第49話 ~甘いんだな~
ギルバートはむせ返りそうな化粧や香水の臭いに、必死で耐えていた。不快と嫌悪以外の何物でもないこの感情に、以前の自分なら怒鳴り散らしていたかもしれない。だが……
令嬢に取り囲まれるギルバートの元へ、ユリナの兵が一人近付いた。そっと耳打ちされたギルバートは目の色を変え、令嬢を掻き分けその場を離れる。
「やあ、ギルバート」
両腕に令嬢をぶら下げた、世界一いけ好かない男……コレット・ベリンガムに声を掛けられた。
「……何だ、今急いでいる」
「ユリナの足、見てあげなよ」
「は?」
「痛めているかもしれない。ダンスしている時、少し踵を庇っていたから。僕が見てあげてもいいんだけど……嫌だろ?」
挑発する様にニヤリと笑う顔に、苛立つギルバート。
「綺麗なお姫様が何処かに拐われない様に、傍を離れない方がいいぞ。じゃあな」
そう言うと、令嬢の肩を抱き寄せながら去って行った。
ユリナとレティシアは階段を上がり、学園を一望出来るテラスへ出ていた。
「兵が心配しますので、ドアは開けたままにします」
「ええ、構いません」
男女が愛を語るには絶好の場所だが、吐息が白く濁るこの時期には流石に誰も居なかった。
ショールも何もない剥き出しの肌を、冷たい夜風が容赦なく刺す。
「会場は暑過ぎたから、この位が丁度いいわ」
顔色一つ変えないレティシアに対し、ユリナは両腕を擦りながらブルッと震えた。
「……皇女様は、ギルを愛していないのね」
唐突に言うレティシア。
「私が貴女なら、迷いなく彼の傍を離れるわ。自分のせいで、愛する人に災いが及ぶなんて耐えられないもの。結局自分可愛さに、彼を手放したくないだけなのね」
ユリナは何も答えない。ただレティシアを受け止める。
「私は許せない。ずっと好きだったギルを、貴女みたいな人に奪われるなんて。皇女でなければ、貴女なんか見向きもされなかったのに……私が彼の許嫁になれたのに」
レティシアの言葉を丁寧に噛み締めながら、ユリナは考える。
何故自分は、何を言われても、彼女に対し怒りが沸かないのだろうと。
答えを探る為、自分を睨み付ける紫色の瞳を凝視する。
そうか……
やがて辿り着いた一つの答えに、ユリナは納得した。
そしておもむろに口を開く。
「貴女から初めてエメラルドの魔力のことを聞いた時、私は彼と離れる決意をしました。貴女に言われた通り彼を解放しようと。辛かったけど、彼が自分を愛していないと思っていたので、決断するのは簡単なことでした。でも……」
ユリナはすうっと息を吸い込んだ。
凍てつく外気が、震えそうになる声をピリッと引き締める。
「彼は、私と一緒になることで起こる災いよりも、私と離れることの方が不幸せだと言ってくれました。そんな想いに背を向けるのは、単なる逃げです。だから今日、私は彼ときちんと向き合い、結論を出しに来ました」
レティシアの顔がみるみる青ざめ、身体が震え出す。
「想い……? 想いですって? 貴女が彼に愛されていると? そんな筈ない……絶対にない! 彼は誰も愛さない! だから私は彼の傍に居られる様にと……愛されなくても傍に居られる様に、ずっと、ずっと努力してきたのに」
心の底から絞り出される悲痛な叫びが、ユリナを抉る。
レティシアがユリナの細い手首を掴む。ピリピリした痛みに見下ろせば、外気よりも鋭い冷気が、彼女の全身を纏っていた。
紫色の瞳からは、涙が溢れては凍っていく。
「お願い……嘘よ。嘘だと言って。彼は誰も……」
「うっ……」
レティシアから放たれる冷気がユリナに侵食しようとした時────
大きな手がレティシアの腕を掴み上げた。
口をパクパク開けたまま怯える彼女を、灰色の瞳が冷たく見下ろしている。
掴んでいたものを乱暴に振り払うと、その手の持ち主はすっとユリナの前に立つ。
「レティシア、お前の言う通りだ。確かに俺は人を愛したことがない……ユリナ以外は」
レティシアは首を振る。
「ユリナが傍に居ることで、はじめて愛に気付ける。だから、たとえユリナが俺から離れても、他の誰かと一緒になる気はない」
身体をよろめかせながら後退るレティシアに、ギルバートが冷たく言い放つ。
「もしユリナと出会わず、お前と許嫁になっていたら、結婚しても一生愛を知らないまま年老いて死んでいた。ただ、それだけのことだ」
レティシアが去ったテラスの床には、氷の粒がキラキラと光っていた。
それに近付き、しゃがもうとするユリナの腕を、ギルバートはがしっと掴み引き上げる。そして手袋を外し、レティシアに掴まれていた手首をまじまじと確認すると、ほっと息を吐いた。
「少し青くはなっているが、問題はなさそうだ」
そう言いながら自分の上着をユリナに着せ、手首を懸命に擦りながら温めていく。
「……哀しかったの」
「え?」
「レティシアさんの
「……だから何ですか? 彼女とは本や勉学の話が合っただけで、それ以上の関係などありせん。彼女にそんな気持ちを抱かれていると知ってたら、もっと距離を置いたのに」
「そうですよね……だから私も、ギル様に自分の想いを知られるのが怖かったんです。いつかこちらを見て欲しくて、ギル様と同じ本を見たのに全然解らなくて。レティシアさんみたいに貴方の好きな話をすることも出来なくて。いっそ本の……一ページ、一文字にでもいいからなりたいと思っていました。そうしたら、一瞬だけでも見てもらえるのにって」
「ユリナ……」
抱き寄せようとするギルバートの手を、ユリナは払う。
「どうしてですか? 私のことはずっと無視していたのに、ずっと冷たかったのに、どうしてさっきは令嬢達とあんなに楽しそうだったのですか? 関係ないなら距離を置くんじゃないんですか?」
ユリナの目から、ぼたぼたと大粒の涙が溢れた。
「違う! 本当は嫌で堪らなかった。だけど……君の為に」
「私の為?」
「あの場を嫌な雰囲気にしたくなかったから、何とかやり過ごそうと……。君を悲しませたくなかったんだ。後夜祭は民が生き生きと楽しめる大切な場なんだろ?」
少しの沈黙の後、ユリナは声を張り上げた。
「貴方は……! 気を遣う所が間違っています。そんなの冷たく……いえ、冷静に丁重にお断りしてくれればいいんです! 大体、外でやたらと笑うからいけないんです!貴方が笑ったら素敵過ぎて、令嬢が蟻の様に群がってきてしまうことを自覚して下さい!」
ぽかんと口を開けたまま、ユリナの剣幕に
「一つお訊きしたいのですが……貴女のそれは嫉妬ですか?」
「なっ……!」
「素敵過ぎる私が、令嬢に囲まれるのを見て、猛烈な嫉妬を抱いてしまったという訳ですね。そして笑うのは自分の前だけにして欲しいと」
なんでこの人、触れて欲しくない所に限って、毎度冴えてるの?
