第30話 ~本当は泣きたかった~
夫婦の呼吸だけが響く静かな寝室。
優しく撫でる夫の指に呼応するかのように、白い瞼がピクリと動く。期待を込めて見守る中、それはゆっくりと開き、澄んだ黒い瞳が覗いた。
「シェリナ!」
オーレンの掠れた叫び声に、シェリナは顔を向ける。
「分かるか? 私が分かるか?」
「……レン」
はあっと大きく息を吐き、握っていたシェリナの手に顔を寄せる。
「ここは……?」
「家だよ。苦しくないか? 今医師を……」
立ち上がろうとする夫を
「公務…………しき……式典!」
慌てて起き上がろうとして、胸をぐっと苦し気に押さえる。
「シェリナ!」
オーレンが咄嗟に抱き止め、再び背中をベッドへ戻す。
起きるなと厳しい顔で叱るも、シェリナは何か別のことをぼんやりと考えている。水を飲み、やがて息が整うと、静かに口を開いた。
「式典はどうなったの?」
「無事に終わったよ」
「途中から……よく覚えていないの」
「終わって会場を出た所で倒れたんだ。ずっと我慢していたのか?」
「少し苦しいなって……そうしたら段々上手く呼吸が出来なくなったの」
「……気付かなくて済まなかった」
「私こそ……迷惑をかけてしまって。会食は? まだ色々予定があったわよね?」
「主要な式典は終わったから大丈夫だ」
オーレンはシェリナの頬を優しく撫でる。
「……たとえ式典の途中でも、私は君を抱いて帰ったけどね」
「それは駄目よ」
咎める顔は、こんなに弱っていても皇太子妃のもので……オーレンはやるせなさに首を振った。
「私は君や子供達以上に、大切なものなんて何もないんだよ」
ああ……また……彼の藍色の瞳が揺れている。
「ごめんなさい、レン。沢山心配をかけてしまったのね」
「……君の悪い癖だ。胸の異変はいつから? 大分前からおかしかったんじゃないか?」
「いつからかしら……でもたまに少し苦しくなる位で、日常生活には全く問題がなかったの。ねえ、私、どこが悪いの?」
「……心臓が疲れているんだ」
「やっぱり……だから苦しかったのね」
シェリナは納得すると、
「シェリナ、私との約束を覚えているか?」
「ええ。貴方より先に命を落とさない……でしょ?」
「覚えているならいい。これからはどんな些細な異変もすぐに言え。約束出来ないなら、君を常に縛り付けて私の監視下に置く」
「それは……皇太子殿下の……ご命令ですか?」
彼は至って真面目な顔で頷く。
「分かったわ……約束します」
「必ず守れ」
「はい……でも、私ももう若くないから、縛り付けなくてもそんなに無茶しないわ」
「どうだか」
「長生きしたいもの……孫の顔も見たいし。美味しいものも沢山食べたいわ」
「食いしん坊は健在だな。それなら大丈夫だ」
オーレンは笑いながら、青い唇を指でつまんだ。
「……医師を呼んでくるよ」
ドアの外へ出ると、オーレンはそのまま床に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
一人になったシェリナは、何処か遠い世界を見上げる。
夢だったのだろうか────
こうして目覚める迄に、色々な人に会った。
亡き祖母と母。先帝陛下や、会ったことのないオーレンの両親にも。
ふと、手首の凍傷痕を見つめる。
……貴方には会えなかったわね。
何となく分かる。自分の心臓は良くない……
自分の命と引き換えに、神はユリナのことを守ってくれるのだろうか。
◇
「失礼致します」
ユリナは執務室へ入ると、オーレンへ向かい明るく微笑んだ。
「お母様とは話せたか?」
「はい。ゼリーケーキも少し召し上がっていただけました。今はお薬が効いてまたお休みになっています」
「そうか、それは良かった。ありがとうユリナ」
明日は何を作ろうかとはしゃぎ続ける娘に、オーレンは問い掛ける。
「ユリナ、私に何か話があったのではないか?」
不意に口をつぐみ、ユリナは真剣な顔でオーレンと向き合う。
「……お父様、ベリンガム家とのお話、正式にお受けしてもよろしいでしょうか?」
「ユリナ」
突然の申し出に、オーレンは目を見開く。
「合宿でコレット様と色々お話致しまして……心が決まりました」
「本当にいいのか?」
「はい。私には勿体ないお相手だと思います」
「……分かった。ベリンガム家に正式に申し入れよう」
「よろしくお願い致します」
何も見ず、考えず、ユリナは静かに頭を下げた。
執務室を出たユリナの足は、再び無意識に母の元へと向かっていた。
すやすやと眠る顔を見てほっとすると、ベッドサイドへ座る。
幼い頃から、悲しいことや悔しいことがあると、母に抱きついてわんわん泣いた。だけど……今はそれが出来ない。負担をかけてはいけない。
ただ下を向いて、母の手を握り続ける。
「ユリナ……」
いつの間にか母が目を覚ましていた。
「ユリナ、本当は泣きたいんでしょう? 我慢しなくていいのよ」
「お母様……」
どうして? どうして分かってしまうの?
