切なさと、悲しさと、愛しさと、優しさと

@ubazame

第1話

投げ捨てるように靴を脱いで、リビングに繋がる廊下を通る。

 視界の端に一瞬、母の靴と、男物の靴が見えたが、勢いを止められなかった。

「……は」

 思考が止まった。目の前で起きていることが理解できなくて呆然と立ち尽くす。

 母が、知らない男と、体を、重ねていた。

 それを理解した途端、頭の中が真っ白になって、胸の中が裏返った。

 叫び声を上げることも出来なくて、愛來は、家を飛び出し、全速力で走った。

 なんでなんでなんでなんで。あれは、本当に母さんなの? あれ、は、本当に母さんだったの? あの男は誰? 嫌だ。嫌だ。なんだよあれ。なんなんだよ!!

 頭に浮かんでくるあれを、必死に追い払って、あの家から逃げるように、とにかく、全力で走った。だが、パニックを起こしたせいで、うまく息が吸えず、幾ばくもせずに地面に倒れ込んだ。

 視界が歪んで白けてる。焦点が定まらない。息がうまく吸えない。苦しい。苦しい。駄目だ。過呼吸だ。苦しい。吸うんじゃない。吐け。駄目だ。出来ない。母さん。なんで。違う。考えるな。考えるな考えるな。だめだ。息が。頭が痛い。痛い。なんで。胸が。痛い。痛い。





 ……………嫌な夢を見てしまった。中学生の頃の。人生で最悪な出来事。

 ため息をついて、ひとつ頭をふる。顔を洗って気分を、かえ………よ、う?

 やっぱり自分は、寝ぼけているのかもしれない。でなきゃこの状況を説明できない。冷や汗が、ダラダラと額を滑り落ちる。

 汚れ1つないシルクのベッド。黒く長い睫毛に、櫛を通せば、滞りなく流れそうな美しい髪。陽光を背にしても分かる透けるような肌。

 愛來。齢15にして、初めて。隣に、瞼を閉じたイケてる面をした男が、寝ている。1つのベッドに。

「…………」

 駄目だ。理解が出来ない。なんでここにいるのか、何があったのか、まったく覚えてない。静かに寝ている男の横で頭を抱える。

 落ち着け、落ち着け。確か、昨日は夏祭りに行って、それで。

 思考が止まる。脳裏に、嘲笑うような顔をしたクラスメイトが浮かんだ。嫌な笑い声が、耳の奥で響く。そうだ。学校で、夏祭りに行こうって誘われて、高校のクラスメイトと夏祭りなんて初めてだから、嬉しくて、勢い込んで浴衣を買い、着て行ったら、笑われたんだ。元々一緒に回るつもりなんてなかったから、と言って去っていくクラスメイトを、私は、見送ることしか出来なかった。

 その後、やけ食いしようと頼んだたくさんのおでんを胃に掻き込んでいると、酔っ払った屋台のおっちゃんが、私の背中をバンバンと叩いた。

「いい食べっぷりだなぁ! ねえちゃん! ほら! これ奢りだよ!」

 そう言って渡されたのは、黄色い液体。

 あーーーーー。あれビールかぁ。泡が消えてたんで、ジュースかと思って飲んでしまったんだ。そもそも知らない人から貰ったもの飲むなよ。

 初めてのビールがぁ、と後悔をしていると、あることに気がついた。

 これって、未成年飲酒じゃね? 

 未成年飲酒禁止法。

 犯罪者。逮捕。高校生で飲酒。脳への影響。SNSで取り上げられ炎上。次回の夏祭りが開催されない。

 うん。やらかしたわ。

「ふふっ。朝から百面相?」

「どっひぇ」

 横から声。急なことに心臓が口からまろび出た。

「相変わらず面白いね。あこ」

 ニコニコと爽やかスマイルを撒き散らしながら滑らかな中音で発せされた言葉に、私は耳を疑った。誰?

 従兄弟も、再従兄弟もこんな顔じゃない。だとしたら友達? いや、いない。多分。そんなに友達も多くないから、思い出せないわけではないだろうし。だとすると、昨日の私が名前を教えたのか? どういう経緯で。なんで。

「誰ですか?」

 他にも聞きたいことを、ぐっと我慢して問う。最優先は私とこの人の関係だ。

 イケてる面の男は、傷ついたような顔をした。目を見開いて、驚いて一瞬開いた口を、きゅ、と閉じる。その、男の顔に何故か既視感が浮かんだ。確かに、よーくよーく見れば、どこかで見たような気がしなくもなくもない。

 それでも、思い浮かばない自分の脳に苛つきを覚え始める。あともう少し、あともう少しで掴めそうなんだ。記憶が、何かに引っかかって出てこない。

「あっくん! おしそみる作ったよ!」

 男が放った言葉と共に、流れ出す記憶。

 自分の家の隣に住んでいた男の子のあっくん。確か私が小学校にあがる前に引っ越してしまった。あっくんが小学校の人にいじめられてる姿を見て、あっくん共々砂をぶっかけて成敗してたっけ。

「あっくん! まさかあっくん!?」

 両手でイケてる面の男の頬を挟む。肉が持ち上げられてブサイクになってる顔を見て、確信した。

 手を離して呟く。

「あっくんだ……」

「おい失礼だろ」

 華麗なツッコミが入った。それもあっくんだと証明するものの1つだ。

「久しぶりだねぇ! あっくん。そんで何があったか説明してくれない?」

 ガッとまたあっくんの顔を挟む。その動きとは対象的ににこやかな私の顔に、あっくんは、え、と声をもらした。

 そりゃそうだろ。例え知ってる仲でも、なんでパンイチな男が隣で寝てるのかは気になるじゃん。

「あれ? 愛來知らなかったっけ。俺寝るときはパンイチ派なんだよね」

「ドン引きだし知るわけないだろ!! そうじゃなくて!」

「えっそのことを聞いたんじゃないの?」

「興味ねえわ!!」

 そう言うとまたしょんぼりしている犬の顔になるあっくん。幼馴染と分かった途端、イケメン攻撃が全く効かないわ。不思議。

「何があったのか知りたいの!!」

 ぼふぼふと布団を叩きながら言う。あっくんは、こいつは何を言ってるんだとでも言うような顔をして私を見た。

「何って、酔っ払った愛來を拾って、一緒に寝ただけ……」

 そこまで言ってあっくんは何かを思い出したかのように口に手を当てた。絵になるな。乙女か。

「愛來って何歳? 確か俺より5つ年下じゃなかったっけ」

 ダラダラと汗が流れる。ついさっきまで忘れていたことを思い出させないでくれ。そう、図星だよあっくん。私は。

「15」

 あっくんが固まる。信じられないような顔でこちらを見ている。目を見開いて、口に手を当てるポーズが、あっくんの驚きのポーズだということを図らずも知った。口に当てていた手を下ろして、また、数秒。言おうとしても、言っていいか分からず、迷っているような顔だ。そして、ついに、決心をしたらしい。あっくんがこちらを見る。