ユリナは目をごしごしと擦る。
「あの……寒いからもう中に入りませんか? ギル様がお風邪を引いてしまいます」
「嫌だ。こうしていれば温かい」
ギュッと腕に力を込められ、そしてまた耳元に囁かれる。
「それで……ユリナの気持ちは?」
「え?」
「自分の気持ちに向き合って、結論を出すんだろ?」
「そこから聞いていたんですか?」
「ドアが開いていたから。何かまだ言っていないことがあるなら、遠慮なくぶつけて欲しい」
『アイツに自分の気持ち全部ぶつけてみたら?』
不意に浮かんだモニカの言葉に背中を押され、ユリナはギルバートを真っ直ぐ見上げた。
「私は……私はやっぱり怖い。私のせいで、万一貴方の命を脅かすことがあればと」
「……うん」
「最近毎晩夢を見るの。貴方が笑っていて、近付こうとすると、誰かが貴方を刺すの」
「うん」
「その誰かを振り向かせたら、気味の悪いエメラルド色の
「うん」
「怖いの……未来を暗示している様で。傍に居たら駄目って、神様から忠告を受けているのかもしれない」
「うん……他には?」
頬を撫でる優しい手に誘導され、全てが溢れる。
「お母様は本当は心臓が良くないの。黒魔術で命を奪われかけた時の後遺症で……私も同じ様になるかもしれない」
「……うん」
「子供を産むのが怖い。もし女の子だったら、またエメラルドの魔力を受け継いでしまうかもしれない。だけど……好きな人の子供は欲しい」
「うん……他は?」
「ギル様が好き、大好き。初めて会った時から、ずっとずっと大好き。本当は離れたくない。結婚したい。ずっと一緒に居たい。エメラルドの魔力なんか……大嫌い!!」
そこまで言うと、ユリナはわっと堰を切った様に泣き出した。
ギルバートはユリナの背をトントンと優しく叩く。
自分の胸までしかない小さな彼女。その中に、どれだけのものを抱えていたのかと思うと胸が痛んだ。
長い間そうしてやり、やがて涙が収まるとギルバートは微笑みながら言った。
「なんだ。君の結論は……結局、俺と一緒に居たいということか」
「ギル様……」
「君の抱える不安点については……
まず一つ目、夢の話だが、それは君の深層心理が表れているに過ぎない。君の恐怖心が夢の中で俺を刺しているだけだ。その証拠に、君と結婚することを何も恐れていない自分は、そんな悪夢を一切見ない。
二つ目、後遺症の話だが、まず君がエメラルドの魔力を解放しない様に、俺が傍で全力を尽くす。そうすれば後遺症の心配はない。母上のことは、俺も息子として精一杯お支えしよう。
三つ目、子供はうるさくて嫌いだが、二人の子なら是非欲しい。ユリナによく似た女の子なら尚更。万一魔力を受け継いだ場合は、俺が妻子共に守る」
またもや演説の様に語るギルバートに圧倒され、ユリナはただ頷きながら聞くしかない。
「以上、不安点の解決策だが……何か問題でも? もしあるなら、一分以内に400文字以内で」
ふるふると首を振るユリナを、ギルバートはひょいと抱き上げる。
「じゃあ……とりあえず、今夜、悪夢を見ない為に」
ギルバートの温かい唇がユリナのそれに重なる。
角度を変えては啄み、何度も、何度も────
やがて切ない吐息を残したままそっと離すと、ギルバートは言った。
「起きている時は、もっと甘いんだな」
「え……ああ…………」
ユリナは熱に浮かされながらぼんやりと答える。
「さっきケーキを食べたから……でも、ギル様は甘いものは嫌いでしょう?」
「確かに……でも、これは嫌いじゃない」
「ならよかったわ」
潤んだ瞳でにこりと笑うユリナ。
「そういえば……先週の授業の報酬をまだ貰っていなかったな」
こうして再び、薔薇と生クリームが香る、彼女の甘い唇に溺れていった。
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