帰郷

「どう? あれから何も起こってない感じ?」

 真由美が近況を聞いてきた。

 二人して大学の食堂で昼食を取っていたところだ。

「うん。まったく何も」

「それはよかった。でも一週間何もないんだったら、もう大丈夫かもね」

「うん。そうであってほしいな」

「でもすごいよね、本当に結界が効いたんだもんね。あの岩国さんて人、見た目少しチャラい感じだったけど、できる人だったんだね」

「だね」

 確かに岩国は、こちらの想像以上のことをしてくれた。一分弱で張り終えた結界が、実際に効果を発揮したのだから。

「でもね、なんか、あのおかしな現象も、今思えば夢だったんじゃないかなって」

 それに真由美が同意する。

「わかる。その可能性はあるね。あたしも、高校生のときに、寝てる間に何度も体が宙に浮いたことがあるんだ。でもあれはきっと、夢だったんだと思うし」

「体が浮くって怖いね」

「高校時代は変なストレスがいっぱいあったから、そのせいでおかしくなってたんだと思う。きっと」

「そうだね。そういう夢を見るってことは、ストレスも関係してるかもね」

「だから奈央も、知らぬ間にストレス抱えてたんじゃない? それで変な夢を見るようになって」

「うん、そうかも」

「本当は結界なんて嘘っぱちでさ、ただそれを張ってもらったっていう安心感が、メンタルに良い影響をもたらしただけなのかもよ」

 友人の言葉に、奈央は妙に納得した。それが事実かもしれない。

「真由美の言う通りかも」

「きっとそうだよ。まあ理由はどうあれ、よかったね、元の生活に戻れて」

「うん、ありがと」

 友人の言葉に、奈央は改めて平穏が訪れた喜びを噛みしめた。

 ここで真由美が話題を変えてきた。

「ところでさ、その後、彼氏とはどうなの?」

「それが相変わらずなんだ……。電話しても、折り返しもくれなくて」

「そっかぁ……」

「もしかすると、浮気してるのかも……」

 認めたくはなかったが、その可能性は高かった。

 ここは否定してほしかったのだが、真由美もこの意見に同調してきた。

「まあ大学行ってれば、出会いは腐るほどあるからね」 

 胸が痛んだ。


 午後の講義を終えると、奈央は真由美とともに大学の最寄駅へ向かった。

 駅に着くと、募金活動が行われていた。同世代とおぼしき男女が五人。貧困世帯の子どもたちへの支援が目的のようだ。

 奈央はそれを見て、財布をさっと取り出し、女性が胸の前で持っている募金箱に千円札を入れた。

 すぐに女性から元気な声が上がった。

「ご協力ありがとうございます!」

 隣に立つ真由美が感心したように言ってきた。

「奈央って、えらいよね。進んで募金するなんて」

「だって、いいことすると、気持ちがいいじゃん。真由美もしたら」

「じゃ、あたしも少しだけ」

 真由美は財布から百円硬貨を一枚取り出して募金箱に入れた。

「ご協力ありがとうございます!」

 再び元気な声が飛んできた。

「ね、気持ちいいでしょ?」

「ま、悪い気分ではないね」

「一日一善だよ」

 奈央はそう言って、駅の改札口に向かった。



       *  *  *



 夜の海岸沿いに、腐乱死体が流れ着く。身につけた服装から、若い男のものと推測される。

 ふやけた顔は原型をとどめておらず、多くの裂傷があった。


 また別の場所では、二十代半ばほどの男が、フラフラとよろけるようにして道路に飛び出していく。

 車のフラッシュライトが男の眼前に迫る。

 男は大きく目を見開き、あんぐりと口を開けたまま急ブレーキの音を聞く。

 直後に、鈍い衝突音が響き渡った。



       *  *  *



 スマホの着信音で目が覚めた。

 部屋の暗さから、まだ夜中だということがわかる。すぐにいやな予感がして、壁掛け時計に目を向けた。

 二時だった——。

 また始まったのだ!

