199.夜が明けて、また新しい朝。彼女の、新しい目覚めの朝。


 体のあちこちが痛くて。

 あんまりあちこち痛すぎて、身体のどこが本当に痛いのかもよくわからなくて。


 赤ちゃんみたいにまるくなって、嵐が過ぎ去るのを泣きながら待っていた時に、誰かが、


 誰かの強い声が、あたしの名前を呼んだ気がした。


 多分――そんな夢を見た。


 とても都合のいい、夢を見たの。



 ……………………。

 ………………………………。





「ん……」



 瞼を焼く朝の光に促され。

 きつく眉をしかめながら、サティアは重たい瞼を開けた。


 ――朝。

 真っ先に目に飛び込んでくる天井の木目のかたちでそれを分かる、住み慣れた我が家の、自分の部屋。

 一度、瞼を閉じて、深く息をつき――途端、昨夜の記憶が繋がって、サティアは跳ね起きた。


「っ……え!? あ、あたし――何で……っ!」


 服は、昨晩のままだった。

 几帳面にコート掛けへかけられていた上着を引っ掴み、袖を通しながら廊下へ飛び出す。


 途端、鼻先をくすぐる甘じょっぱいようなかぐわしい香りを感じて、サティアは余計に訳が分からなくなった。

 その香りと一緒に、ルチアのはしゃいだ声が流れてきた。


 弾かれたように、サティアは駆け出した――表の、酒場兼食堂の方へ。

 息を切らして、奥の廊下から飛び出す。

 そして、


「あ。おねえちゃん、おはよう!」


 真っ先にサティアへ気づいたルチアが、ぱっと振り返って花咲くような笑顔を広げた。

 いつもの寝間着の上にふわふわのカーディガンを羽織って。うっすらと湯気を立てる朝食の皿を、両手で持っていた。


「……ルチア」


「おねえちゃん、どうしたの? まだ眠い? きのう、よふかしした?」


「えっ!? ううん、そんなことなくて――もう、起きてて平気なの?」


 狼狽を押し隠して訊ねるサティアに、ルチアは大きくコクンと頷く。


「うん! 元気!」


 …………………………。


 ……何が、どういうことなのだろう。

 記憶に鮮明に残る昨夜の続きとは――とても、思われない。


(……夢?)


 ――だとしたら、どこからが?

 どれが、夢だった?


「起きたかね」


 横合いからかかった声に振り返れば、そこには医師せんせいがいた。

 力を欠いた複雑な笑みを浮かべて、彼はサティアを見ていた。


医師せんせい……あの。あ、あたし、昨日」


「いいんだ。あいつらは何もできずに帰った」


 医師はサティアの肩に手を置き、そして自身の後背を振り返った。

 酒場兼食堂のカウンター――それを挟んだ向こう側。


「シド。スープできたわ」


「ありがとう。じゃあ、スープ皿――は、ええと」


「あ。あたし、あるところ知ってます!」


 ルチアがテーブルに皿を置いて、ぱたぱたとカウンターの向こうへ駆け戻る。


 調理台や竈があるその場所では、金髪の間からひょんとエルフの長耳を生やした知らない女と、それからもう一人、こちらは知った顔のおじさんがいて――二人は厨房の道具を使って、朝食をこしらえていたようだった。


 ルチアが置いていった皿を見遣ると、オーブン焼き卵ココットエッグと焼いたハム。その傍には、籠一杯に持ったパン。


「あ――サティア、おはよう」


 呆けた顔でそれらを見つめていたサティアに気づいて。

 おじさん――シド・バレンスは、どこか思ん量るような、気遣わしい声音で呼びかけてきた。


「……おじさん」


「朝食、作ったんだ。昨日の夜はここに泊めて貰っちゃったから……あ、この食材は、朝市で俺達が買ってきたやつだからね。食糧庫の食材には手をつけてないから、安心してくれ」


「塩と胡椒とバターは、厨房のものを使ったんじゃなかったのかね」


「あ。はい。そうですね、それは……はい」


「それくらいだいじょうぶだよ、おじさん。使ったのちょっぴりだけだもの」


「そうかなぁ……そう言ってもらえるとありがたいなぁ……塩や胡椒の計り売りって、あんまり小刻みだと売ってもらえないし……」


 ――訳が分からない。

 呆然と立ち尽くすサティア。その上着の裾を、くいくいと引く手があった。


 見下ろした先には、見たこともないくらい綺麗な女の子がいた。


 サティアは自分のことをけっこう美人でかわいい女の子だと自負しているし、ルチアも血のつながった姉妹ということもあって、身内びいきを差し引いても美人に育つ顔立ちだと思っているが――そんな有体ありていの水準からははるかに懸絶した、夢見るような美少女がそこにいた。


