第17話 ~夢だったのかしら~

 

 ギルバートは寮に戻り部屋に入ると、ドアを背にズルズルと座り込んだ。


 手の甲で触れた唇は、まだじんじんと火照っている。

 何故あんなことをしてしまったのだろう……



『笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しくなったり……心が忙しくなるの。時には激しく憎んだり』



 そう、どれだけ考えても理由などない。

 初めて会った幼い日、大きな黒い瞳を輝かせて話し掛けられたあの時から。

 うるさくてざわざわして、本を読むのに邪魔だったあの煩わしい気持ちはきっと……


 もっと早く気付いていたら、

 もっと君に向き合えていたなら、

 君は俺を愛してくれていただろうか?

 もう全てが遅い……



 ◇


 高い天井を見上げながら、ユリナはぼんやりと母の言葉を思い出す。



『ギルがあなたを抱いて、屋敷ここまで連れて来てくれたのよ。お父様に呼ばれるまで、ずっとあなたの手を握っていたの』



 ギル様が……


 ユリナは寝返りを打ち考える。

 昼間は何故、あんな酷いことを私に言ったのだろう?

 ギル様はいつも他人に無関心で、面倒な会話を好まない筈なのに……

 ただ、彼の世界を邪魔しない様に、静かにしていれば良いと思っていた。だけど最近は、彼の方からこちらへ何かを伸ばしている様で。


 ……許嫁は解消されたの。

 もう考えても仕方のないことね。


 ユリナは唇にそっと指を当てる。

 あれは夢だったのかしら……


 まだ火照っている気がするそれに、爪をカリッと立ててみた。



 ◇◇◇


 一週間学校を休んだユリナは、医師の治療とシェリナやユニのケアを受け、すっかり体調を取り戻した。


 涼しい風が吹く夕方、ユリナは屋敷の中庭に出ると、的に向かって手を構える。


「はっ!」

 手をシャープに振り下ろすと、鋭い風の矢が放たれ、的に刺さる。

 ……が、その跡は僅かに中心を逸れており、がくりと肩を落とす。


 相変わらず命中率が低いな……お父様やお兄様は百発百中なのに。

 再び手を構えようとした時、


「ユリナ」


 大好きな声に振り返ると、オーレンが少し怒った顔で立っていた。


「お父様!」

「こら、まだ病み上がりだろ」

「もう大丈夫です。お昼ご飯もおやつもたっぷり頂きましたし、元気過ぎてじっとしていられないくらい」


 オーレンは仕方ないなという風に、ユリナの頭をぽんぽんと叩く。


「的当てをしていたのか?」

「はい。いざと言う時、自分の身は自分で守れる様に鍛えたいのです。私には幸い、お父様から譲り受けた、風の魔力がありますので……」

「……そうか」


 オーレンは悲しい顔で娘を見ると、よし、と言いながら腕まくりをする。


「私も付き合おう」

「わあ、久しぶりですね!」


 幼い頃はよく父や兄と的当てで遊んだものだが、兄が成人し首都で皇帝陛下の補佐をする様になってからはご無沙汰になっていた。

 三人で汗を流しながら笑い合い、振り返ると母がおやつを用意しながら、優しい眼差しでこちらを見ている。

 ユリナの大好きな時間だった。


 オーレンは的に向かい手を構えると、ユリナと同様、シャープに手を振り下ろす。


 ダン!


 鋭い音と共に、その跡はブレることなく的のど真ん中を捉えている。

 ユリナは感嘆のため息を吐いた。


「流石です……お父様。よしっ私も!」

 何度か挑戦するも、なかなか中心を捉えられない。


「やっぱり威力が違うからかな……」

「威力が違うならコントロールすればいい。そうだな、ユリナの軌道の方が丸く柔らかいから……少し右上、この辺りから狙うイメージで」


 オーレンが後ろからユリナの腕を持ち、調整する。


「はっ!」

 再度ユリナから放たれた矢は、先程より遥かに中心に近付いた。


「あっ……! やったあ! やりました!」

「うん、この感覚を忘れずに練習すれば、中心を捉えられると思うよ」

「はい! ありがとうございます! よーし、今度お兄様が帰っていらしたら、また三人で勝負しましょ。絶対に負けないんだから」

「ふっ……昔から君は負けず嫌いだったな」


 オーレンは、的に当たらずわんわんと泣きじゃくる、幼い娘を思い出し笑った。



 練習を続ける娘をベンチに座り眺めていたが、何度目かの矢が中心を捉えたタイミングで、オーレンは口を開いた。


「ベリンガム家の子息と会っているのか?」


 ユリナの手が止まる。


「ご存知だったのですか?」

「ああ。お祖母様の親戚なのに、何故教えてくれなかったんだ?」

「それは……」


 ユリナは言い淀んだ後、ぽつりぽつりと話し出した。


「一緒に勉強してるって言ったら、何で? ってなって……難しいからって言ったら、何で? ってなって……ワイアット先生の授業だからって言ったら、何で一年生なのに? ってなって……そしたら……」


 徐々に小声になる娘に、オーレンは首を傾げる。


「ギル様と同じ授業を取りたかったから……って、バレてしまうと思って。恥ずかしかったんです」


 そのままユリナは赤い顔で、切なげに俯いた。


 オーレンの瞼に幼いユリナが浮かぶ。



『お父様……この本を教えてくれませんか? 難しくてよく解らないの』

『これはユリナにはちょっと難しいんじゃないか?』

『でも……どうしてもこれを読みたいのです』



 俯いた赤い顔……

 そうか……あの時もそうだったのか。



 オーレンはユリナの元へ近付くと、肩に手を掛け顔を覗き込む。


「ベリンガム家の子息は……コレットは優しい男か?」

「はい。とても優しいです」

「そうか……」


 ギルバートの話をする時とは全く違う娘の表情に、オーレンの胸が痛んだ。





 その晩、オーレンは執務室で一通の手紙を書き終えると、シェリナの顔を見た。


「シェリナ……私は嫌な父親か? 娘の気持ちなど後回しで……」


 シェリナは力なく首を振る。


「どうしても、ユリナを一人になどしたくない。あの子を守りたいんだ」


「……私があの子の魔力を全て引き受けられたらいいのに。私が悪いのに、いつも私には何も出来ない……自分が憎い。憎くて堪らない」


 オーレンは肩を震わすシェリナを抱き締めた。


「君は悪くない。あんなに可愛い娘を産んでくれたことを、心から感謝しているよ」


 華奢な背中をトントンと優しく叩く。

「大丈夫、シェリナ。大丈夫だから……」

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