164.ひとつの幕引きとその先の話:『英雄』と『英雄譚』/シド・バレンス②


 琥珀色に澄んだコンソメのスープ。


 香ばしく薫り高い海老をふんだんに使った海老のグラタン。


 季節の果実のソルベ。


 そしてメインディッシュとして供されたのは、香草とたまねぎのソースで彩ったラムチョップであった。


 どれもこれも、紛れもなくこの街で随一の、一流の逸品であっただろう。

 ついつい無心でそれらのひとつひとつを堪能してしまってから、ふと我に返ったシドは、庶民である己が一人だけかくも贅沢をしている現状に、身の置き所がない心地を覚えずにはいられなかったのだが。


 対面で肉料理の皿を綺麗にたいらげた支部長は、そんなシドとは対照的な寛いだ表情で、口元に着いたソースをナプキンで拭っていた。


「実に素晴らしい晩餐でした。アナタのお口には合いましたか?」


「はい。とてもおいしかったです」


「それは重畳です。さて――メインの料理も終わったところで、そろそろこちらを渡しておきましょうか」


 ――と。

 支部長がテーブルに乗せてそっと滑らせたのは、ずしりと重たげに膨らんだ、ふたつの革袋だった。


「これは?」


「どうぞ、中をお確かめになってください」


 言われるまま、袋の口を結わえる紐をほどいて中を覗き込み。シドはぎょっと目を剥いた。


 銀貨だった。

 頑丈な厚手の革袋いっぱいにおさまっていたのは、大量の銀貨である。


「そちらの袋は《シェイプシフター》討伐の褒賞金です。オルランド支部の規定に則り、沿海州の共通銀貨で七万クロラが入っています」


 シドはその金額がどれほどのものか、慌てて脳内で計算する。

 慎ましやかに暮らすだけなら、向こう二年くらいはふつうに食べていける額である。


「こちらの袋は、《連盟》からあなた宛ての褒賞ということで。オルランド大銀貨千枚を用意しました」


「千枚……って」


 シドの記憶が確かなら、オルランド大銀貨四枚でメルビル金貨一枚分――大陸で広く流通するメルビル金貨はそれ一枚で、平均的な四人家族が一ヶ月不自由なく食べてゆける額になる。


「ちょ――っと、待ってください。一体どういうことですか? 討伐の褒賞金は《軌道猟兵団》が受け取るべきものですし、それにこんな大金まで」


「報奨金は、その《軌道猟兵団》からの預かりものです。記録として残る功績をその対価に得られぬというならば、せめて金銭だけでも受け取って然るべきであると」


 余りの額に狼狽するシドへ、支部長はあっさりと答えた。


「ワタシもその点は同感です。アナタ、此度の戦いで装備の一切を失ったそうではありませんか」


 そんなことまで知られていたのか。

 誰だ――というか、どっちだ。わざわざそんな話までしたの。


「聞きましたよ、アナタ。アナタはその鎧と服のすべてを石化の吐息ブレスに砕かれながら、その手に残った一振りの剣を携え魔獣の懐へ吶喊したのだと――おお、アナタの一糸まとわぬ逞しき肉体、その雄々しき全裸を晒しながら」


「全裸は重要なんですか?」


「遂には深々と突き立てたる剣は魔獣と共に奈落の底へ消え。しかし討滅の英雄はその身に傷一つ負うことなく帰還したと。そのなまめかしき全裸の肉体を、晴れ渡る青空の下へ帰還せしめたと!」


「全裸はそんなに重要なんですか……!?」


 得体の知れない戦慄に背筋が凍るのを覚えながら、呻く。


「かくてアナタは剣も鎧も、およそ装備と呼びうる一切を失った。そこからあらためて支度を整えなおすとなれば、先立つものはいくらあっても足りるものではないでしょう。受け取るべきです」


「仰りたいことは分かりましたけど……」


 鳥肌が浮いた二の腕を服越しにさすりながら、シドはもうひとつの袋へ視線を向ける。曰く、《連盟》からの報酬だという、オルランド大銀貨千枚。


「のみならず。アナタは今後、クロさんの望みをかなえるべく《箱舟アーク》探索へと臨もうという方でしょう。

 その通行料として支払いが認められるのはオルランド大銀貨のみ。アナタ一人であればいざ知らず、十分な戦力を整えたパーティで挑むこととなれば、銀貨は何枚あっても足りないくらいでしょう」


