第51話 ~この温もりなしでは~
「首都へ……行ってしまうの?」
「ああ、カイレン殿下の側近になる為、御傍で学びたいんだ。卒業したらすぐに行こうと思っている」
「そう……ギル様はお兄様の御傍で働きたいって、昔から仰っていたものね」
ユリナは目を伏せると、ふふっと笑う。
「ユリナ?」
「私ったら可笑しいわ。試験のことで精一杯で、ギル様が卒業してしまうのをすっかり忘れていたの。ずっとこのまま傍に居られる気がして……」
その瞳は、銀色の長い睫毛に覆われて見えない。
「ユリナ、顔を上げて」
「……嫌です」
震え出す声。すっと跪き、下からユリナの顔を見上げると……
ぽたり、ぽたり。
涙の雨がギルバートの顔を濡らした。
「ごめんなさい……笑顔で……行ってらっしゃいって……言ってあげなきゃいけないのに。ギル様の夢を……応援したいのに」
「夢……か。良い響きだな。自分だったら目標とか志とか、そんな言葉しか出てこないのに」
長い指でユリナの頬を拭うと、ギルバートはたまらず下から口づけた。
いつもの様に角度を変えては啄み……吐息を漏らしながら開いた小さな唇の隙間に、そっと自分を差し込んでいく。
温かく、柔らかく、少し塩っぱく……そして何よりも甘い。
初めて味わう彼女の口内を夢中で探り、やっと離れた時には、荒い吐息に変わっている自分に気付く。
潤んだ黒い瞳に怯えの色が見てとれると、後悔の念に襲われた。
彼女はまだ16なのに……
今すぐにでも結婚して、自分のものにして連れ去りたい。二歳の歳の差が、こんなに恨めしいと思う日が来るなんて。
何故シェリナ様は、あと二年早くユリナを産んでくださらなかったのだろうと、そんなどうしようもないことまで考えてしまう。
そのまま草の上に腰を下ろすと、頭と膝を抱え、はあとため息を吐いた。
「……ギル様?」
心配そうにしゃがむユリナに、ギルバートは何とか情けない笑顔を作る。
「二年経ったら……ユリナも首都へ来てくれるか?」
「勿論……それまでこっちで一生懸命勉強して、私も自分の夢を見つけるわ。皇女としてサレジア国の為に何が出来るかを、しっかり考えたいの」
涙ぐんではいるも、もう声は震えていない。自分と歩む為、懸命に前を向く彼女がいじらしい。
「今日に怯えて生きるのではなく、
ギルバートは座ったまま、ユリナを強く抱き締めた。
「長期休みには必ず会おう」
「うん。ギル様はお忙しいでしょうから、私が首都へ行くわ」
「手紙は毎日書く。一行でも二行でも、必ず」
「うん。私はもっと沢山になってしまうと思うけど……読めたら読んでね」
「必ず読むよ。ユリナの話を沢山聞きたい」
ユリナの顔に、ぱあっと明るい笑みが広がる。
可愛い……本当に可愛いな。
また自分を制御出来なくなりそうだ。
ギルバートはユリナを腕に抱いたまま、気合いを入れて立ち上がると、厳しい声で言った。
「よし、じゃあ今から特訓するぞ」
「……何の?」
「来月の実技試験だよ。試験はまだ終わっていない」
「実技……それもすっかり忘れていたわ」
先程までの甘い顔から、鬼講師の顔に変わったギルバートに、思わず別の涙が溢れそうになる。
項垂れるユリナは、そのままズルズルと練習場に拐われて行った。
◇◇◇
2月────後期の実技試験当日。
ユリナは前回と同じように目を瞑り、胸の前で手をクロスさせると、自分へ向かい風の魔力を送っていく。
柔らかい風は身体を包み、脇の辺りまで伸びた銀髪と、煌きらびやかなマントを扇の様に広げさせた。
「今回もユリナは自分を風の媒体にしたのか。楽しみだな」
ワイアットの目が輝く。
