二人目

 恭弥は自室で警棒を強く振った。振り下ろした瞬間、警棒は三倍ほどの長さに伸びた。

 そのまま伸びた警棒を力強く振っていると、マコが心配そうに聞いてきた。

「恭弥君、ひとりで大丈夫なの?」

「大丈夫、心配いらない。人気のない場所で背後から狙うから。小島のときも、それでうまくいったし」

 そう説明しても、マコはいまだ不安な顔をしていた。

 確かに、彼女の不安ももっともだと思った。恭弥は身長が一七〇センチもなく、線も細い。暴力とは対極にいるような存在だ。そんな恭弥が、武闘派な男を襲おうというのだから、心配になって当然だったろう。

「あたしに、手伝えることない?」

「大丈夫だって、ぼくひとりでも。マコに手伝ってもらえることがあったら、そのときはお願いするから」

「わかった。でも気をつけてね」



       *  *  *



 恭弥はパーカーのフードを目深に被って、川崎翔太のあとをつけていた。一応、普段かけることのないセルフレームの眼鏡をして人相をごまかしていた。

 川崎翔太は身長は一七五センチくらいで、恭弥よりも頭一つ分くらい背が高かった。痩せ型で、黒いシャツに細身のダメージジーンズを合わせていた。

 肩で風を切っていくような歩き方は、まさに不良の典型のようでおかしかった。猿並みの知能を体全体で体現しているように見えた。

 恭弥は前を歩く川崎翔太を見て、姉が日記に書いてあったイメージそのままだと思った。

 姉の日記に書かれていた文章が脳裏をよぎる。

『あの女は、連れてきた男のことをショウタと呼んでいた。ショウタという男は、仲間を二人連れてきていた。あの女が呼び寄せた三人は、制服から三人とも同じ高校のようだ。あの制服は確か、商業高校のものだ。私はショウタという男とその仲間にレイプされた。私の初めてを奪われたのだ。それもレイプによって……。私は完全に汚されてしまった。初体験がレイプということで、今後も恥辱まみれの人生が待っているのではないかという不安が押し寄せてくる。いや、もうそんな人生を歩むことは確定だと思う。今思えば、電話口の雅君は様子がおかしかった。わざわざ高台の神社に呼び寄せるなんておかしいと気づくべきだったのだ。でも雅君を呪うことはできない。だって彼も被害者なのだから。だけど、あのあと助けを呼んでくれてもよかったはず。あの人は私を見捨てた。それが辛い。きっとあの女も、恋人に裏切られた私を見て、さぞかし満足したことだろう。もう人が信じられない。もう誰も信じられない……。』


 恭弥は、姉の日記に書かれていたことを思い出して、自分のことのように胸が苦しくなった。そして、川崎翔太とその仲間たちに姉がレイプされているシーンが脳裏をよぎり、身体中の血液が沸騰したかのように怒りで体が熱くなった。あんな大人しくて誰にでも優しかった姉を、そんな目に遭わせるなんて——。怒りに震えながら、恭弥は川崎翔太のあとを追った。

 川崎翔太は、風俗店店長の小島と違って、生活に規則性がなかった。そのため、人目のないところで一人でいる機会を見つけたら、そこで襲撃するというだいぶ変則性のあるプランにした。雑なプランではあったが、他にいい方法が思いつかなかったため致し方なかった。


 前を歩く川崎翔太が居酒屋に入っていった。店の外には、居酒屋を見張れる適当な場所がなかった。彼が三十分から一時間くらいで出てくればいいが、それ以上となると、体が冷え込んで電柱の影で待ち続けるのはきついだろうと思った。

 そこで恭弥は、自分も店に入ることにした。あの男は、周りをよく観察するタイプでは決してない。店に入って様子をうかがっていても、大した危険はないだろうと判断した。十分ほど待ってから、恭弥は店の中に入っていった。


 平日のまだ早い時間帯だからか、店内はさほど混んではいなかった。カウンターとテーブル席を合わせて五十席くらいだろうか。客の入りは三分の一程度だった。

 川崎翔太は、先に店に来ていたらしい友人たちと四人掛けのテーブル席に座っていた。そのテーブル席は、ちょうどカウンター席の並びになっていたため、恭弥は迷わず彼らの近くのカウンター席に座った。川崎翔太との距離は一・五メートルほどになったが、こちらは背を向けているため、フードを被ったままでいれば問題ないだろうと思った。背中越しに、彼らの会話が鮮明に聞こえてきた。