 奈央は鳴り続けるスマホを手に取る。またしても、「非通知設定」の文字。慌てながらもどうにかスマホの電源を落とすと、次の現象を身をこわばらせて待つ。

 壁掛け時計がカタカタと音を立てはじめた。布団を抱きしめて恐怖に耐える。

 続いてカーテンが大きく揺れ、次に壁がドンドンドンと音を立てる。壁からの振動にぞわっと鳥肌が立つ。

 これだけでも充分怖かったが、本当の恐怖はこれからだ。全身から一気に血の気が引いていく。

 いつものように、浴室のほうから女の声が聞こえてきた。

「ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない……」

 恨みのこもった声——。

 奈央は耳を強く塞いで叫んだ。

「もう勘弁してよ! 全部あんたが悪いんじゃないの!」



       *  *  *



 次の日の朝、奈央は岩国に連絡をした。

 バーテンの仕事をしているからだろうか、電話をかけたときはまだ寝ていたようだ。

 心霊現象が再び起こったことを伝えると、岩国はしばらく絶句していた。強い動揺が、電話越しにも伝わってきた。

「そっか……。思ったよりも早かったね……。どうやら想像以上に、厄介な相手なのかもしれない……」

 岩国の声は、どことなく震えているようにも聞こえた。

「また結界を張ってもらうことはできませんか」

「いいけど。でもこれ、イタチごっこだよ。またすぐに元に戻るよ」

「それでもいいです。少しでも収まれば」

 ここで岩国が押し黙ったため、無言の間が続いた。

「岩国さん——?」

「うん、大丈夫。聞いてるよ」

「その……、またお願いできませんか」

 藁にもすがるような思いだった。

 岩国が少し厳しい口調で答えた。

「おれね、自分で言うのもなんだけど、その辺の霊能者なんかよりも強い霊力を持ってるって自負してるんだ。そんなおれの作った結界が、たった一週間で効力を失ったんだよ。奈央さん、これってよっぽどのことなんだよ」

 岩国の説明に、奈央の気分はどんどん滅入っていく。

「おそらく、おれが部屋に結界を張ったことで、その霊は怒ってると思う。そうなると、また結界を張ったとしても、今度は三日も持たないかも。それに結界を張ったおれだって、無事でいられるかどうか」

「そんな……」

 ここで岩国が、咎めるような口調で聞いてきた。

「奈央さん、本当はわかってるんでしょ? 誰に恨まれてるか」

「え……」

「あのときは、友だちがいたから深く追求しなかったけど……、君の表情を見てすぐにわかったよ。君は特定の誰かを恐れている。そうだよね?」

「それは……」

「おれに嘘をついても無駄だよ。おれは人一倍、勘も鋭いんだから」

 詰問されて、奈央は何も言えなくなってしまった。

 黙っていると、岩国は続けた。

「いいかい。君が今すべきことは一つだけだ。心の底から悔い改めて謝罪すること。君が真に悔いてることを伝えれば、謝罪は受け入れられるかもしれない。そうなれば、今起こっている現象は、きっとすべて収まるはずだよ」

