第12話 ~最後の第三土曜日~
クローゼットから一着の服を取り出す。自分の瞳と同じ、地味な黒色のドレス。
今日はチークもリップも要らない。私を形成する中で唯一派手な銀髪は、目立たない様に一つに束ねる。
出来るだけ、貴方の心から……何事もなかった様に消え去りたい。
最初から貴方の心には、私など少しも居ないのかもしれないけれど。
重い雨粒がバラバラと落ち、窓を激しく打ちつける。
約束の第三土曜日……
『安物を安易に身に着ける様な、品のない女性は嫌いです』
あんな別れ方をして……しかもこんな天気の中、彼は来てくれるのだろうか?
もし今日来てくれなかったら……こんな気持ちであと一ヶ月も待たなくてはならない。
私の不安を余所に、雨を弾く蹄の音が聞こえてきた。
ああ、来てしまった。
さっきまでは来て欲しいと願っていたのに……
本当に、今日で最後にしなければならない。
◇
傘の下、ぽつんと立つ小さな影が、馬車の窓に淡く映る。
扉を開け降りようとすると、先程まで影だったものが懸命に腕を伸ばし、自分の頭上へ傘を差し出した。
「……傘なら持っていますよ」
「あ……ごめんなさい」
すっと傘を引っ込める。
こんな大雨の中……わざわざ出迎えに来ずに、濡れない所で大人しく待っていればいいものを。
屋敷へ入ると、彼女の肩や銀髪が雨に濡れて光っているのに気付き、思わず顔をしかめる。
「ギル様、お使いください」
差し出されたタオルをそのまま彼女に突き返す。
「要りません。貴女がお使いください」
「あ……」
そこで彼女は、初めて自分が濡れているのに気付いたのだろう。
「申し訳ありません」
目を伏せて一言謝り、さっと拭くと前を歩き始めた。
彼女はこんなに小さかっただろうか。後ろ姿を見て思う。小柄であることは認識していたが……あまりに儚く、消えてしまいそうに見えた。
先日は何故あんなことを言ってしまったのだろう。
たまたま自分が買った物と、同じ物を着けていただけじゃないか。あの男からもらったと聞いて……気に入っていると聞いて……それを身に着けているのが腹立たしく、許せなかった。
何度も考えたが、結局その答えは見つからず、気まずいまま今日を迎えてしまった。
◇
部屋に入ると彼は、いつもの椅子に座り、いつもの様に持参した本を開いた。
いつもと変わらぬ姿に、ほっとする。
私は温かいお茶を淹れて彼の傍に置くと、いつも通り離れた揺り椅子に座った。
今日は何もしないで……ただ貴方を見ていたい。
◇
ふと視線に気付くと、彼女が微笑みながらこちらを見ている。
「……見られていると、本に集中出来ません」
「ごめんなさい」
彼女は静かに目を伏せる。
皇女のくせに……謝ってばかりだな。
「今日は勉強はしないんですか?」
「はい。少し疲れてしまって」
そういえば、透ける程に顔が青白い。
「……私も、本を読みますね」
そう言うと本棚に向かい、一番上の段に背伸びして手を伸ばした。
……仕方ない、取ってやるか。
そう思い立ち上がった時、眩暈を起こしたのか、小さな身体がふらりと揺れた。
「危ない!」
咄嗟に支える。
……細い。細過ぎる。その華奢な造りに驚き、言葉を失った。
「すみません……少し目が眩んだだけです」
「どれを取るんですか?」
何故か怒った口調になってしまう。
「あ……あの、一番上の青い背表紙の本を」
それらしき本を手に取ると、彼女の身体を支えたままソファーに座らせた。
「ありがとうございます」
自分もその隣に座り、青い本を手渡すと尋ねる。
「……どんな本を読んでいるんですか?」
「詩集です。私はこういう本や小説が大好きで……皇女でなければ、本当は勉強などせずにずっと読んでいたいくらいです」
「……贅沢ですね」
「本当に……何不自由なく学ばせてもらえて、有難いことなのに。皇女失格ですね」
彼女は眉を下げて少し笑うと、本を開きそちらへ視線を移した。
こうして改めて見ても……
銀髪と華奢な身体と、大きな瞳と長い睫毛と白い顔以外は、極々……極々平凡な少女。
これが自分の許嫁か……
ふと、銀髪にまだ雨粒が残っているのに気付き顔をしかめる。
全く……皇女のくせに雑だな。