「それって、未成年飲酒じゃないの??」

 大当たり。とか、そうだよ。とも言えず、顔を無言で反らす。無言を肯定と見なしたのか、あっくんはへ〜、と嬉しそうに笑った。あ、この顔は覚えてる。あっくんが必ずいたずらをする時の顔だ。

「ちょっまっあの、黙っといてください! 誰にも言わないで!」

必死に言う私を、あっくんは頬杖を付きながらにやにやして見ている。涅槃像のポーズしてるんだから、心広くしろよ!! そう心の中で強気にツッコむが、正直かなり不安で。何がくるのかと身構える。だが、あっくんが言ったことはすごく普通なことだった。

「LINE交換しよ」

「え」

「別に、俺にとっては愛來が未成年飲酒していようが関係ないし、あんま興味もない。何より、俺は愛來に説教する立場じゃないから。お母さんでもあるまいし」

 よっこらせとようやく起き上がるあっくん。あくびをしながら立ち上がったその姿から顔を反らした。パンイチで歩くんじゃねぇ。仮にも私は高校生だわ。

「とりあえず朝飯食べよう。すぐ用意するからちょっと待ってて」

洗面所はそこ出てすぐ右などと言ってるあっくんを呆然と見る。あのあっくんが1人でご飯を作れるようになるなんて思いもしなかったのに。あっくんが、かなり知らない人になってしまってることに、多少の寂しさを感じた。

 でも、とりま服着て?


「おまたせー」

 そう言いながらご飯を運んでくるあっくん。コトンと、目の前に白米と味噌汁。目玉焼きとサラダが置かれる。普通に美味しそう。

「ほんとに料理出来たんだ」

「疑ってたのかよ。失礼だな」

 湯気が立っている白米を見て感動しながら呟くと、新聞紙でポコンと頭を叩かれた。

「あっくんはフォークで食べるの?」

 対面に置かれているご飯を見ながら問う。あっくんは座りながら、1人暮らしだから1セットしかないと答えた。なるほど。

「いただきます」

 湯気が立っている味噌汁をすする。麹味噌の、柔らかい甘さが口の中に広がった。

 じわりと目頭が熱くなる。鼻の奥がツーンとするのを感じて、慌てて顔を汁椀で隠した。

「美味しい?」

「……美味しい」

「インスタント」

「知ってる」

 それでも、美味しいのだ。だって人に朝ごはんを作ってもらったのがすごく久しぶりで。すごく懐かしくて。たったこれだけのことで泣いてしまいそうになる自分が恥ずかしくて。気にしないようにしていても、心は正直なのだ。そのことを自覚して自嘲気味に笑う。そうしないと、抑えていた叫びが溢れ出しそうだった。

「美味しいよ。ありがとう」

 にっこり笑う私を、あっくんが怪訝そうに見た。

「何かあったの?」

「なんでもないし、踏み込んだ質問はほいほいするべきじゃないわ」

 一回しかしてないんだけど、とあっくんが呟くが、無視をして、これ以上話すつもりがないという態度をとる。それでも、無遠慮に人の心に入っていくのがあっくんで。

「嘘だ。何かあったんでしょ。話してよ。じゃないと未成年飲酒のこと愛來のお母さんに言いつけるよ」

 そういう強引なところは変わりないのね。変わってほしかったわ。

「そんなこと言うなら、あっくんが女子高校生の前でパンイチで歩いたってあっくんのお母さんに言うから」

 こっちにだってネタはたくさんあんのよ。踏み込んでほしくないって言ってるの。

 そういう思いを込めてあっくんを睨みつけるが、その憤りは、一瞬にして消え去った。

 あっくんは、無表情だった。

「言いつけたいなら言ってもいいけど、無理だよ。だって俺のお母さんもう死んだから」

 胸に衝撃を受けたようだった。あっくんは何事もなかったかのように食事を続けている。

 死んだ? あっくんのお母さんが? もう、顔も覚えてないし、あんまり接点がなかったから、悲しみというよりかは、驚愕の方が大きいけど。でも、それよりも。

「……っなんで!? 何があったんだよ!!」

「母さんが闇金に手を出して、返せなくなったから逃亡したけど、そのままヤクザに捕まって、死んだ」

 違う。違う。私が聞いたのは、なんであっくんのお母さんが死んだのかじゃない。なんで、なんであんたが、そんなに寂しそうじゃないの? なんで普通そうにしてるの。なんでそうなってしまったの。

「俺は、もう母さんのことなんてどうでもいいんだ。だって死人にいつまでも思いを馳せていたって仕方がないだろ?」

 あっくんは笑った。眉を片方下げ、もう片方は歪に上げている。上がった口角は、引きつっていた。

 いやだ。そんな顔見たくない。そう言おうとして、はっと思いとどまる。

 そんなのは私の願いだ。自分が望んでる像を押し付けたって、あっくんのためにはならない。それでも。それでも、あっくんがなんでそんなふうになってしまったのかは、どうしても聞きたかった。

「疲れたんだよ。あの人のせいで、振り回されてきた。ずっと続く逃亡生活も、捕まってガキはいらねえって捨てられて、露頭に迷って!! 全部全部あの人のせいだ!!!」

 悲痛な叫び。心の底から、絶えず吹き出ているような、憤り。その勢いが、ずっと思いを、抑えていたことを物語っていた。

「…………無理に聞いて、ごめん」

 うつむいて、顔を見せないあっくん。その姿が、なぜかちっちゃい頃のあっくんと重なった。

「……母さんね、今、水商売してるんだ」

 ピクリと、あっくんが反応する。それを見ながら、さらに続けた。

「あっくんが引っ越して、しばらくして、父さんが死んだ。そこから、母さんは狂っちゃったのか、それともそうなることを望んでいたのか、分からないけど、父さんが死んでからすぐに、水商売を始めたんだ。今も、続いてる。だから。だから人が作ってくれた朝ごはんなんて久しぶりで……」