ギルバートはユリナへ手をかざし、地の魔力で鎮める。銀髪を煽る風を繊細なコントロールで部分的に調整し、風の力だけであらゆる方向から編み込んでいく。
やがて美しい銀髪は、指一本触れずに見事なアップスタイルに仕上がり、歓声が湧き起こった。
その時、チラチラと空を舞う白い羽の様なものが……
よく見ればそれは、サレジア国では珍しい雪だった。
神が皇女を祝福しているのだろうか……
ギルバートは優しい笑みを浮かべると、銀髪にだけ雪が掛かる様に風圧を調整していく。
雪の結晶で飾られ、キラキラと輝きを増すその銀色は、どんな高価な宝石よりも美しい。
清らかで幻想的なその光景に、皆はこれが試験だということも忘れ魅入っていた。
しばしの間、しんと静まり返る会場。やがてユリナがそっと目を開いたのを合図に、ギルバートは力を抜く。
銀髪とマントは、一瞬ふわっと高く空へ
誰かがはっと我に返り拍手をすると、連鎖しながら会場にどっと響く。
ギルバートとユリナは微笑み合い、手を繋ぐと深々と礼をした。
一方コレットは今回ウィルとペアを組み、こちらも見事な魔術を披露した。
ウィルのまたもや愛らしい赤い炎のドラゴンを、コレットが風の魔力で煽りながら更に地の魔力で揺らしていく。すると会場の空を覆い尽くす巨大なドラゴンとなり、口から吐いた火で地面の雪を瞬時に溶かしていった。
三種類の魔力の共存という難しい魔術を成功させた二人にも、拍手喝采が起こった。
こうして今回はどちらのペアも最高のA+評価を貰うことが出来、前期の成績があまり振るわなかったユリナも、無事に単位を取得することが出来た。
その他の授業も無事に試験を終え、後は卒業と進級を待つだけになった二人。皇太子夫妻の承諾も得た、サイン済みの婚約届を役所に出しに行く。
無事に受理され、これで今日から最低三年間は互いを縛り合う効力が発生した。
「俺と離れている間に、もし好きな男が出来ても浮気は出来ないからな」
「ギル様こそ、首都には綺麗な女性が沢山いるそうですが、私以外と結婚は出来ませんからね」
二人は顔を合わせ、ふふっと笑い合う。
縛られることを何よりも嫌っていたギルバートは、今こうしてユリナと法律で縛られたことに、大きな安堵と喜びを感じていた。
「“様”は要らない。もう正式な婚約者なのだし。……アイツのことは、婚約者でもないのに呼び捨てだったくせにな」
ふんと面白くない顔をするギルバートに、ユリナはふふっと笑う。
「ギル……可愛い」
「は?」
爪先で立つと、彼の真っ赤なそれに唇を落とした。耳を押さえ放心状態の彼をそのままに、ユリナはスキップしながら歩いていく。そして下を見て立ち止まると、嬉しそうにギルバートを手招きする。
「ギル! 見て、可愛い芽が出てる」
茶色い土からは、瑞々しい緑の小さな芽が顔を出していた。
「もうすぐ国中が花で溢れるわね……私の一番好きな季節。今年はちょっと寂しいけれど」
ギルバートはユリナの小さな手を優しく包む。
「まだ出発まで三週間はある。その間に沢山歩こう。ユリナの好きな季節をこの目に焼き付けたい」
「……うん」
彼女が居なければきっと、緑の芽も花咲く季節も素通りしていた。
こうして新しい感動を得る度、いかに自分が不完全な人間だったのかを思い知らされる。
もう決して、この温もりなしでは生きていけない。
◇◇◇
ユリナの屋敷の庭にも花が咲き始めた頃、公爵夫妻が訪れ、両家の食事会をすることとなった。
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