196.《救いの手/ヒーロー》は、最後の最後に扉を叩く
後背に屈強な男を三人従え、派手なドレスの上にコートを羽織った年嵩の女。
そいつはサティアが今、一番会いたくない女だった。
「こんばんは、サティア・イゼットさん? 昨日の話の続き、させてもらいに来たのだけれど」
――冒険者宿、《淫魔の盃》亭の、女主人。
少し前から、この宿を売れと一方的に商談をもちかけてきている。話にならないと断ってやっても、いっかな堪えることなどなく、この余裕と嗜虐の化粧をたっぷり乗せたいやらしい笑みで、同じ話を繰り返す。
「帰って。あたしには、あんたと話すことなんかないわ」
「そうつれないことを言うものじゃないわよ、お嬢ちゃん」
背を向けるサティアへ、笑みを含んだ猫なで声で言いながら。
女は細い煙管に火を灯し、深く煙草を吸った。
足を止めて振り返るサティアが、見遣る先で。ふぅ――と細く吐き出す紫煙が、ゆらりと宿の暗がりへ溶けていく。
「営業もできない、冒険者もいない冒険者宿なんて、持ってるだけ大変でしょう? 税金だって馬鹿にならないし、売り払ってお金に換える方がよっぽど楽じゃない――ただでさえ、あなた病気の妹さんをお世話するので大変なんでしょうに」
「
「はっ!――あっはははははははは――!」
面白い冗談を聞いたと言わんばかりに、女は声を高らかに笑った。
「病気なら、
「それはそれは結構なことじゃない。そのまま、病気とは縁のない健康な人生を続けるべきだね」
「この宿、いくらなら売ってくれるかしら?」
サティアは苛立ちに眉をひそめる。
舌打ちしそうになるのを、本能的に抑えてしまう――女の背後に控える屈強な男達へ、やもすると視線が向いてしまいそうになる。
(……びびるな。あたし)
後ろの男達は、冒険者――だろうか。あるいは傭兵崩れの用心棒。
どちらにせよ、そんな連中を連れてわざわざここまで来たのは、サティアを怯えさせて自分の言うとおりにさせるためだ。
――ちゃんと、分かってる。だから怯えるな、サティア・イゼット。
胸を張り、何事もないもののように。対等の交渉を――その体裁を、繕い続けろ。
「……この宿は売らないし、売れないよ。住む家がなくなっちゃうじゃん」
「馴染みのお医者様にお願いすれば、妹さんのためのいい静養地を見つけてもらえるでしょう? オルランドの外なら、ここよりずっと安く買えるでしょ、家なんて」
我知らず、口の端が歪みそうになるのを自覚する。
この女は、
「立派な方よねぇ――貧しい連中のために
「
「そんな素晴らしいお医者様も、この宿を売るのを勧めていらっしゃるのでしょう? あなたの負担になるばかりだと――ええ、あたしもお医者様に同感よ。使い道のない宿のために毎年高い税金を払い続けるだなんて、あなたにとっては損ばかりじゃない」
「使い道のあるなしはあたしが決めるよ。あたしは交易商人なんだから――使い道のないものを、わざわざ手元に残しとく趣味なんかないしね」
「あら、合理的。そういうの賢くって素敵だわ――なら、売ってくれるわよね? この宿」
「売らないってさっき言ったよね。まだオバサンってくらいの歳でしょうに、もう耳が遠くなってんの? オバサン」
女は溜息をついた。
細い煙管の口に口付け、深く吸った煙を吐く。
「――グンヅ」
そして、顎をしゃくるような軽さで、煙管の先を振る。
それが合図だったのか、女のもっとも傍に控えていた一番の巨漢が、ぬっと前に進み出た。
はっとして身構えるサティアの肩を、男の手が突き飛ばす。
それだけで、サティアの身体は軽々と吹き飛んで、床に尻もちをついていた。
「何す――」
肩の痛みに息を詰まらせそうになりながら、それでも顔を上げて唸る。