 ぐる、と喉が熱くなった。目頭が痛くなる。ぼやりと、視界の端が歪んだ。

「っごめんね……ッ。無理に聞いて。自分が嫌だって言ってたことなのにッ。あっくんが、自分みたいな顔をしてるのがッ嫌でっ」

 ボロっと涙が落ちるのを感じて、慌てて目を抑えた。

「えっと、えっとそれでッ。……ご、ご飯が美味しくて」

 もう自分が何を言っているか分からなかった。涙を止めようと必死になって抑えていると、突然笑い声が聞こえて、思わず目から手を離す。

「ふはっ。ははっ、なんだよそれ」

 あっくんが笑ってる。可笑しそうに、嬉しそうに。それを見て、つられて私も顔が綻んだ。何があっくんを笑わせたのか知らないけど、とにかくあっくんに自然な笑顔が戻ってきてよかった。

「とりあえず鼻水拭けよ。すげえ顔だぞ」

 差し出されたティッシュで鼻をかむ。先に言ってくれない? 恥ずかしいんだけど。

「愛來さ。寂しかったら俺の家いつでも来ていいからな。いつでも、朝ごはん食いに来ていいから」

 そう気まずそうに話すあっくん。

「よくそんな恥ずかしいことが言えるね。それ私があっくんの家に行ったら自分が寂しかったって言ってるようなものじゃん」

 確かに、と頷く。おい。

 今まで、独り立ちするまでの未来を意識しないようにしてたけど、今は、なんだか、少し、楽しみに感じた。


 それから、お願いされていたLINEを交換して、二人で、ゲームをして遊んだ。普段からゲームをやらない私は、あっくんにボロ負け続きだったが。ハンドルと共に体が傾いて、あっくんへ体当たりできたもんだから尚更楽しい。

 ゲームが終わったら、昼ごはんを食べにファミレスに行った。私の奢り。ゲームに負けたほうが奢りと決めていたのだ。あんな無謀な賭けをした過去の私を殴りたい。ムカついたから、あっくんが頼んだご飯を半分ずつ食べた。美味かった。

 あっくんは、近くの専門大学に通っているらしく、犯罪心理学を学んでいると話していた。私が、精神科医になりたくて、今勉強していると言うと、全力でからかってきたが、最後には、がんばれと一言言われて、ふんす、と意気込んだ。その隙きにデザートのアイスクリームを1口食べられた。許さない。

 さすがに着替えたくて、あっくんとはそのレストランで別れ、今私は帰路についている。あっくんの家は、私の隣町にあったらしく、意外と近くて驚いた。

 ようやく家が見えてきて、跳ねるような楽しさが少し収まる。でも、いつもよりかは気が重くなかった。

「え?」

 私の家は、一軒家で、駐車場がある。車も本当は持っているんだけど、母さんがほとんど毎日使っていて、家にない状態がいつもだった。つまり、車が家にあるっていうことは、母さんが、家に帰ってきていることを示す。

 自分の目を疑った。

 見覚えのある、小豆色の車が、停まっていた。

 体が、無意識に走り出す。胸が高まっていた。期待とともに。母さんが帰ってきてる。もしかしたら、色々話を聞いてくれるかもしれない。少しの時間かもだけど、一緒に話せたら。

 勢いよく扉を開ける。靴を脱ぐのももどかしく、放り出すように脱いで、リビングの扉を開けようとした。だが、先に開けられる。久しぶりに見た母さんの背丈は、私と同じくらいになっていた。

「母さ」

「どこに行ってたの!!」

 え、と口から声が漏れる。

「こんな昼に帰ってきて! 何してたの!」

 鋭い剣幕で怒鳴られて、ビクッと震える。怖くて、声が出せなかった。

「まさか、男のところに行ってたんじゃないでしょうね!? あなたまだ高校生でしょう!?」

 はっと我に変える。それと同時に怒りが湧き上がってきた。ケバケバしい母の化粧が、ひどく醜い、化け物のように見え、嫌悪感に襲われた。

「ふざけんな。ふざけんなふざけんなよ!! どの口が言ってんだ!!」

 高校生になったっていうこと、覚えていてくれたんだと、心の隅で思ったが無視をした。

「男といるって!? あんたこそ毎日遊びほうけてんじゃねぇか!! だからそんな言葉が出てくるんじゃねぇのか!? 娘の私もほっといて、そんなやつが親のふりなんかすんなよ!!」

 そこまで言い切って、ようやく息をつく。沸騰するほど胸が熱くて、こみあげてくる何かを、必死に抑えた。

「……違う。私は」

 ピンポーン。

 誰だ、こんな時に。そう思ったが、正直どうでもよかった。憤りが絶えず湧き上がって、いや、母の、言葉の次を聞きたかった。

 だが、母の顔は、貧血になるのではないかと思うほど青ざめ、心なしか、目の淵に涙が浮かんでるような気がした。

「どいて!! 隠れてなさい!」

 強く引っ張られて、リビングへ入る。ドンッと押されて、リビングの床に、無様に転んだ。

「出てきちゃ駄目よ。いい? 何があっても出てこないで!」

 小声で言われ、あまりの剣幕に、コクリと頷く。途端、母さんの顔が、ほんの少し、緩んだ気がした。

 ただ、そう思ったのは一瞬で、すぐに見えなくなったので、確かかどうか分からない。

 玄関から、母が高い猫撫で声で話すのが聞こえ、ガチャンと扉が閉まった。

 さっきまでの様子が嘘だったかのように、いつもと変わらないリビング。舞い上がったホコリが、うららかな昼の光に照らされ、チラチラと光った。

「……んだよ。結局男じゃねえか……」

 何が隠れてろだ。バレたくなかったんだろ、子供がいるって。

 そう考えた途端、腹の底から怒りが吹き出た。

「あんのクソ野郎!! 自分のことしか考えてねえやつが!! 一回死ね! 一回死ね!! クソ野郎!! クソ野郎!!!」

 視界が滲んで、世界が分からなくなった。子供みたいに、泣きわめいて、バタバタ暴れて。目を開けては、また泣いて、過呼吸気味になっても、誰も気にかけてくれなくて。

 苦しくて。苦しくて。叫んで、叫んで。息が切れて。

 残ったのは、やるせない悲しさだった。

 違う。あんなこと言いたかったんじゃない。母さんが、男と遊んでようが、どうでもいい。ただ、話したかっただけ。一緒に、いたかっただけ。親のふりでもいい。そう、親のふりでもいいんだ。側にいてほしいだけ。あんなこと言いたかったんじゃない。

