第2章

怨念の発端

「ずっとあなたのことが好きでした。よかったら、わたしと付き合ってくれませんか」

 体育館の裏で、奈央はずっと想いを寄せていた同級生に告白した。

 フラれるはずはないと思い込んでいた。だから彼の返答に衝撃を受けた。

「ごめん、ぼく、他に好きな子がいるんだ」

 衝撃で、頭の中が一瞬でまっ白になった。

 まるで夢を見ているようだった。足元がおぼつかず、頭がぼーっとした。みやびが何か言っているようだったが頭に入ってこない。音のない世界に、自分だけ足を踏み入れてしまったような感覚だった。

 思考と視線が定まらぬ中、彼が申しわけなさそうな顔をして去っていくのだけはわかった。


 呆然としながら家に帰り着く。いつの間にか家にたどり着いていたという感じで、道中の記憶は曖昧だった。

 奈央は部屋に入るなりベッドの上で泣き崩れた。

「何で、何で、何でよ! 何でわたしじゃないのよ!」



       *  *  *



 あれから数週間が経った。友人の紗希子とともに登校した奈央は、校門に差しかかろうとしたところで強い衝撃を受けた。

「え、何で!?」

 想いを寄せていた男が別の女子生徒と並んで歩いていたからだ。相手は同級生の原口華菜子だった。

 奈央が固まっていると、紗希子が驚いたように言ってきた。

「あれ、知らなかった? 雅君、華菜子と付き合い始めたんだよ」

 嫉妬で気が狂いそうになった。人目がなかったら、原口華菜子に飛びかかっていたかもしれない。それほどまでに今の光景は、奈央の心をかき乱した。

「そっかぁ、そりゃショックだよね。だって奈央、前に雅君のこと、少し気になってるとかって言ってたもんね」

 雅に告白したということは誰にも話してなかった。だからこそ紗希子は、こんなにも気安く雅のことを話せるのだろう。

「ま、男子は雅君だけじゃないしさ。奈央、モテるんだし、早く彼氏、作っちゃいなよ」

「うん、そうだね……」

 奈央は苦しげに笑うと、紗希子とともに校舎に向かった。



       *  *  *



 授業は一向に身が入らなかった。これほどまでに激情したのは生まれて初めてのことだった。

 今日は朝からずっと、原口華菜子をめちゃくちゃにしてやることしか考えられなかった。

 原口華菜子とは中学からいっしょで、クラスが同じになったこともあり、スマホには彼女の連絡先も入っている。だが奈央は、中学時代から原口華菜子のことが好きではなかった。

 嫌いだった理由は、原口華菜子が優等生で、他の女子生徒よりも超然とした佇まいをしていたからだ。それがただ、いけ好かなかったのだ。そんな相手に雅を取られたとあっては、当然納得はいかなかった。

 原口華菜子を貶めるアイデアはすぐに浮かんだ。古典的ではあるが、いちばん効果的な方法。一時間もあれば彼女を完全に潰せる。

 奈央は自分が立てた計画に興奮して教室から飛び出したい気分になった。だが、すぐにそれを実行に移すのはやめようと思った。もっと軽めの方法から試していって、徐々に追い詰めていったほうが楽しめると思ったからだ。



       *  *  *



「リサ、停学空けたんだね」

 奈央は隣のクラスの吉野リサに声をかけた。

 万引きで補導されたことで、彼女は停学中だったのだ。

「まあね」

「でも、たかが万引きくらいで停学だなんてひどいよね。万引きなんて、誰だってやってるのに」

「だよね。あたしもそう思った」

「でさ、ここだけの話なんだけど、原口華菜子ってあなたのクラスにいるでしょ」

「ああ、原口がどうかした?」

「あなたが停学中に、彼女が言ってたんだよね」

「ああ? あいつが何て言ってたんだよ」

 奈央はここで少しためを作ってから答えた。

「片親家庭だから、しょうがないよねって」

 奈央の言葉に、吉野リサは期待通りの反応を見せた。すでに目が血走っている。

「それマジかよ!?」

「うん」

「マジで許せねえ……」

 吉野リサは頬を震わせ、人を殺さんばかりの形相に変わっていた。奈央はその顔を見て満足した。

「わたしが言ってたってのは内緒だよ」

「ああ、わかってるよ。奈央、ありがとな。あとはこっちでケジメつけるわ」



       *  *  *



「おい、原口」

 帰りのホームルームを終えたところで声が掛かった。

 女子の三人組。あまり評判のよくない生徒たちだった。

「何……?」

「リサが呼んでんだよ。ちょっと顔出しなよ」

 吉野リサ——、この女子生徒たちのリーダー的存在だ。確か先日、万引きが見つかって停学になり、つい最近停学が空けたところだった。

「何で吉野さんが?」

「いいから来いって言ってんだよ」

 三人が相手では抵抗のしようがなかった。

 華菜子は言われるがままに、彼女たちのあとに続いた。


 連れてこられたのは裏山の人気のない場所だった。

 彼女たちのたまり場なのか、キャンプ用の椅子などが数脚置かれていた。その椅子の一つに、吉野リサは座っていた。華菜子の姿を見るなり、吉野リサが立ち上がって迫ってきた。

