第263話 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ

 昼食を食堂で取っていたところ、2期と3期パイロットが集まっていたのに明日奈だけはこの場にいなかった。


 体調不良で結婚式は欠席したというが、瑞穂が高天原を出航する時は乗艦しているとルーナから聞かされていたため、恭介は瑞穂のリーダーとして彼女の状況が気になった。


 2期と3期のパイロットが食堂を出て行ったところで、モニターにルーナを呼び出して訊ねる。


「ルーナ、等々力さんについて知ってることを全部話せ。多分、お前が何か絡んでるだろ?」


『…恭介君、深淵を覗く覚悟はあるかい?』


「は?」


『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』


「ちょっと何が言いたいのかわからないんだが」


 ルーナがいきなりニーチェの言葉を引用し始めたから、恭介はどういうことだと首を傾げ始めた。


 そこに、食堂から出て行ったはずの沙耶が戻って来た。


「兄さん、その話題はできれば触れない方が良いと思うのですが」


「沙耶は何か知ってるのか?」


「知ってます。というか、私も同じ容疑でルーナから疑われてましたので」


「ルーナ、ありのまま話せ。俺と麗華の結婚式を運営してる裏で何をしてた?」


 結婚式は小さなハプニングこそあれど、式自体が中止になるような悲しい事態にはならなかった。


 正直なところ、明日奈が何かしら動くのではないかと恭介も思っていたので、一昨日から姿を見せていない明日奈に何かあったと考えるのは自然なことだろう。


 その点については麗華も同じようだ。


「あの女の邪魔がなかったのはありがたいことだけど、邪魔しなかったということ自体があの女らしくないわ。あの女は何処?」


『うーん、できれば君達にはもうちょっと内緒にしておきたかったんだけど仕方ないね。実は、明日奈ちゃんは君達の結婚式の間に家探しして、恭介君の体液を回収して人工授精するつもりだったんだ』


 語られた真実は恭介が予想できる範疇を超えており、どんな表情をすれば良いのかわからなくて硬直していた。


 神であるルーナに対して堂々としていられる恭介であっても、自分に対してそこまで執着する明日奈に困惑を隠せないようだ。


 その一方、麗華は明日奈に対して怒りの炎を燃やしていた。


「あの女、私と恭介さんの関係に口を出さないって約束を自分に都合良く解釈したわね」


『そうだね。沙耶ちゃんに手伝ってもらったおかげで未遂に終わったけど、実行してたら犯罪だし倫理的にそれで良いのかって私がツッコむぐらいには明日奈ちゃんはヤバいね』


「等々力さんと同じように私を疑ってるというのは心外でした」


『ごめんね。でも、沙耶ちゃんも恭介君のことが好きでしょ? 結婚式がおじゃんになるようなことは前もって阻止したかったんだよ』


 ルーナの言葉を聞いて恭介は沙耶の方を見た。


 沙耶も自分が恭介に見られているとわかっていたので、言葉を濁さずに正直な気持ちを話す。


「私は兄さんのことが好きですよ。でも、近親婚が禁止されてる以上、等々力さんのように何か行動に出ることはありませんから安心して下さい。それは麗華さんが保証してくれるはずです」


「そうだね。沙耶さんが恭介さんのことを好きなのはわかってたから、私が直接沙耶さんに恭介さんのことをどう思ってるのか訊ねたがあるよ。その結果、私は沙耶さんなら大丈夫だと判断したの」


「兄として頼られてるとは思ってたけど、まさかそんなことになってたとは…」


 恭介は自分がそこまでモテるとは思っていなかったから、明日奈とは別に沙耶が自分を兄ではなく異性として見ていることを知って静かに驚いた。


「恭介さんは自分のことを過小評価し過ぎだよ」


「そうですね。兄さんは自分のことを過小評価し過ぎです」


『ププッ、恭介君が押され…、なんでもないよ』


 ルーナは恭介に氷点下の眼差しを向けられ、余計なことは言わないと口にチャックするジェスチャーをした。


 筧前首相という自分にとって忌々しい存在のせいで、恭介は麗華と出会うまでに異性に対する好意という感情をあまり理解できていなかった。


 その影響は当然のことながら、自分が異性から好かれているかどうかも気づくのに時間をかけてしまうことに繋がる。


「そんなもんなのかね。まあ、ここまで事態が面倒になってるんだから、そういうことなんだと思うことにする。それで、話を戻すけど等々力さんは今どういった状況だ?」


 自分がモテていることについてこれ以上ここで説明されるのは恥ずかしいから、恭介は明日奈についてルーナに訊ねた。


『結婚式の邪魔をしてほしくなかったから、静かで暗い亜空間に放り込んどいた。お仕置きの意味で体感時間を引き延ばしてみたら、ちょっとおかしなことになっちゃってね』


「「「おかしなこと?」」」


 ルーナがおかしなことという時点で、恭介達は嫌な予感しかしなくなった。


 明日奈が非公認のトゥモローファンクラブの中でも過激なガチ恋勢であることは理解しているが、それを前提にした上でルーナにおかしいと言われるのだから、碌でもない事態になったのではと疑っている。


