岩国啓一郎

「どうも、岩国です」

 岩国啓一郎という名の男は笑顔で名乗ってきた。

 真由美に同行してもらい、最寄駅で待ち合わせをした。

「本田奈央です。こっちは大学の友人の真由美です」

「はじめまして、橋本真由美です」

 真由美の笑顔から、岩国に好感を持ったことがうかがえた。

 奈央も真由美と同様、彼にはよい印象を持った。物腰は柔らかく、とても話しやすそうな雰囲気がある。

 細身でバンドマンといった感じの風貌だった。タイトなブラックジーンズがよく似合っている。ギターを弾いている姿が自然と目に浮かんだ。年齢は、二十代の後半といったところか。

 気づくと岩国が、じっとこちらを見つめてきていた。やはり、何か悪いものが見えてるのかもしれない。奈央は少し不安になる。

「あとでゆっくり話そう」

 彼はそう言って笑顔を見せた。

 さっそく三人して、自宅マンションに向かった。

 岩国は社交的で、駅から七、八分ほどの道中も、うまく会話を繋いでくれた。ほどなくして、四階建ての自宅マンションにたどり着く。築四年の真新しい建物だ。まわりは戸建て住宅が多かったから、奈央が住む四階建ての白いマンションが少し目立つ形になっている。

「ここの二階に住んでます」

「そうなんだね」

 岩国は周囲を見渡すが、とくに何かを嗅ぎ取ったという様子はなかった。

 エレベーターを使って二階に上がり、奈央は自室である203号室の扉を開けた。奈央が先に入り、そのあとに真由美が続き、最後に岩国が部屋に入ってきた。

 部屋はワンルームだ。八畳ほどのフローリングの床に、ベッドと丸い座卓と机、そして小さな白い棚が置かれている。

 岩国は部屋の中央に立って、何かを探りだすかのように、部屋の隅々に視線を向けていた。真剣な表情がとても頼もしく映った。すでに簡単な事情は電話で伝えてあった。

 奈央は邪魔にならぬようにと、部屋の端に身を寄せる。真由美はというと、ベッドに腰を下ろして岩国の様子を目で追っていた。

 岩国は、奈央に向かって言った。

「まず、深夜の二時に電話が鳴る」

「はい」

「次にこの時計が音を立てる」

「はい」

「で、あのカーテンが大きく揺れる」

「はい」

 岩国は伝えてあった話をしっかり覚えてくれていた。彼への信頼度が増していく。

「で、次に、壁がドンドンと叩くように鳴る、と」

「そうなんです。こっち側の壁だけが音を立てるんです」

 奈央は机が置かれているほうの壁を指差して言った。

「なるほど。ラップ音だね。典型的なポルターガイスト現象だ。あと、女の人の声が聞こえるって話だったよね?」

「ええ……」

「声はよく聞き取れないって言ってたけど、具体的にどんな感じの声なの」

「えーと、何か、くぐもった感じの声です……」

「そっか。でも女の人の声で間違いないんだよね」

「はい、それは間違いないです」

「なるほど」

 奈央はここで思い切って聞いてみた。

「あの、どうですか……。やっぱり、います?」

「うーん、そうだね……。多少は感じ取れるんだけど、まだ何とも……」

 岩国は少し困ったような顔をして答えた。

「そうですか……。でもここ、事故物件とかではないはずなんですけど」

「仮に事故物件だったとしても、奈央さんの前に誰か入居してたら、不動産屋に報告義務はないんだよ」

「ええ、それは知ってますけど……」

「でも、ここで何かあったとかでは、なさそうな感じはするよ」

「そうですか……」

 岩国はここで、少し考えるようなそぶりを見せてから言った。

「そういえば、霊能者に鑑定を受けたって言ってたよね? そのときの話、詳しく聞かせてもらえる?」

「あ、はい。でもその前に、お茶を用意しますね」


 コーヒーを三人分用意した。

 奈央は、岩国と向かい合う形で座卓に座った。

 真由美はというと、ベッドに腰掛けたままコーヒーカップを手にしている。

「では、最初から話しますね」

 奈央は霊能者から言われた話を岩国に話しはじめた。

 岩国は相づちを打ちながら穏やかな態度で話を聞いてくれた。おかげで変に緊張することもなく、スムーズに説明することができた。

「なるほど。だいたいのことはわかったよ」

 奈央は話し終えると、少しぬるくなったコーヒーを口に運んだ。

 岩国は考え込むような顔をしてから言った。

「結論から言うと、おれもその、霊能者と同じ意見だね」

「はあ……」

 奈央は彼の言葉に失望した。これでは何も変わらない。

 落胆している中、岩国が口を開く。

「まず、この部屋に、霊的なものの存在は感じない」

「じゃ、何で、おかしなことが起こってるんですか」

 奈央は少し語気を強めて聞いてしまう。

「それはおれにもわからない。でも、仮説を立てることはできる」

「仮説、ですか?」

「そう。仮説、だね。でも、消去法でいくと、この仮説が真理なんじゃないかって思う」

「説明してもらえますか」

 わかった、と言って岩国は居住まいを正す。

「まず、奈央さんが鑑定を受けた霊能者が言っていたように、すごく遠くのほうに、奈央さんのことを強く恨んでいる霊が存在することは間違いない。もっと具体的に言うと、相手は奈央さんと同世代の女の子だね」