その反駁を遮ったのは、襟首をつかむ男の手だった。
岩の塊のように硬く太い腕が。
サティアの身体を、子供のように軽々と吊るし上げていた。
「何、すんの――離せよ……っ!」
「あたしがこうして笑ってるうちに、素直になった方がいいわよ。お嬢ちゃん」
足をばたつかせて男の身体を蹴るが、
踏ん張りがきかず碌に力が入らないのもあったが、元が華奢なサティアである。本気で蹴ったところで、男にとってはさしたる痛痒もなかっただろう。
「……ねえ、お嬢ちゃん。幾らならここを売ってくれる? あたしだって鬼じゃないわ。真っ当な商売人、冒険者宿の女将だもの。素直に売ってくれるなら、もちろん相応の対価は約束するわ」
「自前の宿なら、とっくに持ってんじゃん……」
襟元を掴まれ、喉が締まる感覚に、心臓ごと締めあげられるような恐れに震えながら。それでも、サティアは呻く。
「何だってそんなに、ここが欲しいのさ……春をひさぐつもりなら、今まで通り自分の縄張りでやってりゃいいじゃんか……!」
「そういう訳にもいかなくなってきちゃったから、ここが欲しいのよ」
女はさらりと言った。
「『冒険者宿』って看板は、何かと使い勝手がよくてねぇ? 他の商売じゃ法に引っ掛かるようなことでも、冒険者宿なら抜け穴をかいくぐって、ついでにお目こぼしを貰えたりするものなの――やっぱり、この街が英雄オルランドと《
「ざっ、けんな……
「さ。商談の続きをしましょうか。この宿、幾らならあたしに譲ってくれる?」
「ぁぐ……!」
襟首の締め付けが強くなる。
ぐっ、と短く呻いて、サティアは魚のように口をぱくぱくさせて喘ぐ。
「……――く、まん枚」
「ん?」
喘鳴のようにかすれた声に、女が耳をそばだてる。
締め上げる手の力が弱まり、少しだけ息がしやすくなった。
口の端を吊り上げて、サティアは笑う。
「――オルランド大銀貨、百万枚」
女の口の端が、僅かに引き攣った。
「グンヅ。その子にちょっと『お仕置き』してやりなさい」
指先で煙管を振って、女が命じる。
途端、サティアの目の前が急速にぶれて、次の瞬間には半身を床に叩きつけられていた。
「ぁ……!」
全身を貫くような痛みに、息が止まりかけた。
痛みに浚われ、まっさらになった脳裏に真っ先に浮かんだのは、この音でルチアが起きてしまわないだろうかということだった。
「調子に乗るんじゃないわよ。お嬢ちゃん」
女の、冷え切った声と共に。
巨漢の爪先が、サティアの腹を抉るように蹴り抜いていた。
◆
少女の身体は軽々と吹き飛んで転がり、宿の壁にぶつかって止まった。
激しく咳き込み、涙混じりの掠れた苦鳴を零す少女を、《淫魔の盃》亭の女主人はフンと鼻で笑った。
「もしかして、今まで対等の交渉をしていたつもりなの? 馬鹿馬鹿しい――あたしが欲しいのは、契約書に拇印を押すあんたの親指だけよ。他はどうでもいいの。立場ってものを弁えなさい」
くの字に身体を折って悶える細い背中を、男の靴底が踏みつけた。
宿屋の暗がりに細い女の悲鳴が響き、ロキオムが「うっ」と声を詰まらせるのを、ユーグは聞いた。
(……ったく)
――もとより、がたいの良さに似合わず素は小心な男だ。
酒の力でも借りなければ、粗暴な男ぶった振舞いすら、ままならないくらいには。
「ねえ、お嬢ちゃん。あたしは別に、あんたのことなんて知ったこっちゃないのよ――でもね、一言『売る』とさえ言ってくれれば、あたしだって悪いようにはしないわ」
神経に障る猫なで声で、女は嘲笑った。
「後味が悪いのは好きじゃないもの――このままグンヅに背骨を折られるのは、お嬢ちゃんだって嫌でしょう?」
「おい」
愉悦に脂ぎり、嬲る調子で歌う、女主人の背中に。
ユーグは呼びかけた。