 翠玉色エメラルドグリーンに輝く髪はその毛先が黄玉色トパーズの金へと変じ。長い睫に縁どられ、ぱっちりとした双眸におさまる黒目の大きな瞳は、右は翡翠ジェイドの緑で、左が紅玉色ルビーの赤。


 ――到底、この世の造形とは思われなかった。


 そんな、夢幻のような美少女は――サティアを見上げて、にっこりと微笑んだ。


「お初にお目にかかります、サティア・イゼット。こうして直接対面するのははじめましてなので、はじめましてらしく自己紹介からはじめますね」


「え。誰……? あの、何であたしの名前、知って」


「クーは、クロロバナージアレキサイオラゴーシェクロラルミナシリカシェリアルミニティタニアジェイドヴォーキコランジオーダメトリンコーパルエルパリドットイトルマヴェルデラクロロクローム=ベリル=エメロード、といいますです。実はサティア・イゼットの命の恩人です。はじめましてなのです」


「く、くろ……?」


 まともに面食らうサティア。

 少女は実に楽しそうにニコニコしながら、


「クロロバナージアレキサイオラゴーシェクロラルミナシリカシェリアルミニティタニアジェイドヴォーキコランジオーダメトリンコーパルエルパリドットイトルマヴェルデラクロロクローム=ベリル=エメロード、です。日頃にたびたび呼ぶのは大変だと思うので、親しみやすく『クロ』でけっこうですよ。よろしくどうぞです」


「え、うん。よろしく……」


 ――と。

 流されるまま、握手を求めて差し出された少女の手を取って。


「…………いや、誰!?」


 喚いた。

 厨房へ振り返りながら、足元の美少女を指さして示す。


「ちょっと、何なのこの子! おじさんの関係者!? あと、そっちのエルフのひとも誰!?」


 シドと一緒に厨房にいる森妖精エルフの娘も、あらためてよくよく見れば、目が覚めるような美少女だった。


 足元の少女――クロ、といったか――ほど浮世離れしてはいないが、目鼻立ちの造作は一目でそれと知れるほど端整で、陽の光をいっぱいに受ける可憐な花のようだった。

 森妖精エルフは総じて整った容姿をしているものだというし、サティアも交易商人として方々を行き来する間にいくつも『実例』を見てきているが――彼女は、その中でもとびきりだ。


 垂れ気味の目元と親しみやすい雰囲気が、美しく整った容姿に可憐な甘さを添えている。

 ただただ『美しい』というだけの、美術品の造作ではない――直截にぶっちゃけて言えば、男からめちゃくちゃにもてる感じの美貌かんばせだった。


 ――いや、待て。あれは『知らない女』ではない。確か一度、顔を見た。

 前に、知った顔のおじさんと、つまりはシドと一緒にいるのを見たことがある。この時になって、ようやくその記憶に思い至った。


「何なのさこれ! おじさんも医師せんせいもルチアもさぁ! なんかあたしの知らないうちに、知らないひとがうちにいるんだけど!?」


「クロちゃんはあたしのお友達だよ?」


「なのですなのです。クーとルチアはお友達です」


「そっかーお友達かー、それはよかったねルチア――ちなみにそれいつからの話?」


「今朝から!」


「ルチアー、それほとんど知らないひとだからね!? 友情を育むにしても、もちょっと時間かけようね! せめて一日くらいはさぁ!!」


 喚きながら。サティアは頭を抱えたくなった。


 心底、訳が分からない。

 一体ここで、何があった?


 昨晩――あの忌々しい女が、三人の男を連れてこの宿に踏み込んできた、あの時から。


(……夢なんかじゃない)


 あれは、確かにあったことだ。

 思い出せば思い出すほど、吐き気がするほど恐ろしい記憶が次々と胸の奥底から蘇ってくる。

 そう――


「ねえ、医師せんせい


 場の空気に流されてうっかり聞き逃すところだったが。

 さっき、医師は確かに言った。


「あいつら……帰った、って?」


「ああ。何もできずに帰った――彼が、追い返したんだ」


 医師はシドを見た。

 ミトンを嵌めた両手で、スープがいっぱいの大鍋を持ってこちらへやってきた、彼を。

 人の好さそうな顔をきょとんとさせているシドを見上げて。サティアは、ごくりと重たい唾を飲む。


 緊張に凝った、ひどく苦い味で、舌の付け根が痺れるようだった。


「……おじさん」


「朝ごはん。冷める前に食べちゃわないかい?」


 シドは、温和な声でそう勧めてきた。


「きちんと朝食を採って――それから、あらためて話をしたいことがあるんだ。きみと」


「…………………………」


 サティアは何も言えず、緊張に強張った顔を俯かせた。


 訳が分からなかった。

 何一つ、腑に落ちるものがなかった。


 見上げるルチアの顔が不安そうに曇っているのにも、安心させるためのことばひとつ、かけることができない。


 何一つ――サティアには、わからない。


 ――未だ。何も。

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