 そもそもあいつが、急に怒鳴るから。違う、そうじゃない。ずっとその繰り返し。もう、涙はでなくて、喉の痛みが、じんわりとあった。

 母さんはあの時、何を言いたかったんだろう。すっかり暗くなった視界で、ぼんやりとそんなことを考える。どんなに想像しても、検討がつかなくて、そのまま、体を丸めるようにして眠った

 次の日、私は熱を出した。掛けられていたブランケットの端を持ちながら2階へ上がる。口の中がザラザラネチョネチョして気持ち悪かったが、倦怠感の方がひどかった。部屋に入るなり倒れ込むようにベッドに乗る。モゾモゾして定位置を探す。

 定位置に落ち着いて、ふぅと息をつくと同時に、また夢の中へ吸い込まれた。

 また、嫌な夢を見た。母さんに捨てられる夢。縋るように伸ばした手を、誰かが包んだ。

 歪んだ狭い視界に、誰かが映り込む。逆光で誰か分からない。なんて言っているか分からないけど、心地いい声音に、ふっ、と肩の力が抜けた。

 また暗くなる意識の中で、ごめんね、と聞こえた気がした。その後は、断片的な夢を何度も見たが、悪夢を見ることはなかった。

 意識が浮上する。見慣れた天井だ。瞼は熱く、痛かったが、体はスッキリとしていた。目線だけ動かし、時計を見ると、朝の6時に、ちょうど短針が差し掛かったところだ。体を起こすと、額から、冷えピタが落ちた。それをキャッチして、顔を上げる。

「……母さん?」

 ガチャリと、部屋のドアが開く。入ってきたのはあっくんだった。

「お、起きたか。熱は? 体は大丈夫か?」

「うん……」

 声に落胆が混じってたのか、俺じゃ不満かよ、とあっくんが口を尖らせたのが見えたが、答えられなかった。あっくんも本気ではなかったようで、コップを片手に、水飲む? と聞いてきた。頷いて差し出されたコップを両手で掴む。ゆっくり飲めよ、と言うあっくんの前で、水を喉へ流し込んだ。

「あのなぁ。まぁ、元気になったらいいけど」

 そう言いながら頬杖をつくあっくん。

「なんで、あっくんが……」

 喉が痛くて、そこまでしか話せなかったが、あっくんは察してくれたらしい。

「愛來のお母さんが、入れてくれたんだよ」

「……は?」

 あっくんが一瞬何を言っているのか分からなくて、頭の中でその言葉を反芻する。理解した途端、思わず怒気を含んだ声が出た。

「何言ってんだよ。笑えねぇ冗談はやめろよ」

 怒りのあまり、声が掠れる。撤回しろ、という目であっくんを見たが、あっくんの顔は真剣そのものだった。その瞳の中に、何かを憐れむような色を見て、かっと頭が熱くなった。

「なんだよ。そういうのはいらねぇって言ってんだよ!! あの野郎がそんなことするわけねぇだろ!!」

 ボコボコと怒りが沸騰する。心の隅にある理性が、八つ当たりだ、やめろ、と叫んでいるが、止まらなかった。一度やめたら、怒りの底にある、冷たい何かと、目を合わせなきゃいけなくなる。

「ああ、そうか。金もらってるんだろ。自分が看病するのはめんどくさいけど、放っておくのも罪悪感があるってか? はんッ。あんな奴に罪悪感なってあったらの話だどなぁ!!」

 浅く息をしながら、あっくんを見る。怒って、帰ってほしかった。真相なんて、知りたくなかった。

「愛來」

 静かに、あっくんが私の名を呼ぶ。怒りも、悲しみもない静かな言葉。その静かさが、冷水のように、沸騰した頭に浸透した。それと同時に、怒りの底にあった冷たいものが、冷たいけどどこか温かいものがじわじわと染み出した。

「……なんでだよ。なんでだよぉ。分かんないよ。もう」

 嘘って言えよぉ、と頭を抱えて体を丸める。

 あっくんが近づいて来て、そっと背中を撫でた。

 絞り出すように泣いた。喉が引きつって、声が出なかった。

 憎むだけなら苦しくない。ただ憎んで憎んで憎んで憎んで。それだけだったら。悲しさは、ずっと前からあった。酷く胸が痛むけど、それだけ。

 期待させるな。望ませるな。それが一番つらい。何度一人で泣いた? 何度我慢した?

 いい加減諦めさせて。苦しいのはいやだ。


 泣きつかれて、寝てしまった愛來に布団をかける。涙の跡がついた目尻を、そっと拭った。

 自分も通った道。でも、俺は叶わなかった願い。あの人は俺のことを厄介者としか思ってなかった。久しぶりに、愛來とあって、自分と同じ状況だと知って、本当は嬉しかったのだ。自分の苦しみに共感してくれる、そう思っていた。だが、そんなことはなくて。愛來のお母さんに、看病を頼まれた時、一番最初に感じたのは、自分でも驚くほどの、嫉妬だった。それでも、こんなふうに泣く愛來を見ていると、くだらない嫉妬心なんて、小さくなってきて。

 激高していた愛來は、泣きそうだった。怒りの底に滲む喜びと、期待で揺れていた。

 それを見てると、愛來のお母さんを思い出した。娘の事を案じながら、もう許してくれることはないだろうと、独り言のように言っていた。それでも、何かを望むように、一瞬遠くを見ていた。さっきの愛來と同じ瞳。その顔は、あまりにも愛來に似ていた。

 思わずその事を伝えると、愛さんは驚いたような顔をして、笑った。そういってもらえて嬉しいわ、と言う愛さんは、でも、と続けた。

「あの子はね、笑うと下がる目尻とか、柔らかく上がる口角とかが本当にあの人に似てるのよ。愛來の、父親に」

 ぐす、と鼻を啜る音が聞こえて、物思いから覚める。愛來を見ると、また、苦しそうに泣いていて。寝ながら泣いている愛來を見ると、酷く胸が痛くなった。

「……母さん……」

 ほんの少し開いている口から、縋るように出たその言葉を聞いて心が固まった。

 