 恭弥はビールといくつかのつまみを注文した。未成年ではあったが、堂々と注文したからか、店員は何も不審がることなく注文を受けつけてくれた。

 苦いビールにちびちびと口をつけながら、スマホを見て時間を潰した。背後からは引き続き、川崎翔太と仲間たちの会話が聞こえてきていた。彼らはひんぱんに、頭の悪そうな笑い声を上げていた。

 彼らの会話に、とくに興味を引く話題はなかった。偏差値四十レベルの、低俗な話題に終始していたからだ。今は仲間の一人が、処女の女にいきなりバイブを突っ込んでやったという話をうれしそうに語っている。終始その手の話題だった。

 恭弥は話を聞きながら思った。今夜は、川崎翔太が一人になるのを待つのはむずかしいかもしれないなと。この店を出たとたん、川崎翔太が友人たちと別れて一人になるとは考えにくかった。そのため本日の決行は、見合わせる必要がありそうだった。

 そんなことを考えていた矢先だった。川崎翔太の友人が声を潜めるような感じで、「翔太、あの話、聞かせろよ」と聞こえてきた。恭弥は思わず聞き耳を立てた。

 川崎翔太が声を落として語り出した。恭弥は反射的にスマホを操作して、彼らの会話を残すために録音を開始した。川崎翔太は声をだいぶ落としてはいたが、距離が近かったため、彼が話す声はしっかりと聞き取れた。

「おれが羽振りがいいのはよ、危ない橋を渡ったからなんだよ。やっぱよ、人間、リスクを犯さないと、でかいリターンは見込めないんだよ」

 彼の話しぶりから今の言葉は、おそらく誰かが語った言葉の受け売りだろうと思った。この手の連中は頭が悪いから、先輩の影響をモロに受ける。

「いいか、お前ら、絶対このことは、誰にも言うんじゃねえぞ。言ったらマジ殺すからな」

「言わないから早く聞かせてくれよ」

「まあまあ、そんな焦るなって」

 無駄にもったいぶった態度がしゃくに障る。自分が大物にでもなったかのような言い方だ。

 恭弥は不快に感じながら耳を傾けていたが、話が核心に入ると、とっさに録音を開始した自分の機転を自賛した。

 数日前に、川崎翔太は高校の先輩たちとともに、とある暴力団の組事務所に侵入して、金庫を奪ったというのだ。

 最初こそ声を潜めて話していた川崎翔太だったが、話しているうちに気分が乗ってきたようで、今では周囲を気にせず声を上げていた。

「すっげえ重い金庫だったんだぜ。それを五人がかりで運んで車に乗せてよ、先輩の知り合いのスクラップ工場に持ってったんだ。そこでバーナー使って金庫の扉を焼き切ったんだが、いくら入ってたと思う? 三千万だぜ、三千万。やべえだろ?」

 三千万という金額に、彼の仲間たちが驚きの声を上げた。

「そんでおれは、百万もらったってわけだ」

 彼の友人が口を挟む。

「たった百万? 五人だったら、ひとり六百万だろうが」

「おれはいちばん下っ端だから文句は言えねえんだよ。それにスクラップ工場の人にも払う必要があったし。でも、百万でもすごい大金だろ? 考えてみろよ。たった数時間で百万稼げる仕事なんてないだろうが」

「確かに……。そう言われてみると、すごいな」

「だろ?」

「でもどうして、そんな簡単に盗み出せたんだよ。防犯カメラとかは?」

 友人の問いに、川崎翔太は得意げな感じで答えた。

「それがな、組の中に、先輩の友人がいてな。その人がすべてお膳立てしてくれたんだ。だから簡単だったんだ」

「内通者ってやつか……」

「そう。内通者ってやつだ。あと、あれあるじゃん? ほら、あれ? ドアのとこに付いてる電子ロックってやつ? あれの解除コードってのも教えてもらってたから、はっきり言って楽勝だったぜ」

