原則禁じられていたが、そこは静かに生活さえすれば問題ないだろうと思っていた。とにかく、“標的”の隣に部屋を借りられたことで、計画が大きく前進したことは間違いなかった。
一週間後には引っ越しが完了して、恭弥はマコとともに同じ部屋で暮らし始めた。
ワンルームのため、二人で暮らすにはだいぶ手狭だったが、長く住むわけではなかったから大して気にはならなかった。
部屋の壁には、実家でも使っていたコルクボードを掛けていた。今では、名前が書かれたポストイットの大半に、「×」が付けられている。
まだ、「×」が付いていないポストイットの一つに、吉野リサがいた。本田奈央の虚言に騙されて、姉に暴力を振るった女だ。
吉野リサ——。きっかけを作ったのは本田奈央だったかもしれないが、姉の不幸はこの女から始まった。本田奈央ほど罪深くはないが、姉は日記で吉野リサへの激しい憎悪も吐露している。本田奈央に、ころっと騙された彼女の罪は重い。やはり、このまま無罪放免というわけにはいかないだろう。
上京前に、本田奈央以外の者たちへの復讐を終える予定でいたが、吉野リサだけは本田奈央と同様に上京していたため、機会を得られなかったのだ。
調べによると、吉野リサは、美容の専門学校に通っているという。そこまでわかっていれば、あとは時間をかければ彼女と接触することは可能だろうと思った。
* * *
吉野リサがスマホを見ながら校舎から出てきた。
SNSで彼女は自身の写真をアップしていたから、すぐに判別することができた。彼女は無表情に、スマホを見ながら歩いていく。連れがいないのは好都合だった。
恭弥はあとを追った。黒縁の眼鏡とパーカーのフードを目深に被って人相を隠していた。今日で決めるつもりでいた。彼女にそう何日も時間をかける気はなかったからだ。ごくごく簡単な方法で、姉が受けた痛みを倍返しにできればそれでよかった。
ここぞという場面に差しかかったときに、すぐに行動を移せるよう吉野リサと距離を詰めて歩く。間隔は、五、六メートルほど。かなり近かったが、彼女はスマホに夢中で、外界に注意を払う様子はまったくなかった。スマホを横に向けているから、ユーチューブ動画でも観ているのかもしれない。完全に自分だけの世界に入り込んでいる。そのため、前から歩いてくる歩行者と何度もぶつかりそうになっていたが、彼女は意に介する様子もなかった。普段なら、そんな迷惑行為を見て不快に思ったろうが、今日に限っては好都合だった。
吉野リサが歩道橋の階段を上がっていく。まさに絶好の場面だ。歩道橋は、上がれば必ず下りなければならない。恭弥は足音を立てずに彼女との距離を詰めていく。歩道橋から下を見下ろす。ちらほらと歩道を歩く通行人の姿があったが、幸い、歩道橋には、今すれ違った学生風の女以外に人はいなかった。吉野リサがスマホに見入りながら下りの階段に差しかかったところで、恭弥は彼女の背中を押した。
「え!?」
完全に無警戒だったからだろう。吉野リサは面白いように宙に身を投げ出し、受け身を取ることなく階段を転げ落ちていった。
恭弥は階段の下を見下ろした。彼女は無様な格好で倒れていた。右足がとんでもない方向を向いて曲がっていた。
「痛い、痛い、痛い、誰か……」
彼女の苦痛にうめく声が歩道橋の上まで届いてくる。全身の打撲は言うまでもなく、右足の他にも、骨折しているところがあっても不思議はなかった。
「スマホ、スマホ、わたしのスマホ……」
吉野リサが腕を振り回しながら声を上げていた。スマホで助けを呼ぶつもりなのだろうか。恭弥は彼女の周囲に視線を走らせるが、彼女が持っていたスマホは見当たらなかった。
OL風のベージュのスーツを着た女が、吉野リサに駆け寄ってきていた。恭弥はそれを見て、すぐに反対側の階段を使って下に下りていった。
歩道を足早に歩いて、吉野リサから遠ざかっていく。
「姉ちゃん、見ててくれた?」
歩きながら天国にいる姉に呼びかけた。
帰宅したらコルクボードに向かい、吉野リサの名前が書いてあるポストイットにバツをつけるのが今から楽しみだった。
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