「お忙しい中、呼び出してしまい申し訳ございません」

「大丈夫よ、そんなに畏まらなくて。ただ、あと二十分で次のお客さんが来るから手短にお願いね」

 コンシーラーでも隠しきれない隈をつけた、愛來のお母さん、愛(いと)さんがすまなそうに笑った。

「はい、それに関しては大丈夫ですが……愛さん。本当に大丈夫ですか? 隈が……」

「ふふ、大丈夫よ。何年やってると思ってるの。もう取れなくなった隈だから、気にしないで」

 そう言ってコーヒーを飲む愛さん。その姿を見て、手短に終わらせたほうが愛さんのためだと判断し、愛絆は姿勢を正した。

「愛さんは、どうして愛來に自分がやっている職業を話さないのですか?」

 ぴしりと、愛さんが固まった。そして、怪訝そうに愛絆を見る。しばらく真意を図ろうとしていたが、ゆっくりと話し始めた。

「どうしてって、娘に、私は水商売やってます、なんて言える? 私がこれを始めたのは愛來が何歳のときだと思っているの? それを話したら、愛來は、自分が水商売をやっている親の娘ということになってしまう。そんなの、愛來が不憫でしょう? もしかしたら、それが原因で学校でいじめられるかもしれない。知らなければ、守っていける。そう思って、話してないのよ。それよりも、なぜあなたがそんなことを気にするの?」

 問われて、ふと、思考に詰まった。確かに、自分がなぜこんなことをする必要があるのか。だが、迷ったのは一瞬で、すぐ答えが出た。

「俺が、親に愛されなかったからです」

 一拍置いて、愛さんが気づいたように目を見開いた。その様子を見て確信する。

 愛さんは知っているのだろう。母さんが、借金をして、俺と逃亡生活をしたというのを。もしかしたら、母さんが死んだということも知っているかもしれない。

「これは俺の復讐です。俺を愛さなかった母親への。母さんと同じ境遇でも、人愛せるんだって証明して、否定してやる。母さんがやったことはクソだって、鼻で笑ってやるんだ」

 愛さんは、悲しそうな顔をしたが、何も言わず、コーヒーに口をつけた。燃え上がった怒りを、抑えるように、息を吐き出す。ある程度収まったのを確認して、再度顔を上げた。

「愛來は、愛さんが水商売をやっているのを、知っています。そして水商売をやっている理由も、知っています」

 驚いたように愛さんを目を見開いたが、すぐに力なく瞼を落とした。

「……知っていたとしても、やっぱり、嫌でしょう? 水商売をやっている親なんて。理解しなくていい。いくらでも軽蔑して、距離を取って、私のことなど親じゃないって思ってほしいのよ。私が枷にならないように。私は、あの子が自由に飛べれば、それでいいから」

 その入れ違いが、本当に腹が立つ。湧き上がってきた怒りで、声を荒らげないように、ぐっと喉に力を入れた。

「愛來は、泣いてました。愛してほしいって、泣いていました」

 え、と愛さんが顔をあげた。

「愛來は、あなたが水商売をやっていようと、関係ない。そんなのどうでもいいって。ただ、愛してほしい。そう言って、泣いてました」

 愛さんの目が見開かれ、潤んだ。

「逃げているのはあなたですよ。距離をとってるのも、あなたなんですよ。愛さん。愛來は、人に守られなければいけないほど、子供じゃない」

 愛さんの瞳が揺れた。何かを言おうとして、止めるように息を呑み、下唇を噛み締めている愛さんを見て、少し言い過ぎたか、と後悔する。

 それでも、今が正念場だ。これを過ぎれば、いつチャンスが来るか分からない。大人になったら、もっと距離が離れてしまう。もうすぐ受験勉強が始まるから、話す時間がなくなってしまう。

「一回でも良いから話し合ってみてはどうですか? 連絡しずらいのでしたら、俺が愛來に伝えに行きますが、愛さんがLINEを送ったほうがいいと思いますよ」

 愛さんは、しばらく迷っていた。言葉を発さず、ただ不安そうに視線を揺らし、何かを振り払うように頭を振った。だが、ふとそれが止まった。不安そうだった瞳が、決意を宿して強く光る。

「愛來に、連絡してみます。……二人だと今のようになってしまうかもしれないので、付き添ってもらえませんか?」

 その強い瞳が、愛來にそっくりで、思わず笑ってしまった。

「もちろんです。ただ、俺はあくまでも愛來の味方です。いいですね?」

「ええ。大丈夫よ。……それにしても、大きくなったわね。愛絆くん。お母様のことは、本当に残念だったわね」

 ああ、やっぱり知っていたのか。多分、客からにでも聞いたんだろうな。愛さんの商売は裏に繋がりやすいから。

「いえ、もう過ぎたことなので」

「…………そう。愛絆くん。ありがとう。愛來をよろしくね」

 一拍。

 ボンッと顔が赤くなった。その様子を見て、愛さんがクスクスと笑う。

 バレてる……

 すごく恥ずかしかった。な、なんでバレたんだろう。いや、それよりも、なんて返せば??

 思わず否定の言葉を発そうとした時、さっきの愛さんの真剣な瞳と、愛來の瞳を思い出した。

 ここまで踏み込んでるのに、否定をするのは失礼だ。

「はい。頑張ります」

 耳が熱いけど、自分も、真剣な目で愛さんを見る。いずれこの人が、お義母さんになるかもしれないのだ。

 愛さんは、ぽかんと、驚いた顔をして、真面目だね、とくつくつ笑った。

 愛さんが帰ったあと、俺はしばらく放心したように宙を見ていた。愛さんに言ったことは嘘ではない。母さんへの復讐。それが俺の動機だ。でも、確かにあった。苦しんでる愛來を見て、どうにかしてやりたいと思ったんだ。愛來が好きだ。でも、親にさえ愛されなかった俺が、人を愛すことなんて出来るのか? 愛を知らない奴が、愛を渡すなんて出来るわけがない。

「……」

 違うだろ。だから決着をつけにいくんだ。自分が感じられなかった、親子の愛の絆を目の当たりにして、何を思うかはその時まで分からないけど、何かが自分の中で変わるかもしれない。