 恭弥は話を聞きながら思った。こういう口の軽いやつらがいるからこそ、犯罪は簡単に表沙汰になるのだろうと——。

「だから今日はおれが奢っから、じゃんじゃん飲もうぜ」

 彼らは、その後一時間くらい居酒屋で飲み食いしたあと、「キャバクラ行こうぜ」という話になって店を出ていった。あの様子では手にした金も、ひと月ももたずに消えていくだろうと思った。

 恭弥は彼らが消えてすぐに会計をして店を出た。

 店の外に出るとマコに電話をした。

 彼女はワンコールで応答した。こちらからの連絡をずっと待っていたのだろう。すぐに受話口から心配そうな声が聞こえてきた。

「もしもし、恭弥君? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。今日は実行しなかった」

「え、そうなの? でもよかった。無事で」

 安堵する彼女の気持ちが電話越しにも伝わってきて、恭弥は少し胸を熱くさせた。そのため、危険の少ない新たな計画を伝えることで、彼女の不安を取り除けることがうれしくなった。

「実はさ、幸運にも、他にいい方法を見つけたんだ」

「え、どんな?」

「それはね——」

 恭弥は新たに思いついた計画をマコに説明した。


 川崎翔太らが押し入った組事務所は、ネットで検索したらすぐにわかった。四日前の出来事らしい。

 おそらく川崎翔太は、行動をともにした者たちから、犯行を固く口止めされていたと思われるが、一週間も経たずに口外したことになる。犯罪者特有の自制心の欠如を、彼は見事に体現したといえた。

 とはいえ、犯行に参加した者たちも、彼と似たり寄ったりだろうから、仮に川崎翔太が口をつぐんでいたとしても、遅かれ早かれ、他の誰かが喋っていたことだろう。

 恭弥は自室でさっそく作業に取りかかった。直接自分で手をくだせないのは不満だったが、よりリスクの少ない方法があるならそちらを選ぶべきだ。風俗店店長の小島を暴行した件は、小さな扱いながらもテレビのニュースで放送された。川崎翔太も同様の方法で暴行したら、警察は二つの暴行事件を関連づけて捜査する可能性だってある。そうなれば、小島と川崎翔太の関係を突き止めた捜査員たちが、二人の関係者に絞って捜査を開始することになるだろう。

 もちろん、そうなる可能性は川崎翔太を襲う計画を立てた時点でわかっていたが、恭弥は、風俗店店長の小島とも、現在無職の川崎翔太とも、表立った接点は一つもなかった。警察が姉の日記を発見しない限り、恭弥が警察にマークされる危険はないはずだった。

 とはいえ、自分の手を汚すよりも、他人をうまく利用したほうがリスクは少ないに決まっている。

 まず恭弥は、川崎翔太がいた居酒屋で知り得た情報をパソコンで入力していった。川崎翔太の個人情報も記載した。

 一度書き上げた文章を何度か読みやすいように推敲したあと、テキストデータを印刷した。

 次に、川崎翔太の顔写真——中学の卒業アルバムのものだった——も、写真用の印刷用紙を使用して印刷した。

 続いて、昨日アマゾンのお急ぎ便を利用して購入したUSBメモリに、スマホで録音した音声データを保存した。USBメモリには、音声データの他に、テキストデータと川崎翔太の画像データもとりあえず保存しておいた。