ポケットからハンカチを取り出し、そっと拭いてやる。すると彼女は驚いた様に目を丸くし、悲しげに歪めた顔を背けて立ち上がった。
「お腹が空いてしまって……おやつを取ってきますね」
そう言うと、パタパタと部屋の外に出て行く。
薄いハンカチ越しに、まだ柔らかい髪の感触が残っている気がした。
しばらく経つと、トレーを手に彼女が戻って来る。
湯気の立つ新しいカップに口を付け、横の小さなケーキを一匙掬う。……悪くない味だ。
「それ……私が作ったんです」
皇女が料理をするのか? 思わず顔を上げる。
「今までも何度か、作ったものを勝手にお出ししてしまいました……すみません」
本当によく謝るな。
「別に……甘くないので食べられます。問題ないでしょう」
そう言うと、彼女はふんわりと笑う。
ひだまりみたいなこの顔……そうだ。
幼い頃から何度も向けられたこの顔。
胸がざわざわして、くすぐったくて、落ち着かなくなる。本に集中出来なくなる、何やら煩わしい感情……だと思っていた。
だけど、もしかしたら、そんなに悪いものではないかもしれない。
「……貴女は召し上がらないのですか?」
「え……」
「お腹……空いていたのでは?」
「あ……はい。そうでした。いただきます」
彼女は綺麗な所作で手を合わせると、フォークを口に運ぶ。
「美味しいです……とても」
その笑顔に、自然とこちらも笑みが溢れる。
◇
彼が……私を見て笑ってくれる。
どうして……? どうして今日はこんなに優しいの?
言えなくなってしまう……今……今、言わないと……
溢れそうな涙と共にケーキを飲み込むと、フォークを置き、彼を真っ直ぐ見つめる。
「ギルバート様……お話ししたいことがあります」
突然改まった私に、彼は怪訝な顔でこちらを見る。
「何でしょうか?」
「私と許嫁を解消して下さい」
◇
…………は?
思考回路が停止する。
いつも忙しなく動いている思考回路がピタリと。
……頭が真っ白になるという感覚はこういうことだろうか。
「どういうことですか?」
「私と許嫁を解消して頂きたいのです」
「……正当な理由は? 私達のことは、皇帝陛下もお認めになっているのですよ?」
「その通りです……ただ、私達は正式な許嫁ではありません」
「どういうことですか?」
「私達は、仮の許嫁なのです。双方の意に沿わなければ、婚約はしなくても良いことになっております。……ご存知ではありませんでしたか?」
「そんなこと……そんなこと聞いていない!」
冷静に……そう思う気持ちとは反対に、つい声が荒立つ。
「ギルバート様のご両親もご存知の筈です。双方の家の約束でしたから」
「何故……何故ですか? それが本当だとして、何故今さら?」
「……私達の未来が見えなかったからです。今までも……これからも。このまま傍に居ても、きっと互いを想い合うことはないでしょう。ギルバート様は今年で成人になられます。他の方と良いご縁があることを、心よりお祈り致します」
「……勝手ですね。幼い頃から自分の世界を滅茶苦茶にされて……月一回のこの時間が苦痛以外の何物でもなくて……それでも耐えて……許嫁だと思って耐えてきたのに」
「貴重なお時間を奪ってしまい、申し訳ありませんでした。今までこうして欠かすことなく約束を果たして下さったこと、心より感謝しております」
彼女は深く頭を下げる。皇女のくせに……
「私は約束のことを何も知りませんでしたので、一方的に言われても了承し兼ねます。……先ずは両親に事実確認を致します」
そう言うと立ち上がり、部屋を飛び出した。
傘も差さずに馬車に飛び乗り、両親の住む実家の屋敷へ向かわせる。急いでも片道二日。明後日の授業に間に合わなくなるとか、そんなことは何も考えられなかった。ただ、早く早くと心が急かす。
何故、何に対してこんなに焦っているのか分からない。
彼女の話が事実なら……許嫁が解消されたら……もう彼女と関わることはなくなる。
願っていたんじゃないのか? ずっと、ずっと……
揺れる車内で目を閉じれば、何故か、哀しく揺らぐ彼女の黒い瞳が浮かんだ。
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