 愛の、絆。ふと自分が考えたワードに引っかかりを覚える。

 俺の名前。あんな親がつけた、俺の名前。

「……」

 ほんとうに、復讐だな。心のなかで、自嘲気味に笑う。

 どこに行っても、呪いばかり。結局俺は、心の底からあいつを嫌いでも、逃れられないんだ。忘れたくて、忘れられなくて、憎む。その繰り返し。ついには、憎しみが、胸の中で馬鹿みたいにでかくなりやがった。

「うん。やっぱり、愛來に、こんなふうになってほしくない」

 動機はいくらでもある。でも、根本の思いは、愛來への思いであってほしかった。








 愛さんからの連絡はすぐに来た。次の日曜日、愛來の家で、話し合います。そう書かれていた。それと同時に、愛來からの怒涛の連絡が届く。朝からけたたましく鳴るスマホに眉を寄せながら、通話ボタンを押した。

「おい。どういうことだよ。なんでお前が私等の問題に入ってきてんだ。母さんと話したってどういうことだよ。答えろ」

 殺気立った声が、寝起きの頭に刺さる。だが、ここでちゃんと答えないと最悪なことになるのはぼやけた頭でも分かった。

「あーごめんごめん。ちゃんと話すよ。でも長くなるから、愛來の家に行って話そうか?」

「今。今話せ」

 間髪入れずに答えた愛來。相当怒ってるな。心の準備とかあるから、実際に会って話したかったけど仕方ない。

 心の中でため息をついて申し訳程度に気持ちを整える。

 あ、失敗した。駄目だ。冷静になって言える言葉じゃない。どんどんと心臓が胸を叩く。

「おい、早く答えろよ」

 愛來の声音が更に低くなった。今すぐ答えないとやばい。

「愛來が好きだから、苦しんでほしくないって思ったんだ」

 顔から火が出るような言葉。

 でも、本心だ。

「はあ? 何言って……はあ??」

 愛來は意味が分かってないようで、怒っている声から一変、間抜けな声がスマホから聞こえた。

 多分鳩が豆でも食らったような顔をしているんだろう。それを想像するとなんだか勝ったような気がして、気持ちに少し余裕ができた。

「意味分かんねぇよ。ふざけてないで真剣に答えろ」

 怒気を孕んだ言葉。心臓がぎゅっと冷たくなったのを感じた。

「……嘘じゃない。本気だ。お互い本心で話せって言ったやつが、自分も本心で話さないでどうする」

 沈黙。顔が見えないから、愛來が何を考えているか分からない。怒っているのか、戸惑っているのか。

 まぁ、喜んでは、いないと思うけど。

「……それが例えほんとだとして、私と母さんの問題に入ってくる理由はなんだよ。別に、それじゃなくてもいいだろ」

 自分が告白されたことよりもそっちが気になったのか、となんだか悔しい気がしたが、その気持ちは、頭の片隅に置く。今は質問に答えるのが最優先だ。

「俺はもう、母さんと仲直りなんてできないから」

 小さく、息を呑む音が聞こえた。

「親を憎むっていうことが、どれほど辛いか、俺は知ってる。すれ違っているのなら、なおさら」

 愛來は、黙って聞いてる。

「会った時に言ったけど、俺は母さんを憎んでる。今でもだ。時々、腹が煮えくり返るかと思うほどの怒りが湧き上がるんだ。その度に、自分が惨めでしょうがなくなる」

 一呼吸。

「そんな、誰かを死ぬまで憎むような人に、愛來になってほしくない」

 しん、と沈黙が広がった。静かな、だけど柔らかな沈黙。

 愛來の怒りは、いつの間にか消え去っていた。

「納得してくれた?」

 そう問うと、少しの間を置いて、うん、と声が聞こえた。

「怒鳴ってごめん」

「うん」

「朝から、迷惑だったよね……」

「ううん」

「母さんと、ちゃんと話す」

「うん」

「……ひどいこと言っちゃうかもしれないから、同席よろしく」

「うん」

「こ、告白の返事は、母さんと話し合ったあ、あとで、する」

「うん…………うん?」

 そこで自分が告白していたことをようやく思い出した。愛來を納得させるのに必死で、すっかり忘れてしまっていた。とたんに、さっきまで静かだった心臓がうるさく鳴り出す。雰囲気の寒暖差で風邪を引きそうだ。あっという間にパニックになってしまって、うん、分かった。と返してしまい、そのまま通話を切ってしまった。

 しばらく、放心したようにぽけっ、っと空中を見る。

 正気を取り戻したのは、スマホのアラームがなった時、つまり通話が終わってから五分後だった。

 今日は講義が一限目からある。今は八時二十分。一限が始まるのは八時三十分。俺はパジャマ。

 遅刻だ。


 その日の朝の電話から、愛來が自分に連絡してくることはなかった。自分も特に連絡する必要がなかったので連絡しなかった。だが、ときどきふっと思い出したように愛來の顔が思い浮かび、無性に会いたくなる。その度にやっぱり好きなんだな、と胸が甘酸っぱくなるような感覚を覚えた。

 そんなことを思いながら過ごしているうちに、日曜日が来てしまった。

 緊張しているのか、早朝に目覚めてしまったというのにもう蝉がけたたましく鳴いてる。空は晴天で、まさに夏というような、からっとした空だった。

 時間は事前に愛さんから教えられていたので、それに合わせて準備する。話し合いを始める時間は昼の後。昼ごはんを食べて、のんびりとした時間に話し合いをしたい、という愛來の意見だという。その理由の裏に、また別の理由が隠れているのに愛絆は気づいて、苦笑した。

 愛來はやっぱり親思いだ。愛さんとの話し合いは、思ったより難しくないかもしれない。

 愛さんは気づいただろうか。この案は、愛さんが土曜も仕事をしているということ知っているから、少しでも寝れるように愛來が配慮した案だということを。

「優しいな」

 愛來の行動に、嬉しさを感じながらも、心のどこかで、自分が醜いと言う声がした。永遠に、母親を許せない自分が、醜い。

 ふと、思った。

 愛來と愛さんが仲直りした時、自分は酷く惨めになるんじゃないかと。親に無償の愛を与えられる愛來を思い浮かべると、狂おしいほどの嫉妬が胸の中で渦を巻いた。

 それと同時に、自分に対し激しい嫌悪感が腹の底を焼く。

 これは呪いだ。母さんと俺の。

 俺の名前の、『あき』は、違う漢字がある。

 穢れた絆。

 これでも、『あき』と読むのだ。

 初めて知った時、ああ、しっくりくるなと思った。こんな名前よりも、こっちの方が、自分にも、自分の人生にも合ってる。そう思った。

 そう思ってしまったことが、すごく嫌だった。

 俺が、愛來を恨んだら、それこそ穢絆になってしまう。

 そう自分に言い聞かせて、負の感情を隅に追いやる。

 思考を止めるために、朝食を作ろうと台所を開け、適当に卵と野菜をとってフライパンに突っ込んだ。野菜を炒めるのに全神経を注ぐ。後からかけた菜種油がパチパチと音を立てているのを聞いていると、段々と精神が安定してきた。

