第28話 ~真っ直ぐ過ぎた~
「母上……?」
「これは、ユリナ様が一針一針お気持ちを込められたものです。粗末にすることは許しません」
「一針一針……? これは全てユリナ様が刺繍なさったのですか?」
母は呆れたように首を振る。
「貴方は……そんなことも知らなかったのですか」
「あまりにも精巧だったので、既製品かと思っていました」
「お小さい頃から刺繍を学ばれていたそうですから……本当に素晴らしいですね」
「既製品で構わないのに……何故愛してもいないのに、そんな面倒なことを?」
「……愛していない? ユリナ様がそう仰ったの?」
「ええ」
「そうですか……」
母は机の椅子にふらりと腰掛けると、ブックカバーの刺繍を愛しげになぞった。
自分がランネ学園の中等部に入学し寮に入ってからは、ユリナがこの屋敷に来ることは殆どなくなっていた。
毎年この長期休暇中だけは、ユリナがこちらへ来て一週間程滞在することになっており、母はそれを心待ちにしていた。
だが、許嫁を解消した今年はもうユリナが来ることはない。心なしか、この数ヶ月で母の顔が
「母上、皇女様は強力な回復魔力をお持ちだったのですね」
「……どこでそれを?」
「合宿で知りました。皇女様が魔力を使われ、手が動かなくなったので、私の魔力で抑えました」
母は勢いよく立ち上がる。
「それで!? ユリナ様はご無事なの?」
「はい。元通りになられました」
ほうっと胸を撫で下ろし、再び椅子に座った。
「良かった……ありがとう、ギル」
「いえ……封印されていると聞きましたが、それ程迄に危険な魔力なのですか?」
「……皇太子妃殿下は、昔悪魔に取り込まれお命を落とされかけたそうです。悪魔は人を殺すことは出来ても蘇らせることは出来ませんからね。生へ執着する人間の欲望を満たす為、エメラルドの魔力を欲するのです」
ギルバートの背筋に冷たいものが走る。
「それで、万一力が暴走した時に、私の地の魔力が必要だったのですね」
「ええ」
「何故教えてくださらなかったのですか?」
「教えていたら貴方はどうしていましたか? ユリナ様が許嫁だと伝えた時、貴方がどれ程反発したか。魔力の為などと言ったら、それこそ受け入れられなかったでしょう」
「……そうかもしれませんね」
確かに────
魔力の為に息子を犠牲にする気か、皇女がどうなろうと自分には関係ないと反発したに違いない。
「それに魔力のことは、両殿下がユリナ様ご本人にも秘密にしていらっしゃいましたから。気付かれたのはつい最近のようですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。もしかしたらユリナ様は……いえ、何でもありません」
母は再び刺繍に目を落とす。
「私達が貴方をユリナ様の許嫁にと考えたのは、魔力だけが理由ではありませんよ。ユリナ様に初めてお会いした時、この方だったら……と思ったのです。貴方は幼い頃から驚く程賢い子でしたが、その賢さ故に自分の世界に閉じ籠ってしまって。私もお父様も随分心配したのです」
それは初めて聞く両親の想い。ただ、好きな本が読めて学べれば周りはどうでもいいと思っていた。そのことが両親をそんなに心配させていたなんて。
「人は一人では生きていけませんから……ユリナ様の真っ直ぐで優しいご性質なら、貴方の殻を破ってくださるのではないかと。一緒に時を重ねる内に、いつかいつかと」
母の頬に涙が零れる。
「でも、ユリナ様は真っ直ぐ過ぎたのです。こうなることを、もっと早くに気付くべきでしたね」
「どういう意味ですか?」
布を手に立ち上がると、母は何も言わずにドアへ向かう。
「これは私が預かりますね」
再びしんと静まり返った室内。
あんなに母と喋ったのは初めてかもしれない。
開いたままの机の引き出しが目に入り閉めようとしたが、奥に皺くちゃの包みがもう一つあることに気付く。
それは一度も開けた形跡がなく、リボンも付いたままになっていた。
ああ、思い出した────
これは、15になった年。ユリナが許嫁だと告げられた年にもらった誕生日の贈り物だ。
彼女と会うのも嫌だった俺は、中を覗くこともせず、これ見よがしに乱暴に鞄に突っ込んだ。
……一番彼女に冷たく当たった年だった。
思えば、彼女がほとんど自分から喋らなくなったのは、この年からかもしれない。
リボンをほどき、包みを開けてみると、中には濃い灰色のブックカバーがあった。
この年からブックカバーは続いていたのか。ん? この模様は……一体何だ?
金糸と銀糸で刺繍されているそれを、色々な角度から眺めてやっと分かった。これは皇室と我がキャンベル家の紋章を合わせたものだ。
そうか、許嫁だと聞いたから……両家の縁を願って、この模様にしたのだろう。こんなに細かい刺繍を僅か13歳で。
キラキラと輝くそれを撫でれば、まだ温かい気がする。包み直しリボンをかけると、再び引き出しの中に大切にしまった。
胸が痛い……痛くて堪らない。
来月の誕生日には、18を迎える。許嫁を解消していなかったら、彼女は何をくれるつもりだったのだろう。
◇◇◇
合宿から戻ったユリナは、屋敷の様子に何やら違和感を覚える。
普段なら馬車の音を聞いた使用人が出迎えに来るが、それがない。門には数台の馬車が放置され、屋敷内もバタバタと騒々しい。
広間を走り抜けるユニが、帰って来たユリナに気付き、慌てて頭を下げる。
「ユリナ様! 申し訳ございません、お出迎えもせずに」
「ううん、いいの。それより何かあったの?」
「殿下方がご公務先から急遽お戻りになりまして……」
「何かあったの?」
「シェリナ様がお倒れになられたのです」
「お母様が!?」
寝室に飛び込むと、オーレンがベッドの横に座り、眠るシェリナの手を握っていた。
「お母様!!」
「ユリナ、おかえり」
優しく微笑む顔はいつもの父だが、藍色の瞳だけは頼りなく、どこかを彷徨っている様に見えた。
「お母様のご容態は?」
「ああ、心配いらないよ。少し疲れが出ただけみたいだ」
「そうですか……」
覗いた母の顔は今まで見た中で一番白く、得体の知れぬ不安が押し寄せた。
オーレンは執務室に入ると、よろよろと机に座る。
『黒魔術の後遺症です』
言いにくそうに頭を下げた、医師の残酷な言葉を思い出した。
『心臓に大きな負担がかかった為だと思われます。何回か黒魔術を浄化されたことと、お命を取られかけたことが原因でしょう。後遺症に関しては、回復魔力では治療することが出来ませんので……どうかご無理をなさらず、心穏やかにお過ごし下さい』
後遺症?
今更?
あんなに苦しんだのに、また苦しめるのか……!
震えるオーレンに更に追い討ちをかける様に、非情なノックの音が響く。
「皇太子殿下、合宿場での皇女様について、兵からご報告がございます」
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