「俺達の仕事は『商談の用心棒』だったはずだ。人殺しの片棒を担ぎに来たつもりはないんだがね」
ぴたり、と。
獲物を嬲る悦に入った長広舌を止め、女主人は興ざめした顔で振り返った。
「ユーグ・フェット。あなたは《
「そうだが」
いつしか、巨漢は少女を踏み躙るのをやめていた。
こちらを睨む巨漢の威圧を、後背に置きながら――女主人はくるりと踵を返し、つかつかとユーグの眼前まで近づく。
「あたしは宿の主人で、今はあなた達の雇い主よ。あなたはあたしに従う義務がある。そうは思わない?」
「もちろんだ。ユーグ・フェットは犬のように従うさ。それが仕事の範疇ならな」
揶揄を籠めて、口の端を上げるユーグ。
女主人の眉が、引き攣るようにして跳ねた。
「報酬が惜しくないの? 仲間に逃げられたあんた達に、うちの腕っこきを紹介してあげるって約束は」
「惜しいね。これから先の《
睨み上げる女の眼光を、真っ向から受け止めて。ユーグは柳のような軽やかさで嘲笑った。
「――だが、小娘殺しの片棒担ぎを引き受けた覚えまではないんでね。俺達は冒険者だ、殺し屋じゃない」
ハイヒールの踵が、ユーグの靴を踏み躙った。
痛みはなかった。ユーグの
ただ、女の踵が、こちらへ屈辱を与えんとするようにぐりぐりと自分の靴を踏んでいるという事実を一瞥してから。飼い犬に手を噛まれた怒りか屈辱かで血走った眼を剥く女と、あらためて視線を合わせる。
「……不遜よ、ユーグ・フェット。よそ者の冒険者風情が、このあたしに向かって。あたしを誰だと思ってるの」
「殺しがしたいなら殺し屋を雇え。俺達は品性まで売り渡した覚えはないんだ」
「――グンヅ!」
怒りに煮えた、女の呼びかけに。
のそりと振り返った巨漢が、それまで背負っていた
「うお……」
呻くロキオム。ユーグは後退して女から距離を取りながら、薄く嗤った。
「宿の中で、その大物を振り回すってのかい? 後始末をどうするつもりでいるんだか」
女は嘲弄を露わに「フン」と頤を逸らす。
「どうせすぐあたしのものになる宿よ。どう扱おうが、あたしの勝手でしょう!」
それに――と。女はたっぷり紅を塗った唇を嘗め、舌なめずりした。
「あたしに逆らうやつがどうなるか……きちんと目の前で見せてあげた方が。そこのお嬢ちゃんも、首を縦に振りやすくなるかもしれないからねぇ……!?」
「……やれやれだ」
ユーグは迎え撃つべく、腰の剣に手をかける。
と――
「――サティア!」
ずだんっ――!
轟雷が落ちたような、強烈に踏み込む音と共に――
床の木板を踏み抜かんばかりの勢いで乗り込んだ男が、焦燥を露わに薄暗い宿の中を見渡した。
時ならぬ闖入者に、女主人が不愉快そうに眉をしかめる。
真っ先に振り返ったロキオムがぎょっとのけ反るようにして後ずさり、それに気づいたユーグはそちらを見遣って――「おや」と愉しげに口の端を吊り上げた。
宿を見渡した男は、やがて酒場の奥でぼろ雑巾のように転がる少女の姿を見出したようだった。
「……サティア」
はっとしたように引き攣り、痛むように歪んだその面持ちは――すぐさま反転したように、激しい怒りの気配を帯びて。
男は――シドは、その瘦身から炎のような闘気をゆらめかせる。
ユーグは剣の柄から手を離し、降参を訴えるように両手を上げた。
「おい、依頼人様よ。
「はあ……?」
「かくて、正義の味方のご登場ってやつさ」
もはや他に仕様がないというように、
訝る女主人へ、ユーグは心から告げてやった。
「どうやら、この宿は今日限り諦めた方がいいようだ。怒れる虎の尾を、敢えて踏みたくないならな」
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