 岩国の説明に、奈央は身をこわばらせる。

「すごい……。そんな具体的なことまでわかるなんて」

 真由美が驚いたように言った。

 ここで岩国が聞いてくる。

「ちなみにだけど、誰か同世代の子から、恨まれるような心当たりってない?」

「いえ……」

「そっか。なら、逆恨みかもしれないね」

 岩国はそう言って笑顔を見せるが、その目はすべてを見透かしているかのようにも思えて、奈央は急に居心地が悪くなった。

 実をいえば、心当たりなら。だが、この場には真由美もいる。正直に話せる状況ではない——。

 ここで真由美が割って入ってきた。

「そうだよ。きっと逆恨みだよ。性格のいい奈央が、そんな風に恨まれることなんてありえないもん」

 援護する友人に、奈央は無理に笑みを浮かべて返した。

 奈央は気を取り直して、岩国に疑問をぶつける。

「あの、わたしを恨んでるっていう霊は、ずっと遠くにいるわけじゃないですか。霊能者の人が言うには、そんな遠くから何かをするのは無理だろうっていうんですけど、でも実際起こってるわけじゃないですか。それってどういうことなんですか」

 岩国は人差し指を立てて答えた。

「実は、ここからが仮説になるんだよ。きっと、こういうことなんじゃないかな——。幽霊とかって夜に出るイメージがあるでしょ? 実際、霊的なものが力を持つのは夜になってからなんだ。だから、奈央さんを呪っている霊は、夜になると力をつけて、攻撃してきてるのかもしれない」

「やだ。それって、何か怖い……」

 真由美がこわばった表情で言う。

 岩国は続けた。

「まあ、これはあくまでも、おれの仮説だけどね。でも、そう見当はずれな仮説じゃないと思うよ。だって、毎晩夜中の二時に起こってるわけだし。いわゆる丑三うしみつ時だよね。霊たちの活動が、いちばん活発になる時間だ」

「引っ越したほうがいいんでしょうか」

 奈央がそう聞くと、岩国は首を横に振って見せた。

「いや、これは奈央さんへの個人的な恨みだから、引っ越しても問題は解決しないよ」

「そうですか……」

 ここで真由美が、岩国に質問した。

「あの、岩国さんが、その奈央を恨んでいる霊を成仏させるってことはできないんですか」

「できればそうしてあげたいんだけど、何せ距離があるからね。ぼくの力では、その霊を成仏させるのはむずかしいだろうね」

「そっかぁ……。除霊にも、距離とか関係あるんですね」

 真由美は残念そうに下を向く。

「だけどね、その奈央さんを恨んでいる個人が特定できたら、対策も変わってくるんだけど……」

 岩国はそう言って、意味ありげな視線を奈央に向けてきた。

 やはり、岩国は、こちらの心を見透かしているように見えた。彼の視線に、さらに居心地が悪くなってくる。

「まあ、とりあえず、おれにできることは、この部屋に結界を張ることくらいかな」

「結界、ですか?」

 予想外の言葉に奈央は驚く。

「そう。結界」

「わお。それって陰陽師おんみょうじみたいで格好いい!」

 真由美が興奮気味に声を上げた。

 岩国は苦笑気味に答える。

「でも、おれのは自己流だからね、君が思ってるような格好よさはないと思うよ。本物の陰陽師みたいに、儀式みたいなのはしないからさ」

「それでも、結界が張れるだけすごいですよー」

「ただね、おれが作った結界は効力に限りがあるから、いずれまた同じようなことが起こると思う。だから、やっぱり恨みの元を見つけるのがいちばんだと思う。だからね、奈央さん、今すぐじゃなくていいから、誰かに恨まれる覚えがないか思い返してみてよ」

「わかりました……。そうしてみます」

 ここで岩国は立ち上がると言った。

「じゃさっそく、結界を張っちゃおう」

 奈央は結界が張られる様子を、真由美とともに興味深く見守った。

 岩国は右手を顔の前に持っていくと、目を閉じ、その手に念を込めるように眉間にしわを寄せた。そして二本の指で手刀を作ったかと思うと、「えい!」というような感じで天井の隅に力強く向けた。他の四隅にも、同じ動作が繰り返された。