 最後に、長形封筒にテキストデータを印刷したA4用紙を三つ折りにしたものを入れ、さらに顔写真とUSBメモリを入れて封をした。

 用意したものは明日、組事務所のポストに投函するつもりだった。



       *  *  *



「ああん? なんだてめえら」

 夜道で翔太は、いきなり数人のガラの悪い連中に道を塞がれた。

 食ってかかるが、男たちは平静そのものだった。

「こいつじゃね?」

 男たちの一人が言った。

 別の男が写真らしき者を見てうなずく。

「ああ、たぶんこいつだ」

 うなずき合う男たちに向かって、翔太は怒りをぶつける。

「だから、何だって聞いてんだろが!」

 怒号混じりの問いに、写真らしきものを持つ男が答えた。

「お前、ヤクザの金を盗んだんだってな。身のほど知らずだな」

「な、何でそれを!?」

 翔太はたじろぐ。

 写真らしきものを持つリーダー格の男は呆れた調子で続けた。

「居酒屋で自分の武勇伝を、ダチにベラベラ喋ってたんだってな。お前、頭悪いにもほどがあるぞ。口は災いの元っていうことわざ、知らないのか?」

「く、くそっ……」

 翔太はあの場にいたメンバーを思い出す。彼らの一人が誰かに喋ったのだ! 彼らを信用してすべてを語ってしまったことを激しく後悔した。

 踵を返して翔太は逃げ出した。

「え!?」

 翔太は目を見開く。背後にも人が待ち構えていたからだ。

 五、六人ほどの男たちに取り囲まれ、翔太は完全に逃げ場を失い途方に暮れる。

 リーダー格の男が言った。

「今から知ってることを、すべて話してもらうぜ。仲間の名前から何もかもな」

「くそ……」

「だがまずは、金の回収が先だな。まさか、全部使っちまったってことはないよな?」

 翔太は絶望して膝から崩れ落ちた。



       *  *  *



「もう、勘弁してください……」

 翔太は男たちにすがりつく。

 四方を海に囲まれたコンクリートの桟橋の上だった。すでに視界が三分の一ほどに狭まっていて、男たちの顔もぼやけて見えた。両目のまぶたが大きく腫れ上がっているからだ。

 負傷しているのは顔だけではなかった。かれこれ三十分近く男たちに暴行を受けていたため、全身が痛みで悲鳴を上げていた。

「なかなかくたばんないな。お前、案外丈夫なんだな」

 リーダー格の男がスマホを構えながら言った。

 撮影した動画は、あとで依頼主に見せるのだと男は説明した。

 別の男がリーダー格の男に言う。

「もう疲れたから、このまま海に投げ捨てちまおうぜ」

 そこへ別の男が割って入る。

「いや。ちゃんと殺してから沈めたほうがいいんじゃね?」

「重りつけるんだから、別に死んでなくても問題ないだろ」

 翔太は、彼らが本気で殺そうとしていることを確信すると、気の緩んでいた男たちの隙をついてコンクリートの地面を強く蹴って駆け出した。

「あ、おい!」

 男たちが反応するよりも早く、翔太は夜の海の中へと飛び込んだ。

 桟橋の上から半グレ連中たちの罵声が飛んでくる。翔太は死に物狂いで水を掻いて桟橋から懸命に離れていく。一度恐怖に駆られながら背後を見たが、桟橋から叫んでくるだけで、彼らが海に飛び込んでくることはなかった。

 桟橋から充分な距離を稼いだところで、沖を目指そうと思い、水を掻く手を止めた。しかし動きを止めた時点で、それ以上泳ぐ体力は残っていなかった。

「や、やべえ……」

 急に意識が遠のいていき、その拍子に水の中に沈み込み、海水をたらふく飲み込んでしまう。むせ返ったところで意識が戻る。だが、肺に海水が入ってしまい、胸が焼けるような痛みに襲われた。まるで地獄の苦しみだった。あまりの苦しさに、これならあの半グレ連中に殴り殺されていたほうがマシだったのではないかとさえ思った。浮いていられなくなり再び水の中に沈み込む。また海水を死ぬほど飲んだところでもがくように水面に上がる。そんなことが何度か繰り返されていくうちに、いつしか極限の苦しみを超えて、翔太の意識は消えていった。



       *  *  *



 川崎翔太の遺体が海岸沿いで発見されたというニュースが飛び込んできた。組事務所にUSBデータを届けた三日後のことだった。

 恭弥はさっそくマコに報告した。

「そっか……。ヤクザって、恐いんだね……」

「ああ。ヤクザに情報を流せばこうなるってわかってたけど、いざ実行に移されると、ヤクザの恐さを実感するよね」

「でも、恭弥君が手を汚さずに済んでよかったね」

「ああ、ほんとだよ。運が向いてきてるのかもしんない。だから次も、事故か何かに見せかけられないか検討してみるよ」



       *  *  *



 SF映画の世界に迷い込んだかのような場所だった。クラブハウスでは、ダンスミュージックが爆音で流れていた。

 視線の先では、片岡がバーカウンターで一人で飲んでいた。彼は物色するような目つきで、ダンスフロアで踊る女たちに視線を向けている。


 ——片岡弘彦。


 姉が勤めていた風俗店に出向き、姉を辱めた男だ。

 恭弥はバーカウンターに近づいていき、片岡の右隣に適度な距離を置いて陣取った。彼が視線を向けてきたのがわかったが、気づかないフリを装う。

 数分後、打ち合わせ通り、マコが片岡の左隣に立った。彼女は指示通り、露出度の高い服を身につけてくれていた。白いキャミソールに、極端に短いデニムのショートパンツ。ショートパンツは裾がダメージ加工されているものだ。キャミソールからは胸の谷間が、ショートパンツの下からは白いむっちりとした太ももを覗かせている。