 野菜に十分に火が通ったのを見て、ベーコンと卵を投入する。ジュ〜という音と共に香ばしい匂いが広がった。思わず口角があがる。

 飯を食べれば、変な不安なんてなくなるさ。無駄に考えるな。

 久しぶりに見る愛來の家は、なんだかでかいような気がした。

 インターホンの前に来たはいいものの、ボタンを押す勇気が出なくて、両手を握ったり開いたりする。

「何してんの? 入りなよ」

「うわぁ!!」

 急に声をかけられて心臓が口からまろび出た。顔を上げると、二階の窓から愛來が顔を覗かせてる。

 恥ずかしい姿を見られたからか、告白した人が目の前にいるからか、カァッと顔が熱くなった。

「う、うん」

 ギュッとバッグの紐を握りしめて、絞り出すように声を出す。

 かなり小さい声だったと思うが聞こえたらしく、愛來は窓から顔を引っ込めた。それを確認して、自分も愛來の家のドアを開ける。

 お邪魔します、と呟いて、靴を脱いでいると、視界に足が入り込んだ。伏せていた顔を上げると、無表情な愛來と視線が合う。その目には、濃い隈ができていた。

「寝てないの?」

 靴を揃い終えて、愛來に聞く。

「うん、あんま寝れなかった」

 そう言ってリビングに戻っていく愛來を追いかける。

 リビングは冷房が効いていて、すぐに汗は引いだ。だけど何故か胸が熱い。なんというか、詰まるような。苦しいのだ。

 その気持ちの正体が分からなくて、しばらくフリーズする。

「はい水」

 愛來が水を差し出してくれてようやく体が動いた。コップを受け取って、徐ろに口をつける。喉が乾いていたのか、一息で飲んでしまった。

「座らないの?」

 そう言われて、トスンと直ぐ側にあった椅子に座る。

「外暑かっただろ」

 明後日の方向を向いていた顔を戻す。頬杖をついた愛來が視界に入った。

「来てくれてありがとう」

 にかっと愛來が笑った。

 トンッ、と心臓が脈打った。ふわっと驚きが広がって、ゆっくりと過ぎていった。

 ああ。来てよかった。

 さっきまで悩んでいたことなんて、この笑みに比べればちっぽけなことだった。

 顔が綻ぶ。

「どういたしまして」

 言い終わってから、ふと思いとどまる。

「でも、お礼は愛さんと仲直りしてから言ってほしい。それまで受け取れない」

 愛さん、その名を発した時に明らかに愛來の顔が歪んだ。だが、それは怒りではなく、濃い不安のような感じだった。その証拠に、瞳が落ち着きなく揺れている。

「う、ん。そうだね。そう……」

 その声音に、恐怖も混じっていた。

 なんて声をかければいいか分からず、愛來も黙ってしまって不安が沈んだ沈黙が流れる。それを掻き消すようにインターホンが鳴った。びくぅ、と見て分かるほど肩を跳ねさせたあ愛來の顔は、どうしようという恐怖と戸惑いと不安が、痛々しいほど現れていた。

 だが、暑い外で長く待たしてはいけないと思ったんだろう。胸の前でギュッと両手を組んで、足早に玄関へ向かった。それについて行く。

 愛來は、ドアの前で止まり、自分を落ち着かせるように、一つ息をつくと、ドアノブに手をかけた。

 熱気が押し寄せる。私服で化粧を落とした愛さんがいた。愛來の顔はここから見えないけど、多分愛さんと同じような顔をしてしてると思う。

 なんて言ったらいいか分からない顔。

 だけど、愛さんの表情は、何か、惹かれるような。魅せられるような。そんな顔。

「あ……」

「早く入りなよ」

 愛來、と呼ぼうとした愛さんの声を遮って、愛來は冷たく言い放った。

「……そうね」

 愛さんは悲しそうな顔をしたが、すぐにやんわりと笑って、ドアノブを掴んだ。

 それを確認するや、愛來は踵を返してリビングに消えていった。その様子を見て、行く先が不安になる。

「愛絆くん、今日は来てくれてありがとう。よろしくね」

 柔らかな声。愛來とはまた違う。

「はい」

 うまく出来るかどうか分からなくて、それしか答えられなかった。

「ちゃんと伝えるから、大丈夫よ。悪いのは私だもの」

 勇気づけるように、背中を二度叩き、愛さんはリビングへと向かっていった。当人でもないのに、尻込みしていた自分が恥ずかしくなってその後を追う。

 リビングに入ると、椅子に座った愛來がいた。その向かい側に水が入ったコップと、椅子がある。そして誕生席と呼ばれるところに自分がさっき口をつけたコップが置かれてあった。

 愛さんが、愛來の向かい側の席に座り、俺は誕生席に座った。

 間。

 多分、愛來は愛さんが水を飲むと思っていたんだろう。座ったまま動かない愛さんに怪訝な顔をしている。

 間。

 これは、俺が司会的なことをした方がいいのかな。俺は今回ヒートアップした時のストッパーとして来たから、そういうことはしない方がいいと思っていたけど……

 ぐるぐると考えていると、愛さんが背を伸ばしたのが見えた。

「ごめんなさい」

 愛さんが愛來に頭を下げた。

「独りにしてごめんなさい。距離をとってしまって、本当にごめんなさい。知っていると思うけれど、私は水商売をしています。でも、それには理由があるんです。言い訳に聞こえるかもしれないけど……」