「終わったよ」

 岩国の言葉に、奈央は呆気に取られてしまう。作業は時間にして、一分もかかってないだろう。

「え、もう終わり?」

 真由美も同じ気持ちだったようだ。

「ね、想像してたのと違ったでしょ」

「確かに思ったよりも、あっさりしてたかも……」

 真由美はそう言って、不安そうな顔を奈央に向けてきた。

 奈央も彼女と同意見だった。こんな簡単なことで、毎夜続く心霊現象が消えるとは思えなかった。

「とりあえず、これで様子見てよ」

「わかりました……」



       *  *  *



「岩国さんは、昔から霊感が強かったんですか?」

 真由美が口の中をもぐもぐさせながら聞く。

 彼女の口のまわりはソースでベタベタになっている。

「そうだね。物心ついたときには、人には視えないものが視えていたね」

「怖くなかったんですか?」

「全然。だって他の人にも視えてると思ってたからさ」

「あ、それ、よく聞きますよね。みんな視えてると思ってたって」

 三人でデリバリーしたピザを囲んでいた。岩国が三切れ目のピザに手を伸ばす。

 奈央はここで、恐縮しながら聞いた。

「岩国さん、本当に謝礼とかいいんですか?」

「いいって。ピザをご馳走してもらっただけで充分さ。それにこういうのは趣味でやってるだけだし」

「でもなんか、わざわざ家にまで来ていただいたのに……」

「どうせヒマしてたから気にしないで」

 奈央が恐縮しているところで真由美が再び岩国に聞く。

「岩国さん、何か面白い体験談とかないんですか?」

「そうだなぁ……。体験談とはちょっと違うけど、死期の近い人は、顔を見ただけでわかるかも」

「えー、なんか怖いけどすごい!」

 真由美が大げさに驚いて見せる。

「この人死ぬなってのがわかると、だいたい一か月から二か月の間には死んじゃうね」

「どんな死に方をするんですか」

「ほとんどが病死だけど、事故の場合もあったね」

 真由美が心配そうに聞く。

「あの……、わたしたちは、大丈夫ですよね?」

「大丈夫だよ。安心して」

「ああ、よかったぁ」

 真由美はほっとした顔をして見せた。

 ここで奈央は、不安を押し殺しながら聞く。

「あの、今日って結界を張ってくれたじゃないですか。これで、その、心霊現象って消えてくれますか?」

「しばらくは消えると思うよ。けどさっきも言ったけど、結界の効力は永遠には続かない。だから効力が落ちたら、また始まると思う」

「そうですか……」

 奈央は落胆を隠せなかった。

「でも、自慢じゃないけど、おれの作った結界はかなり強力だから数か月はもつと思うよ」

「そうなんですね……」

「とにかく、結界は応急処置でしかないってこと。根本的な解決には、恨みのもとを見つけなきゃなんだ。そうすれば、結界よりも効果的な方法を使うことができるから」

「効果的な方法って?」

「霊を成仏させちゃうんだよ。いわゆる除霊ってやつさ」

「なら、除霊ができれば、もうおかしな現象に悩まされなくて済むんですね」

「そうだね。でもさすがに除霊の対象がわからないと、おれには何もできない。だから今は結界で守ることしかできない」

 ここで真由美が聞いてきた。

「奈央、ほんとに心当たりないの?」

「うん……」

 岩国は新しいピザを手に取ると言った。

「相当遠いところからの怨念だから、きっと前に診てもらった霊能者が言ってたように、奈央さんの実家にいた人物で間違いないと思うよ。だからさ、学生時代のことをよく思い出してみて。今すぐとかじゃなくていいからさ」

「わかりました……」

 少し意気消沈していると、真由美が励ますように言ってきた。

「ねえ奈央、逆恨みの可能性もあるんだから、それも考慮に入れるんだよ」

「うん、そうだね」



       *  *  *



 その夜も念のため、スマホの電源はオフにしてベッドに入った。

 緊張してなかなか寝つけなかったが、いつの間にか寝入っていたようだ。朝の七時ごろに自然と目が覚めた。久しぶりに熟睡できた気がした。

 不思議な感覚だった。しばらく悩まされていた心霊現象は、どうやら起こらなかったようだ。


 さっそく真由美にLINEで報告した。すぐに彼女から返信がきた。自分のことのように喜んでくれた。岩国にも感謝のメッセージを送った。今度直接会って、お礼を言うつもりでいた。

 久しぶりに晴れやかな気持ちになった。だが、昨日岩国が言っていたように、結界の効力には限りがあるのだ。そこが不安だった。とはいえ、まずは悩まされていた心霊現象が一時的にとはいえ止まったことで、先の見えぬ状況に光明が差した気がした。

 この平和が、ずっと続くことを願った——。

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