『明日奈ちゃんの体感時間を3倍にしてみたの。そうしたら、最初は出せって喚いてただけなのに気づいたらトゥモローファンクラブの会則を延々と読み上げるようになったんだ』


「どゆこと?」


「あの女、やっぱりヤバい女だったんだわ」


「トゥモローファンクラブの会則が心の支えになってた訳ですか」


 恭介と麗華にとって明日奈の行動は理解不能だったが、沙耶は2人よりも後にデスゲームに参加したから、2人よりもトゥモローファンクラブのことを知っている。


 それゆえ、沙耶はドン引きしてはいるものの明日奈がどうしてトゥモローファンクラブの会則を読み上げたのか思い当たった。


『トゥモローファンクラブの会則には、恭介君を称える文章も含まれてるんだ。だから、暗闇の中に放置されて気が狂いそうになった明日奈ちゃんは、トゥモローファンクラブの会則を読み上げて恭介君を近くに感じて安心したかったんだろうね』


「俺の知らない所で俺が祀り上げられてるって普通に怖いんだが」


『アイドルオタクって極まってるのもいるじゃん。恭介君のファンにもそういうのがいると思ってよ』


「俺はアイドルじゃねえっての」


 頭が痛くなって来た恭介は額に手をやった。


 麗華は恭介を気遣い、空いている手を握って落ち着いてもらおうとする。


「恭介さん、大丈夫。恭介さんには私がいるから」


「兄さん、ヤバいのは一部の人だけなんで安心して下さい」


『まあ、この話を掘り下げても誰も幸せにならないだろうから結論を言うけど、明日奈ちゃんは恭介君に忠誠を誓う騎士になったよ』


「どゆこと?」


 あまり中身を聞きたいとは思えないが、それでもいきなりぶっ飛んだ結論が出て来たので恭介は訊ねずにはいられなかった。


 何があったらトゥモローファンクラブの会則を読み続けるだけで、自分に忠誠を誓う騎士になるんだと恭介は理解できなかった。


『恭介君を推すトゥモローファンクラブの会則を読み上げ続けることで、恭介君を身近に感じると共に守るべき宝と考えるようになった。ここまではわかる?』


「わからないけどそのまま進めてくれ」


『そうだね。それから先は会則を読んでから座禅を組んで精神統一の繰り返しだね。今は88周目に入ったよ。この状態ならこっちの空間に呼び戻しても変なことはしないと思うけど、呼び戻しても良いかい? 貴重な戦力であることは間違いないし、今ならピンチの時に恭介君の肉壁になってくれることは請け負うよ?』


「訳がわからんけど最後にサラッとゲスな発言をするんじゃない」


 仮にそれが事実だとしても、ルーナの最後の発言がゲスであることは事実だ。


『そんなことを言われたってしょうがないじゃないか。事実なんだもの。それよりも、ここに転移させても良いかな?』


「お仕置きによる変化を聞いたら嫌だとは言えないだろ。これ以上おかしくなったらルーナは責任取れるのか?」


『よし、呼び戻そう。おいでー、明日奈ちゃーん』


 明日奈がこれ以上おかしくなっては困るから、ルーナは直ちに亜空間に閉じ込めた明日奈をこの場に呼び戻した。


 明日奈は結婚式前日のままの服装だったが、恭介を見つけるととても愛し気な表情を浮かべて片膝をついた。


「トゥモロー様、等々力明日奈は悟りを開いて戻って参りました」


 どうすれば良いのかと思ったが、ここは毅然とした態度で接する方が良さそうだと判断して恭介はそれを実行する。


「よく戻って来た。明日からの戦いでも期待してるぞ」


「ありがたき幸せ。では、早速準備に移ります」


 騎士のような雰囲気を保ちつつ、明日奈は食堂を出て行った。


 明日奈には麗華と沙耶、ルーナが見えていたのかどうかわからないが、とにかくトラブルにはならなかった。


 恭介は深く溜息をつき、今後明日奈に対してどう接すれば良いのかと眉間に皺を寄せた。

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