「てめえ!」

 華菜子はいきなり吉野リサに腹部を蹴られて後ろに倒れた。もう何がなんだかわからなくなった。暴力を振るわれる覚えはまったくないというのに——。

 怯えながら顔を上げると、吉野リサの怒りに充ちた顔がそこにあった。

「お前、あたしのこと、片親だからって馬鹿にしたらしいな!」

「馬鹿になんてしてないよ!」

 寝耳に水とはこういうことだろう。万引きで停学になった際に、クラスメートとその話題に少し触れたことはあったが、彼女を悪く言った覚えはない。むしろ、ほとんど関心を示していなかった。それに、彼女が片親家庭だということも知らなかったのだから。

「うるせ! 証拠は上がってんだよ!」

 吉野リサの蹴りが今度は足を襲う。

 華菜子は痛みに耐えながら声を上げた。

「ちょっと待って。誰がそんなこと言ったの」

「そんなことどうでもいいだろ!」

 再び容赦ない蹴りが飛んでくる。華菜子は慌てて身を起こして逃げ出そうとしたが、吉野リサの仲間たちに阻まれ、逃げるどころか逆に体を強く押されて再び転倒した。そこへ吉野リサの蹴りが再び飛んでくる。吉野リサは逆上していて、とても冷静な話し合いなど望めそうもなかった。華菜子は眼鏡かけた顔を両手でかばいながら、身を丸めてただ黙って耐えるしかなかった。

 吉野リサは顔以外の場所を容赦なく蹴ってきた。理不尽な暴力は、三分から四分は続いただろうか。蹴り疲れたのか、吉野リサは動きを止めて肩で大きく息をしている。華菜子は新たな攻撃に備えて、身を丸めたまま彼女の動向を両手の間からうかがった。

「またあたしに対して舐めた口聞いたら、今度は必ずぶっ殺してやっからな!」

 吉野リサはいまだ肩で息をしながら、仲間たちを引き連れて去っていった。彼女の体力がまだ続いていたなら、暴力はいまだ終わっていなかったかもしれないと思うとぞっとした。

「いったい何なの……」

 脅威が去ったことで、ふいに緊張の糸がプツンと途切れてしまった。悔しさと怒りと、さらに納得のいかない思いが同時に噴き出してきた。涙が止まらなかった。身に覚えのないことで因縁をつけられ、一方的に暴力を振るわれた。その理不尽さに発狂しそうになる。もちろん、吉野リサと彼女の仲間たちに対する怒りもあったが、吉野リサに誤った情報を伝えた人物に対しての憤りもあった。正体がわからないだけに、胸の奥がつかえるような不快感に苛まれる。だが、この場でいくら正体を探っても、答えなど出てくるわけもなかった。

 十五分から二十分くらいは泣き続けていただろうか。少しだけ落ち着いてくると、ようやく立ち上がれるだけの気力が戻ってきていた。

 華菜子は立ち上がるが、痛みで顔を歪めてしまう。靴の先でさんざん蹴られたから、体のあちこちに痛みがあった。

 痛みに耐えながら、制服を手ではたいて、ていねいに汚れを落としていった。上着を脱いで、背中側についた汚れも落としていく。完全には落としきれなかったが、とりあえず今はこれでよしとした。帰宅してすぐに二階の自室に駆け込めば、今日のことは家族に知られることもないだろう。

 華菜子は鞄を拾い上げると、肩を落としたまま家路に向かった。



       *  *  *



「これ、何なの……」

 翌朝、下駄箱に手を入れて唖然とした。上履きが、ずぶ濡れになっていたからだ。

 すぐに誰の仕業か察しがついた。おそらく、吉野リサたちがやったのだ。

 華菜子は他の生徒から見られないように、ポケットティッシュを取り出して上履きの水分を吸い取っていったが、当然それで乾くわけもなく、仕方なく上履きは履かずに靴下のまま教室に向かった。


