付きが無い人生

三鹿ショート

付きが無い人生

 人生において、恵まれていると思ったことは、一度も無い。

 昼間から酒を飲み、暴力を振るう私の父親に耐えながら、私の母親は寝る間も惜しまずに働き続けていたが、あまりの疲労のためか、私と父親を置いて逃げ出した。

 それから父親は標的を母親から子どもに変えたために、親戚に引き取られるまで私の肉体は傷つけられていたが、状況が好転したわけではない。

 引き取られた先の家では、満足な食事を与えられることはなく、わずかでも与えられたとしても、それは愛玩動物が使用しているものと同じ皿に盛り付けられていた。

 その家の父親には毎晩のように身体を求められ、その家の子どもには玩具のような扱いを受けていたことを思えば、実の父親に暴力を振るわれていた日々の方が良かったのかもしれない。

 学生という身分を失うと同時にその家を出ることが出来たのだが、それだけで私の不幸が終わることは無かった。

 勤務先では日付が変わったとしても間に合わないほどの仕事を押しつけられ、上司の失態も私の責任と化し、常に怒鳴られていたのである。

 それでも私が自らの意志でこの世を去ることを選ばなかった理由は、交際している女性が存在していたためだった。

 別段、好意を抱いているわけでもなかったが、相手から愛の告白をされたために、私は受け入れていた。

 自身から愛の告白をしてきたということは、私の立場が上であるということにもなるだろうと考えたのである。

 実際、恋人は私の機嫌を取ろうとする言動を繰り返していたために、おそらくこの時間が、私にとって初めて幸福を感じたときなのかもしれない。

 だが、それは間違いだった。

 私の恋人には、本命である男性が存在していたのである。

 その男性に捨てられたとき、恋人が存在していないという惨めさを感じないようにするために、恋人は私を確保していたということだった。

 つまり、それまでの時間は、全てが偽りだったということになる。

 私は、恋人を突き飛ばすと、その場から走り去った。


***


 その地域を歩いていると、少しは気分が晴れる。

 今日を生きることだけで精一杯というような人間たちが住んでいるからである。

 陽の光を浴びている人間たちに比べれば、私は弱い立場の人間なのだろうが、この地域で生きている人々に比べれば、私は恵まれているのだろう。

 そのようなことを考えるなど、性質の悪い人間だと自分でも理解しているが、私は彼らのために生きているわけではない。

 自分がどれだけ幸福と化すことができるのかを、考えなければならないのだ。


***


 珍しく日付が変わる前に会社を出ることができたために、自宅に向かっていると、とある家から怒鳴るような声が聞こえてきた。

 やがてその家から一人の少女が飛び出してきたが、前を向いていなかった彼女は、私とぶつかってしまった。

 目に涙を浮かべた彼女は私に対して謝罪の言葉を吐くと、そのまま何処かへと走って行った。

 しばらく彼女の背中を見つめていたが、やがて私は、彼女を追いかけることを決めた。

 たとえ日付が変わっていなかったとしても、彼女のような人間が一人で歩いては危険な時間である。

 他者に対して気を遣うなど、私にしては珍しいことだった。

 おそらくは、父親と思しき人間に怒鳴られていた彼女と自分を、重ねてしまったのだろう。

 だからこそ、救われることがなかった自分に手を差し伸べるような行為に及ぼうとしているのかもしれない。


***


 公園の長椅子に座って涙を流している彼女に、私は声をかけた。

 彼女は驚いたような表情を浮かべるが、相手が私だと分かると、再び謝罪の言葉を吐いた。

 隣に座ることの許可を得ると、私は彼女に事情を訊ねることにした。

 話すことを避けたければ話す必要は無いと告げたが、彼女は夜空を仰ぎながら私に語った。

 いわく、彼女には夢があった。

 しかし、両親にしてみれば、その夢を叶えるということは、不安定な未来を選ぶということになるために、心配だったらしい。

 互いが主張を繰り返していくうちに、段々と語調が激しくなってしまった結果、父親が怒鳴ったということだった。

 その話を聞いていた私は、落胆した。

 彼女は私と似ているわけではなく、それどころか、両親から心配をされるような恵まれた人生を送っているではないか。

 先ほどまで彼女に同情していた自分が、阿呆のように思えた。

 だが、彼女は私の気も知らずに、両親に対する不満を語っていく。

 恵まれた人間の愚痴ほど、私に怒りを抱かせることはなかった。

 気が付けば、私は物陰で、彼女を押し倒していた。

 彼女の意識は無く、ただの肉塊と化していた。

 とんでもないことをしでかしたと、私は頭を抱えた。

 しかし、不思議と気分が悪いわけではなかった。

 その理由を考えているうちに、私はようやく気が付いた。

 幸福な人生を送っている人間を嫌悪するのならば、その相手を排除することで、気分が良くなるばかりか、私は底辺からわずかに上昇することができる。

 つまり、私よりも恵まれている人間たちをこの世から排除していけば、必然的に私が最も幸福と化すのではないか。

 そのことに気が付くと、私は笑いが止まらなくなってしまった。

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