第16話 ~甘い波~
「ユリナ……ユリナ!」
その身体はギルバートの腕にぐったりと倒れ、呼び掛けても返事がない。
彼の鼓動は速くなり、身体中を冷たい汗が流れる。
「皇女様!」
駆け寄り伸ばされた兵士の手を、ギルバートは払いのける。
「誰も……誰も触るな!」
鋭く睨みつけると、ユリナの頬を触り状況を確認していく。
熱いな……
火照った顔は、苦しそうに呼吸をしている。
ギルバートはハンカチを取り出すと、向こうのテーブルに座ったままのレティシアに放り投げた。
「凍らせろ」
「……え?」
「お前らも、布があったら全部出せ」
兵やトミーら周りの生徒から集められたハンカチやタオルを、次々レティシアに投げていく。
「早くしろ!」
レティシアは渋々それらに手をかざし、氷の魔力で凍らせていく。兵がそれをギルバートに手渡すと、引ったくるように受け取り、ユリナの脇や首の後ろを手早く冷やしていく。
「残りの布も全部持って来い。あとその野菜も」
ギルバートは兵にそう言うと、ユリナをそのまま抱き上げる。
「こちらへ」
兵の誘導で皇室の馬車へと向かう背中を、レティシアは見えなくなるまで睨みつけていた。
屋敷へ向かう馬車の中、ギルバートはずっとユリナを横抱きに抱えたまま冷やし続けていた。
次第に呼吸が穏やかになっていくのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
本当に小さいな……小さくて、軽くて、柔らかくて、温かい。ずっと遠かった彼女が、今はこうして自分の腕の中に居る。
何とも言えない気持ちが、甘い波の様に広がり、押し寄せては溢れ、溢れては押し寄せ……次第に胸が苦しくなる。
何故彼女と一緒だと、穏やかでは居られないのだろう? ……好きな本すらも読めなくなる程、自分が自分ではなくなってしまう。
短い銀髪を撫でながら自分に問いかけるも、やはり答えは見つからない。
水筒の水で乾いた唇をそっと濡らしてやると、幼子の様にもぐもぐと動く。
また……甘い波がどっと押し寄せる。
微笑んでいる自分に気付かないまま、ギルバートは自分の唇を彼女へと重ね合わせていた。
◇
「う……」
目を開けると、母が心配そうに覗いている。
「ユリナ、大丈夫?」
「私……」
「あなた倒れたのよ。熱中症と疲労と、栄養不足からくる貧血……まあ色々ですって」
シェリナは冷たいタオルでユリナの顔を拭きながら、少し厳しい声で言った。
「暫く夜中のお勉強はお休み。あなた、ほとんど寝ていなかったでしょう?」
「うん……」
「
「はい」
シェリナは娘の頬を優しく撫でると微笑んだ。
「今日は頂いたトマトで、あなたの好きなサラダを作りましょう。あっ、トマトリゾットもいいわね」
「トマト……野菜」
ユリナははっとする。
「ギル様は!?」
執務机の前には、ギルバートが緊張した面持ちで立っていた。
座ったまま自分を見上げるオーレン皇太子の顔は、恐ろしい程無表情で、その藍色の瞳は限りなく冷たい。
暫く無言で視線を交わした後、オーレンは口を開く。
「……兵から全て話は聞いた」
そこまで言うと、突如美しい顔を歪めてくっと笑う。
「私も君にひれ伏さないといけないな。何しろ半分平民なのだから」
その顔は、ギルバートが今まで見たどんなものよりも恐ろしい。背中を冷たい汗が伝った。
「……申し訳ありませんでした」
「別に構わない。むしろ君の本性を知ることが出来て良かったと思っている。あの学園に通いながら、何も学んでいない愚かさを」
オーレンは引き出しから一通の書類を取り出し机に置いた。
「今日公爵から届いた正式な許嫁解消の書類だ。これで君とユリナは何の関係もなくなる。……身分の低い皇女と結婚せずに済んで良かったな。ずっとそう願っていたんだろう」
「そのような……!」
「こちらも君の様な男と縁を結ばず済んで良かったよ。……大切なユリナに、君は相応しくない」
ギルバートは何も言い返せずに下を向く。
「二度とユリナに近付くな」
放心状態のまま廊下へ出ると、そこにはシェリナ皇太子妃が立っていた。
ユリナとよく似たあどけない顔で、にこりと微笑む。
「ギル、ユリナを連れて来てくれてどうもありがとう」
「いえ……私のせいですから」
「玄関までお見送りするわ」
暫く黙ったまま、二人は夕陽が差す廊下を歩く。
ギルバートは突如歩を止めると、長い影を伸ばすシェリナに問い掛けた。
「想い合うとは……愛とは……どのようなものでしょうか? 今まであれ程の本を読んできたのに、私にはよく解らないのです」
シェリナは一瞬きょとんとした後、優しい笑みを浮かべた。
「私も未だによく解らないけど……色々な自分に出会うことかしら」
「色々な……」
「笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しくなったり……心が忙しくなるの。時には激しく憎んだり。だから、あんまり綺麗なものじゃないわね、きっと」
ギルバートは胸をぐっと押さえた。
「怖いかもしれないけれど……真っ直ぐ自分の心と向き合って。後悔しない道を選んで欲しい」
そこまで言うと、シェリナは哀しげに顔を歪めた。
「私は昔、自分の心を偽り続けた為に、一人の
再びにこりと微笑むと、ギルバートの手を取って言った。
「私は貴方のことも、息子の様に想っているのよ。どうか、幸せになってね」
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