 片岡がマコを見る。恭弥は背後にいるため片岡の視線はわからなかったが、マコの全身を視線で舐め回しているに違いないと思った。そしてマコをガードが低い女と判断したようで、早くも声をかけるタイミングをうかがっているのが見ていてわかった。

「ひとり?」

 予想通り、片岡がマコに声をかけた。

 マコが笑顔で答える。

「そうだよ」

 彼女の笑顔に片岡は気を良くしたようだ。あの笑顔を見ればどんな男でも、自分に気があると勘違いすることだろうと恭弥は思った。

「一杯おごるよ」

「ほんと? ラッキー♪」

 片岡に促されるままに、マコがカンパリ・オレンジをバーテンダーに頼む。

 すぐに注文したドリンクが用意されて、マコは片岡とグラスを合わせてから飲み始める。

 恭弥は何気ない感じを装って二人の様子を観察した。片岡がマコに夢中になっているのが手に取るようにわかった。露出度の高い彼女の服装を見て、彼はマコとのセックスを夢想しているはず。欲望に支配された状態とあっては、こちらの期待通り、周囲への警戒度は限りなくゼロになっていることだろう。恭弥はバーテンダーの動向を気にしながらタイミングをうかがう。カウンターの奥にいるバーテンダーは一人。二十代半ばくらいで、顔は整っているほうだが、表情は乏しかった。この仕事を楽しんでいる様子はみじんもない。恭弥はバーテンダーに注目されないよう気をつけながら、自然な感じで片岡との距離を詰めていった。彼はマコに夢中で、こちらに注意を払う様子はなかった。

 手を伸ばせば片岡のグラスに届くくらいまで近づいたが、彼のグラスが置いてある位置が、マコ側寄りのために、手を出せば気づかれる可能性が高かった。彼の注意をそらせば、簡単にグラスに薬を入れることができると思っていたが、どうやらその考えは甘かったようだ。片岡がトイレに立つかしなければ、この計画は頓挫してしまう。

「あたしにもそれ、ちょっと飲ませて」

 思案していたところでマコの声が聞こえてきた。

 見ると彼女は、片岡のドリンクを奪って少し口に含んだ。

「あたしにはちょっときついかも」

 マコはそう言ってグラスをカウンターに置くが、最初にあった位置よりも右側に置いた。そしてすぐに彼女は、自分のグラスを片岡に差し向けた。

「これ、飲んでみて」

 片岡がマコのグラスを受け取って口に運んでいく。

 恭弥はカウンターの奥にいるバーテンダーに顔を向けた。ちょうど別の客のドリンクを作り始めたところだった。目的のグラスは、完全に片岡の視界の外に置かれている。「もっと飲んでいいよ」と言って、マコは片岡の注意を引きつけてくれている。トイレに立つまで待つという選択肢もあったが、ドリンクを飲み干してからカウンターを離れる可能性もあったから、マコが作ってくれたこのチャンスを活かすべきだと思った。

 バーテンダーの動きをうかがいながら、恭弥は片岡のグラスに薬品を数滴ほど垂らす。この瞬間、心拍数が一気にはね上がった。この間ずっとバーテンダーに注意を向けていたが、彼がこちらの動きに気づいた様子はなかった。片岡もマコに夢中の様で、何の反応も示さなかった。心臓の高鳴りを感じながら、音を立てずに片岡から少し距離をとった。