そんな心の問いに答える様に、シェリナは微笑んだ。
「あなたは悲しい時、どんなに笑っていても、
ああ……もう…………
ユリナは
「ギル様とっ……ちゃんと……お別れしたの。愛しているのにっ……愛してっ……愛していないって言った。そしたら……ギル様もっ……私をっ……愛していないって」
しゃくり上げながら話す娘の手を、シェリナは頷きながら優しく撫でる。
「分かってたっ……のに……悲しかったっ……これで……いいのにっ……辛い」
ユリナは母のベッドに突っ伏し、身体を震わせ続けた。丸い銀髪をとんとんと優しく叩きながら、シェリナは子守唄を歌う。
暫くして部屋に入ったオーレンが見たのは、涙の痕を残したまま眠る
◇◇◇
それから一週間。
護符の効果でシェリナの体調は次第に安定し、ベッドから起きて日常生活を送れるまでに回復していた。
縛り付けはしないものの、オーレンは外出時以外は片時もシェリナの傍を離れず、政務もシェリナの部屋でこなしていた。
頻繁に手を伸ばして、その存在を確かめずにはいられない。恐怖と戦う日々は未だに続いていた。
そんなある日、どこか沈んでいた屋敷に明るい声が響き渡った。
「お兄様!」
「やあ、ユリナ。ただいま」
「カイレン殿下、おかえりなさいませ」
ユリナの兄、カイレン皇子が首都の宮殿から帰って来たのだ。久しぶりに家族四人が、シェリナの部屋に集まる。
「なんだ母上、思ったより全然お元気そうじゃないですか。半月分の政務を三日で終わらせて、飛んで帰ってきたんですからね」
「心配かけてごめんなさい、カイ」
「むしろ母上より父上が卒倒してしまうのではと、心配しましたよ。まだまだ未熟な僕を支えてもらわないと困りますからね。母上、父上の為にも、くれぐれもお身体はお大事に」
「はい。……どちらが大人か分からないわね」
四人は声を出して笑い合った。
「忙し過ぎてなかなか里帰りも出来なかったので、丁度良かったですよ。あっ、これは母上に」
大きな瓶の中には、色とりどりの鮮やかな丸い粒が入っている。それはカイレンが氷の凝固魔術で作った、花の蜜のキャンディだ。
「首都にしか咲かない花で作りました。急いで作ったので、味の保証は致しませんが」
「まあ、怖い」
笑いながらシェリナは瓶を抱き締める。
「どうもありがとう。大事に頂くわ」
「ユリナにも土産を用意したよ。時間がなくて侍女に頼んだから、何が入ってるか僕も知らないんだ。多分首都で若い子達に流行っているものだと思うよ。沢山あるから、後でモニカと仲良く分けなさい」
「ありがとうございます、お兄様。楽しみだな」
「私にはないのか? カイレン」
「父上には……私のハグでは駄目でしょうか?」
カイレンは長い腕を広げて目を瞑る。
「いや……遠慮しておこう」
家族は再び笑い合った。
「四人揃うと、やっぱり楽しいですね。お兄様、いつまでこちらへ居られるのですか?」
「二週間は居られるよ。皇帝陛下がご配慮くださってね」
「わあっ! 嬉しい!」
喜びのあまり、今にも飛び跳ねそうなユリナを、三人は愛しげに見つめていた。
その夜、父と息子は執務室のソファーでグラスを傾け合う。
「やはり陛下から賜ったワインは極上ですね、父上」
「ああ……」
ぐいと一気に口に含むと、オーレンは息子の水色の瞳を見て言った。
「帰って来てくれてありがとう、カイレン。大変だっただろう」
「いいえ、まだ若いですから。僕がこちらへ居る間は何なりと。どうぞ父上は、母上の傍へ付いていて差し上げてください」
本当に……どちらが大人か分からないな。
子供の成長に、オーレンは目を細めた。
「……先日、ベリンガム家の公爵夫妻にお会いしました」
ふと呟かれたカイレンの言葉に、オーレンが身を乗り出す。
「どうだった?」
「明るく優しそうなご夫妻でした。皇室への忠誠心は何より強く、ユリナを大切にしてくれると思います」
「そうか……」
オーレンはほっとし、ソファーの背に凭れる。
「父上、ユリナは何と?」
「正式に返事をして欲しいと言ってきた」
「そうですか……」
父のどこか辛そうな顔を見て、カイレンは空のグラスにワインを注いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます