第32話 ~抑えられるのか?~

 

 数日後、ユリナはコレットに一枚の布を手渡す。


「これは……」

「コレットの紋章を刺繍するのは初めてだから、別の布で練習したの。ブックカバーにしたから、良かったら使って。生地は違うけど、同じ焦げ茶色に金糸で……どうかな?」


 刺繍を見つめたまま、何も言葉を発しないコレットに段々不安になる。


「この辺……もうちょっと立体的にした方がいい?」


 遠慮がちに刺繍の一部を指すユリナへ、コレットはやっと口を開いた。

「鏡……ある?」


 ユリナから手鏡を受け取ると、コレットは胸元にブックカバーの刺繍部分をあて、なんども角度を変えては眺める。

 やがて、ほうと息を吐くと、丸い瞳を輝かせながらユリナに向き直った。


「ありがとう、ユリナ。僕の為にこんなに素晴らしい刺繍を……」

「そんなことないの。初めてだったから反省点ばかりで。タイはもっと上手に作るわね」


 にこりと微笑むユリナの手を、コレットは両手で優しく包む。


「政略結婚……同意してくれたんだってね。両親から連絡があったよ」

「うん……」

「まさかこんなに早く返事をくれるとは思わなかった」

「お父様とお母様を安心させて差し上げたいの……沢山心配をかけてしまっているから。でも、こんな理由で本当にいいの?」

「もちろん」


 コレットはユリナを抱き寄せると軽快に言う。

「契約成立だね」


 決して彼女には見えない華奢な背中側で、コレットは満面の笑みを浮かべていた。


「でも……一つ約束して欲しいことがあるの」

「……約束?」


 背中から離れ、じっと黒い瞳を覗き込む。


「エメラルドの魔力の封印が解けて、コレットにも誰にも抑えきれなくなって、もしベリンガム家を危険に曝すようなら……私の目を傷付けて欲しいの」


「ユリナ……!」

 コレットの顔色が一瞬で変わる。


「合宿の時も、本当は自分で目を突いてしまおうかと思った。でも出来なくて……。手が動かなかったからじゃない。もし動かせても、きっと怖くて出来なかったと思う」


 恐ろしい程に透明で、真っ直ぐすぎる心に、コレットは身震いする。


「だからもしもの時、躊躇ためらって出来ない様なら、私に手を貸して欲しいの」


 まるで鉛筆を貸してとでも言う風に、軽い調子で言う彼女。コレットの恐怖は次第に怒りに変わる。


「……分かった。要は結婚したら、君の全てを僕が自由に管理して良いということだね。心も、身体も……生命いのちも」


 ユリナは黙ったままこくりと頷く。


「ベリンガム家の為に死んでくれと言ったら、君はその通りにするのか?」

「……はい。お荷物にも、不利益にもなりたくありませんから」


 そう言いながら彼を見上げるのは、嘘偽りのない、どこまでも澄んだ瞳だった。



 ◇


 最近レティシアの様子がおかしい。

 以前は本や学問の話しかせず、適度な距離を保って接していた。だが最近は、身体にやたらと触れてくる上に、社交界の興味のない話を延々と……

 おまけに臭い。ツンと鼻をつく様な……香水か? ユリナの甘い香りとは全然違う。


 ああ……

 またこうして、事あるごとに彼女を思い出す自分に苦笑する。


 ギルバートは首を振り、ある教室へ入る。

 単位の為だけに仕方なく取った魔術法総論の授業。既に法律の原文も、過去五十年分の主要な判例も暗記し理解している為、教科書をさらっているだけのこの授業をわざわざ学ぶ必要はない。


 だが、レティシアが取っていないこの授業に、今は感謝していた。

 やっと落ち着ける……

 そう思ったのも束の間、レティシアよりも、もっと会いたくない人間が隣に座った。他にも沢山席が空いているのに、何故わざわざここへ座るのだろう。

 目が合うと、そいつはわざとらしい笑みを浮かべた。



 授業が終わり、さっさと教室を出ようと片付け始めた時、隣のある物が視界に入り固まる。

 ……コレット・ベリンガムは、自分の視線に気付くと、それをよく見える様に掲げながら言った。


「ユリナが作ってくれたんだ。素晴らしい刺繍だろう。判例集に丁度良い大きさだよ」


 始終浮かんでいる笑みが癇に障る。このままここに居たら……

 席を立とうとするが、更に追い打ちをかけてくる。


「今月の成人の儀で着けるタイも、彼女が作ってくれる予定でね。楽しみだな」

「……だから? 興味ない」


 いかにも彼らしい冷めた反応の中で、血管の浮き出ている熱い拳を、コレットは見逃さない。


「そうそう、一応元許嫁には報告しておくけど、僕らは正式な許嫁になったんだ。……興味ないかもしれないけど」


 明らかに顔色を変化させたギルバートが、聞き取れない程低い声で呟いた。


「……愛していないんだろ?」

「え?」

「ユリナのこと、愛していないんだろ?」

「……ユリナがそう言ったのか? 僕が、彼女を愛していないって?」

「政略結婚なんだろ」


 突如声を上げて笑い始めるコレットに、ギルバートは顔をしかめる。


「ごめんごめん……いや、そうかユリナが……。なら作戦成功だな。僕の演技力もなかなかだ」

「演技?」


 ギルバートの顔が一層険しくなる。


「君は子供の頃から傍に居るのに、何も彼女のことが分かっていないんだね。彼女はさ……もし魔力が抑えきれない時は、自分の目を傷付けて欲しいとまで言う子だよ。それが結婚の条件だって」


「まさか……お前!」


 ギルバートがコレットの胸ぐらを掴む。


「もちろん承諾したよ。だってそうしないと、彼女は結婚してくれないからね」


 すっかり笑みを消し去ったコレットは、胸元の手を払い除ける。


「自分をお荷物だとか不利益だとかも言っていたな。そんな子が、愛だの恋だので結婚する訳ないんだよ。それにしても……君がそんなに感情を露にする人間だとは、驚いた」


 黙り込むギルバートを横目に、コレットは荷物をまとめ立ち上がる。そして、自分に念を押す様に言った。


「うん、そうだよ。僕は彼女を愛していない。無事に結婚するまでは、そういうことにしておいてくれ」


 そのままドアへ向かう。



「……抑えられるのか?」


 いつの間にか二人きりになっていた教室に、ギルバートの声が響く。

 コレットの背中がピタリと止まった。


「彼女の魔力が暴走した時……完全に封印が解けた時。お前に抑えられるのか? 成人を迎える頃には、魔力はもっと強くなるぞ」


 コレットはゆっくり振り向くと、地を這う様な低い声で言った。


「そんなこと、君にも分からないだろう。彼女の魔力は未知数だ」

「俺には自信がある。彼女に必要なのは、同じ地の魔力でも、揺らす方ではなく鎮める方だ。……本当は分かっているんだろ? お前では力不足だと」


 しばしの沈黙の後、コレットはにっこりと笑う。


「たとえそうだとしても、ベリンガム家が守るさ。同じ公爵家でも、家の方が遥かに格上だからね」


 ドアを開け、再びギルバートを振り返る。


「ユリナはもう僕の許嫁だから。……あと数日で、婚約届だって出せる。いち国民として、今後は“皇女様”と丁寧に呼んで欲しい」


 笑顔とは反対に、その琥珀色の瞳は少しも笑っていなかった。


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