 片岡のグラスに入れたのは、通称レイプドラッグと呼ばれている薬品だった。恭弥は知り合いの知り合いを通じて、割と簡単に入手することができた。

 恭弥はスマホを耳に当てて通話するフリをする。これが合図だった。

「あたし、ちょっとトイレ行ってくる」

 マコはそう言って、片岡から離れていった。

 片岡はすぐに薬品の入ったグラスを口につけた。恭弥は横目を使って彼の観察を続けた。

「あの女、遅えな……」

 なかなか戻ってこないマコに対して、片岡が苛立ち始めているのがわかった。

 しかし数分後、彼の様子が急におかしくなった。具合が悪そうに前屈みになり、グラスを持ちながら両肘をカウンターの上に乗せた。横顔を見ると、風邪を引いたかのように具合の悪そうな顔をしている。しばらく様子を見ていると、彼は持っていたグラスから手を離した。グラスが横倒しになり、残っていた液体がカウンターを濡らす。バーテンダーが無言ですぐに濡れたカウンターを拭いて、何事もなかったかのように倒れたグラスを片づけていった。このときとくに、片岡を気遣う様子はなかった。こんな客は見慣れているのかもしれない。

 片岡はカウンターに肘を預けたまま、顔面蒼白の状態で下に顔を向けていた。立っているのもやっとの様子だ。恭弥は次の行動に移った。

「あの」

 片岡に声をかけると、彼は辛そうな様子で顔を向けてきた。

「何だよ……」

「さっき話してた女の子、店の外で待ってるみたいですよ」

「あ? 何だよあの女、便所行くって言ってたのに……」

 片岡はフラフラとした足取りでカウンターから離れていった。

 もしこの嘘が通じなかったら、マコが戻って片岡を連れ出す計画になっていたが、どうやら冷静な判断力も失われている様子で、簡単な嘘に見事に引っかかってくれた。

 出口に向かう片岡を見ながら、恭弥はスマホを取り出した。

「マコ。嘘に引っかかってくれた。あとはぼく一人で大丈夫だから、マコは先に帰ってて」

 受話口からは少し不安げな声が聞こえてきたが、恭弥は終わったらまた連絡することを約束して通話を切った。スマホをズボンの尻ポケットに入れてから、今日のマコは露出度の高い服を着ていたから、風邪など引かなければいいなと思った。

 恭弥は片岡に続いて店の外に出た。片岡は店の外できょろきょろしていた。恭弥はパーカーのフードを目深に被ると、片岡が動き出すのを待った。

 しばらくして、片岡はマコの姿が見当たらないことであきらめたらしく、フラフラと歩き出した。端から見てると、笑ってしまうほどの千鳥足だ。

 恭弥はあとをつける。相手が酩酊状態なだけに尾行は簡単だった。片岡は薬のせいで思考がままならないようで、タクシーを拾うという判断には至らないようだ。彼がどこに向かって歩いているのかわからなかったが、とにかく懸命に倒れまいとして歩いていた。

 恭弥はここで、姉の日記に書かれていたことを思い出す。

 あの片岡という男は、姉が働いている店に行って姉を辱めた。これは、許されるべき行為ではない——。事実、姉は片岡への憎しみを日記に書きつづっていた。リアルに想像すると、どれだけ耐えがたいことか理解できる。風俗で働いていることなど誰にも知られたくないはずなのに、そこに互いのことを知っている人間が現れて、サービスを強要するのだ。まさに地獄でしかない。片岡があの気持ちの悪い目つきで姉に迫っていく様子が頭に浮かんで、恭弥は発狂しそうになった。

 片岡が大通りに出た。歩道を右へ左へとフラフラしながら歩いていく。街灯はあったが、夜の十時を過ぎているため、辺りは薄暗かった。交通量の割に、歩道を歩く人通りは少ない。片岡とは五メートルほどの距離があったが、恭弥はパーカーのフードを目深に被ると、少し歩くスピードを上げて片岡の横に並んだ。

 横に並んだ瞬間、恭弥は右肩に少し力を入れると、肩を使って片岡を道路に向かって強く押し出した。

 片岡は一瞬驚いた顔をしたが、肩を押した勢いのままに道路に飛び出していく。端から見れば、自分から道路に飛び出したかのように見えたことだろう。

 恭弥は前を向いたまま足早に歩いていった。すぐに背後から急ブレーキの音が響き渡り、その直後に、鈍い衝突音が聞こえてきた。

 現場を確認したい気持ちを抑えて、背後を振り返ることなく歩き続けた。今の場面を誰かに見られていたとしたら、振り返るのは危険だと思ったからだ。だが見て確認するまでもなく、あの重い衝突音から判断すれば、おそらく軽傷で済まないだろうと思った。

 恭弥は口元が自然とほころんでいくのを感じながら、足早に事故現場から遠ざかっていった。

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