 教室に入ると、またも唖然とさせられた。机の上に落書きをされていたからだ。

「バカ」「ブス」「死ね」「ウソつき」「ヤリマン」などの悪意ある言葉が、黒の油性ペンで机一面に書き殴られていた。

 視線を感じて窓際に顔を向けると、吉野リサたちのグループがこちらを見て笑っていた。とつぜん目から涙があふれ出しそうになる。

 そこへ、仲のいいクラスメートたちが教室に入ってきて、背中を叩きながら明るく声をかけてきた。

「華菜子、おはよ」

 動けずにいると、クラスメートたちは机の落書きに気づいたようだ。

 彼女らの感情の変化に呼応して、教室の空気が一変したのがわかった。

「何これ!?」

 華菜子は彼女らに視線を合わせず、必死に涙をこらえていた。すると、クラスメートたちは、一度離れていったかと思うと、すぐに塗れた雑巾を持って戻ってきた。彼女たちは無言で机の上の落書きを消しはじめた。

 華菜子はそれを見て、涙腺が一気に崩壊した。つられて友人たちも泣き出してしまう。友人の一人が華菜子の肩に手を置いて、「大丈夫だから」と励ましてくれた。教室はしばらく異様な空気に包まれていた。

 しばらくして、担任教師が教室に入ってきた。他の生徒たちは席に着いたが、華菜子の友人たちは黙って落書きを落とし続けてくれた。

 それを見て、男性教師が向かってきた。

「お前ら、何やってんだ?」

 教師は華菜子の机を見てすぐに状況を察したようだ。

「原口。これ、誰にやられたんだ?」

「わかりません……」

 華菜子は泣きながら首を横に振った。

 ここで、廊下側に座る男子生徒がおもむろに立ち上がった。高田という名の男子生徒で、曲がったことが嫌いというタイプの生徒だ。彼が教師に向かって言った。

「たぶんそれ、吉野たちの仕業です。朝来たとき、原口の机を取り囲んで何かやってるの、おれ見てましたから」

 クラス中の視線が吉野リサに向かう。

 彼女はバツが悪そうに下を向いて黙っている。

「吉野。ちょっと来い」

 教師は吉野リサを呼びつけ、教室の外へと向かう。

 吉野リサは渋々といった様子で立ち上がると、ふてくされた態度でゆっくりと教師のあとに続いていった。


 放課後、華菜子は担任教師に呼び出された。

 職員室の応接セットで教師は言った。

「吉野が言うには、お前から、片親家庭だってことで馬鹿にされたって言ってるんだが」

「わたし、そんなこと言っていません!」

 華菜子は思わず大きな声を出してしまった。

 担任教師が少したじろいでいた。

「そ、そうだよな……。先生もそう思うよ。何か誤解があったんだろう。でも安心しろ。吉野たちにはしっかり言い含めておいたから、もう悪さはしないはずだから。もしまた何かあったら、すぐに先生に知らせてくれ。いいな?」

「わかりました……」



       *  *  *



 原口華菜子と吉野リサたちの一件は、すぐに隣のクラスの奈央の耳にも入ってきた。

 この件は教師が介入したため、おそらく吉野リサも、これ以上は原口華菜子にいやがらせをすることはないだろうと思われた。彼女だって、退学だけは避けたいはずだ。

 奈央にとっては当然面白くなかった。しかし、原口華菜子という女は、いじめられたままで黙っているような生徒ではない。それに彼女は模範的な優等生で、男女問わず人望が厚い。だから今回の結果は、当然といえば当然だったのかもしれない。

 とはいえ、吉野リサを使った計画は、ほんの余興にすぎなかった。本番はこれからなのだ。

 奈央は次の計画に移ることにした。

 校門を出たところで、スマホを取り出して電話をかけた。

「もしもし、翔太? 例の計画なんだけど——」

 電話の相手は、奈央からの電話を心待ちにしていたようだ。電話越しにも荒い息づかいが聞き取れるほどだった。これはいい兆候だと思った。

「——そうね、二人は連れてきて。それじゃよろしくね。また連絡する」

 通話を切ると、計画が本格的に動き出したことに胸がゾクゾクした。雅を取られた胸の苦しみは、この計画が成功すればすっかり解放されるはず。それほどまでに痛快な仕置き方法なのだ。

 原口華菜子が雅の隣で笑顔を見せていたところを思い出すと怒りで体が震えそうになるが、計画がうまくいくことを願って感情を沈めた。

「わたしが受けた痛みを、二倍にも三倍にもして返してやる——」

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