「分かってる」

 愛さんの言葉を遮って、愛來が鋭く、でもさっきとは違う、柔らかさを含んだ声だった。

 弾かれたように愛さんが顔を上げた。

「分かってるよ」

 もう一度、愛來が言った。

「愛絆に言われて、よく考えてみた。絶えず送られてくる生活費と、お小遣い。塾にも、ずっと金が降ろされてる。全部、母さんの金だ」

 一呼吸。

「母さんが、金を稼ぐために水商売をしてるのは容易に想像できる。それが、私のためであることも」

 張り詰めていた空気が、徐々に砕かれ、柔らかくなっていた。

 愛さんの瞳が潤んだ。否定されると思っていたんだろう。安堵と、喜びが映っていた。

「でも……でもさッ」

 くしゃっと愛來の顔が歪んだ。

「それは私を独りにする理由にはなんないだろ……?」

 訴えるような声音。何か、納得できるような言葉を欲している目。どれだけ考えても分かんなかったんだろう。分かったとしても、その理由が、自分を独りにしたことよりも重いと、思えなかったんだろう。

「それは……愛來に知れたら……学校のみんなに知られてしまったりしたら、愛來がいじめられるかもしれないし……」

「だから何!?」

 ガタンッと大きな音を立てて愛來は立ち上がった。

「私は別によかった! 母さんが水商売やってることに、なんにも思ってない!! 母さんは怖かっただけだろ!? 自分が軽蔑されるんじゃないかって、勝手に思い込んだだけじゃないか!!」

 違う、と愛さんの口が動いた。だけど空気が漏れた音が聞こえただけで、声は発されなかった。それまで愛來をしっかり見ていた目が、ふぃっと横にズレて、歪んだ。

 言葉ではないけれど、それは、愛來の言葉を肯定したと判断するには、十分だった。

 それを見た途端、ぐっと愛來の顎が盛り上がって喉が動いた。何かを堪えるように歯を食いしばったあと、ぼろっと涙が溢れ落ちた。

「なんで、信用してくれなかったの……? なんで信じてくれなかったんだよ!! 何が愛が来る、だ。自分でつけた名前なのに。ふざけんな!! どうせよく考えずにつけたんだろ!?」

「違う!! その名前は父さんと一緒に、大事に考えたもので」

「だとしたら父さんはさぞ後悔しただろうなぁ!? 自分が死んですぐ願いを裏切られたんだから。こんな名前なんてつけなければ良かったって、今頃天国で泣いてーーー」

「いい加減にしなさい!!」

 今まで声を荒らげなかった愛さんが立ち上がり怒鳴った。その迫力にビクッと愛來が怯える。

「あなたの実の父親になんてことを言うの!! 父さんはそんな人じゃないわ!! 自分だけが被害者みたいな、なんで人の事を考えないの!!」

 あ、駄目だ。

「知らねぇよ! もう顔も覚えてないんだから知ってるわけないだろ!!」

 拗れる。

「愛來、聞いて。私は」

「愛來なんて呼ぶんじゃねぇ!!」

「愛來」

 静かに、声を発した。

 怒りの形相をして、こっちを向いた愛來の目が、自分の視線と合う。その痛みはよく分かる。そういう気持ちを込めて愛來を見つめた。その途端、怒りがじわじわと消えていき、悲しみで染まった。悲痛な顔だった。自分まで、泣きたくなるような。苦しい顔。

「………………小学校の、授業参観。来てほしかった。お花見とか、お雛様とか、飾ってみたかった。三者面談も、来てほしかった…………ッ」

 絞り出すように、ぽつぽつと話す愛來。もう、怒りはなく、ただ、悲しみが。

 今までずっと感じていた悲しみを、言葉に発しているだけ。

 力なくうなだれている愛來を、愛さんは抱きしめようと両手を上げようとしたが、ためらい、そこで止まった。

 愛さんに、抱きしめてあげて下さい、と言おうと口を開き、閉じた。

 愛來が、愛さんに寄って、額を愛さんの肩につけたからだ。

 縋るように、きゅっと愛さんの服を握っている。

「そばに、いてほしかった。い、いてくれるだけでよかったッんだ。いつもじゃなくていいから……一緒にご飯食べたり、一緒に寝たり、話したりしたかった。いつもじゃなくていい。いつもじゃなくていいから、一緒にいてほしい」

 優しく、でもしっかり守るような手付きで、愛さんは愛來を抱きしめた。

「うん。うん、うん。ごめんね。信じてあげられなくてごめん。独りにして、本当にごめんねぇ……ッ。一緒にいる。もう、独りにさせない」

 愛さんの言葉を、肯定するように愛來は何度も頷いた。

 愛さんの背中に手を回して、しがみつくように抱き返す愛來の姿が、ふと、小さい頃の自分にマッチした。

 望んで望んで、それでも叶わなかった世界。

「愛してるよ。愛來が生まれた時から、ずっと。生まれて来てくれて、ありがとう」

 ぎゅうッと愛來が、愛さんを強く抱きしめた。子供みたいに、嗚咽を漏らしながら、愛來が泣いた。安心したような顔。自分は愛されていたと、安堵した顔。


 苦しい。

 苦しい。苦しい、苦しい。

 万力で胸を締め付けられるような。鳩尾がぎゅっとなるような。

 自分も、あんなふうに愛されたかった。あんなふうに、抱きしめてほしかった。

 羨ましい。羨ましい。

 喉の奥が熱くなって、堪えるように歯を食いしばった。

 それでも、苦しさの中に、何かがあるのだ。

 温かい何かが。

 頬に、温かいものが伝った。

 ふと、言葉が漏れた。

「…………よかったね」

 すごく小さい声だった。自分でも最初はなんて言ったのか理解できなかった。

 だけど、その言葉が形を成した途端、しっくりと、それが胸の中に収まった。

「よかったね。ッよかったね、愛來。よかった。本当によかった」

 少し間があって、ぶはっと愛來が吹き出す音がした。

「なんで愛絆が泣いてるんだよー。もー」

 愛來が笑った。涙を流しながら、困ったように、嬉しそうに。

「ありがとう。愛絆」

 

 途端、胸を締め付けていたものが、すぅ、と薄れた。

 堰を切ったように涙が溢れてくる。拭っても拭っても留まることなく溢れてくる。

「うん。……うん、うん」

 うまく答えられなくて、ただ頷いた。

 

 渇望していたものを、見た時に、自分はどうなるか。ずっと分からなかった。

 胸の底に溢れてくるのは。

 切なさと、悲しさと、愛しさと、優しさ。

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