 断固とした口調から、こちらが真実を語らない限り、これ以上の協力は期待できないだろうと思った。

 奈央は不満を押し殺しながら答えた。

「わかりました。少し、考えてみます……」



       *  *  *



 奈央は、日に日にやつれていく自分の姿を見て絶望的な気持ちになっていった。しかし、少しでも自宅から離れていたかったから大学には無理して通っていた。

 学生食堂に真由美とともに入ると、ランチセットを持って席に座った。

「奈央、実家どこだったっけ?」

「島根だよ」

「ならそこに答えがあるんじゃないかな。一度さ、実家に帰ってみたら?」

「うん……」

 真由美には、心霊現象が再開したことは伝えてあった。そのため、こちらの顔色がすぐれない原因も理解してくれていた。だが、彼女以外の人間は違った。

 食事をしていたところで、大学の仲間が二人、奈央たちが座るテーブルにやってきた。

 環奈という名の同級生が、奈央の顔を見るなり言ってきた。

「奈央、今日も顔色悪いけど大丈夫?」

「問題ないよ」

「本当に?」

「ええ、本当だって」

 ここで真由美が助け舟を出してくれた。

「奈央はちょっと寝不足なだけだよ。心配いらないって」

 それでも環奈は引き下がろうとしなかった。

「ただの寝不足でこんなになるわけないじゃん。奈央、鏡見てる? すごい顔してるよ。ちゃんと食べてる? 真面目な話、病院に行ったほうがいいって」

「だから大丈夫だって言ってるじゃん」

「大丈夫なわけないじゃん。わたしはあなたのために言ってんだよ。今日にでも病院に行って、検査してもらったほうがいいよ」

 あまりのしつこさに頭に血が上った。

「もう、ほっといてよ!」

 奈央は怒りに任せて声を荒げた。

 環奈が驚いた顔をしている。食堂にいる他の学生たちも何事かと注目してくる。

 周囲の視線に苛立ちを覚えて、奈央はその場から逃げるように駆け出した。


 学生食堂を出てすぐに、キャンパスのベンチに腰を下ろした。

 奈央は苛立った勢いのまま恋人のみやびに電話をかけた。だが、何度コールしても、応答はなかった。

「もう、何で出てくれないのよ!」

 恋人にも無視されて、気分はどんどんすさんでいく。

 むしゃくしゃしているところでスマホが鳴った。

「え、雅君!?」

 恋人からの折り返しかと期待してスマホを見たが、〝紗希子〟という表示に奈央はがっかりする。電話をしてきたのは実家の友人だった。期待を裏切られたことに腹が立った。

「もしもし!」

 つい、八つ当たり気味に高い声が出てしまった。それは相手にも伝わったようだ。

「奈央、どうしたの……。何か恐い声出して」

「あ、ごめん……。ちょっとやなことあってさ」

「そっか……。なら、電話するタイミング、間違っちゃったかな」

「何かあった?」

「うん……」

 何だかいやな予感がした。

 紗希子は言いづらそうに話しはじめた。

「川崎君、覚えてる? 中学の同級生だった」

「彼がどうかしたの?」

「亡くなったの……」

「え!?」

 まさかの連絡に驚きを隠せなかった。それもよりによって、あの川崎翔太だ——。

 奈央は動揺を抑えながら聞く。

「死因は?」

「えっと、一応溺死」

「一応?」

「そう。でも発見された遺体には、暴行の跡がたくさんあったんだって……」

 暴行の跡が、たくさん——。

 今いちばん聞きたくないような話だった。

「奈央って、川崎君とけっこう仲良かったよね? あたしはそんなじゃなかったけど、奈央にしたら、けっこうショックだよね」

 死んだことより、死んだタイミングだ。この時期に死なれたのが不安をかき立ててくる。

「それとさ、まだあるんだよね……」

 友人の言葉に、奈央は身をこわばらせた。

「片岡先輩、覚えてる?」

「え?」

「片岡先輩。あたしたちの二個上の」

 この男の名前も、今は聞きたくない名前の一つだった。さらにいやな予感がした。

 奈央は平静を装いながら聞く。

「覚えてるよ……。彼がどうかしたの?」

「あのね、交通事故で半身不随になったらしいよ。自分から車に突っ込んでったんだって」

 奈央は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。

 よりによって、このタイミングで川崎翔太に続いてあの男も……。

「でもさ、あの人、自殺するようなタイプじゃなかったよね? だから呪いじゃないかって噂になってるよ。片岡先輩っていったら、原口華菜子かなこといろいろあったって話だからさ……」


〝原口華菜子〟今、最も聞きたくない名前だった——。


「片岡先輩に関しては、自業自得だったかもしれないね」

「そうだね……」

 片岡が自業自得なら、自分はどうなるのか。気分がどんどん沈んでいく。

「ところでさ、雅君とは順調なの?」

「う、うん。順調だよ……」

 嘘が自然に口に出ていた。胸が痛かった。

 こちらの気持ちをよそに、紗希子は続けた。

「高校時代の恋人と、結婚までいったら素敵だよね」

 彼女は勝手に妄想を膨らませていく。事情を知らぬとはいえ、聞いててイライラした。

 友人との通話を終えたあとも、奈央はしばらくベンチから動けなかった。

「これって、偶然のわけがない……」

 奈央に奇怪な現象が起こっている時期に、あのときの当事者が二人も被害にあった。うち一人は死んでいる。次は自分の番なのだろうか——。

 ここで、岩国が言っていた言葉を思い出す。


「何せ距離があるからね。ぼくの力では、その霊を成仏させるのはむずかしい——」


 彼が言っていたように、これは距離が関係しているのか?

 死んだ二人は島根にいた。わたしは東京にいる。だからまだ死なずにいるのか? わたしは遠くにいるおかげで、心霊現象程度で済んでいるのだろうか。

 奈央はここで考えを改める。

「いや、距離とかは関係なく、わたしのことをいたぶってるのかも……」

 やはり、岩国が言っていたように、謝罪が必要なのか——。

 奈央は怒りで頭が破裂しそうになった。

「わたしは何も悪くないのに、何で謝らなきゃいけないのよ!」


 その日の夜。奈央は実家に電話をかけた。

「お母さん。今週そっちに帰ろうかと思うんだ。ううん、別に何もないよ。ただ何となく帰りたくなっただけ——」



       *  *  *



 奈央は簡素な駅の改札を出るとタクシーを拾った。

 運転手に場所を告げて黙り込む。今回の帰省はまったく楽しいものではなかった。目的を遂げたら、地元の友人たちにも会わずに帰るつもりだった。

 タクシーが目的地に到着した。墓地だった。人影はほとんどなく、静けさが漂っている。

 この墓地に来るのは初めてではなかった。祖母が埋葬されていたから何度か訪れている。

 敷地内に足を踏み入れて、目的の墓石を探す。

 五分ほど歩いて、目的の墓石が見つかった。墓石には、『原口家之墓』と記されていた。

 暮石の前に立つと、妙な寒気に襲われた。誰かに見られているような気がした。

 奈央は両手を合わせると言った。

「華菜子、許して。わたしが悪かった……。お願いだから、許して……」

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