「こんな大金を受け取る理由がありません。……俺はそれに値するようなことは、何も」


「おや。これは異なことを仰る」


 へたくそな冗談を聞いたとでも言うように、支部長は大仰にすくめた肩を震わせて笑った。


「かの魔獣を撃退する第一の先駆けとなったのは、他ならぬアナタ、シド・バレンスである。それは複数の証言から確認され、アナタも先ほどお認めになった事実なのではありませんか?」


 英雄オルランドの叙事詩サーガにうたわれる伝承の魔獣、《キュマイラ・Ⅳ》撃退の。

 どうにも身の丈に合っていない気がしてならなかったが。

 だが――それでもこれは、前提として置くべきことなのだろう。そう、自分に言い聞かせる。


「これは……その褒賞だと仰るのですか」


「半分は仰るとおり。もう半分は、『我々オルランドの都合』といったところでしょうか」


 オルランドの都合。

 咄嗟に思い至れるものがなく眉をひそめるシドに、支部長は言葉を続ける。


「かの魔獣の完全な、一日でも早い『無害化』は、ワタクシどもの希求するところでもある、ということです」


 《箱舟アーク》へ潜る冒険者は――少なくとも、その何割かは――『入場料』を稼ぐために連盟の依頼を引き受け、日銭を稼いでいる。そうした余計な時間をかけられては困る、という意図だ。


 そこまで語ったところで、支部長は不意に力のない溜息を零した。


「……本来であれば広くその功績を讃え、はるかなる英雄オルランドの伝説に連なる二度目の戦いと記されて然るべき戦いです。にもかかわらず、今この時にそれができずにいるのは、恥ずかしながら我がオルランド市の、政治的な事情によるものでしかありません」


 支部長はテーブルに肘をつき、組んだ両手でその口元を隠すようにする。


「今宵のディナーに供された海老と羊肉ラムは、《箱舟アーク》内部からの交易品です。ワタシはこうして今日それらを口にし、明日も明後日もそれらを口にすることがかなう――それはアナタが、アナタ方が抜き差しならぬ危険な事態へ巻き込まれながら、なおもその雄々しき肉体を盾と変えて護ってくださったものだ」


 ――その時シドが気になったのは、あの羊肉ラムはもしや、《箱舟》の羊果樹バロメッツからもいだものだったのだろうか、ということだったのだが。

 それはある種の、現状からの逃避ではあっただろう。


 ともあれ、シドがそんな風にしている間に。

 上品な身なりの小男は、口元を隠した両手の向こう側で――嘆息にも似た深いため息をついたようだった。


「にもかかわらず、ワタクシどもはその英雄的献身に喝采を叫ぶことさえできない。何故ならば、未だ《箱舟アーク》の中には脅威が潜み、故にアナタ方の功績を公とすることは、その脅威が今なお払われずにあるという事実をも明らかとする行為だからです」


「それは昼間の話し合いでも伺ったことです。重々承知しています――どのみち俺は、《箱舟アーク》での功績を記録として残せる立場じゃなかった」


「そういうことではないのですよ、アナタ」


 かぶりを振る。焦れたように。


「これは英雄的行為の結実なのです。オルランドという都市における当たり前の営みが、その脅かされたるを誰一人として知らぬまま、ひそやかに護られたのです」


 それは決して、シド一人の力でなされたものではなかったが。

 だとしても、それは、


「アナタ方は『平和』を護ったのです。それは本来なれば記録され、広められ、讃えられて然るべき事績だったのです。ワタシはオルランドに生まれ育った一人の市民として、その献身に護られた一人として、アナタ方へ感謝を示す者であるはずだった」


 ――だが、そうはできない。


 何故ならそれによって失われるものは、その『英雄的行為』で護れらたもの、そのものだからだ。


「しかし、『これより先』はそうではないのです――何故ならアナタはクロ嬢の希望に寄り添い、かの魔獣を慰撫するための探索に臨むつもりでいらっしゃる。

 それは同時に、今この時にもかの魔獣に脅かされるやもしれぬオルランドへ完全なる安息を齎すだろう営為であり、『平和』を形とするものでもある。そうではありませんか、アナタ?」


 クロの望みを叶え、《キュマイラ・Ⅳ》に課された命令を書き換える。

 そうすれば、《キュマイラ・Ⅳ》はもはや人を襲うことはなくなる。あの《塔》から外へと連れ出してやることもできる。


 自分達が生き延びるために、クロへと負わせてしまったものを――それでようやく、取り除いてあげることができる。


 そして、


「アナタの栄達と多くの人々の幸いは、これまでそのことごとくが相反するものであったのやもしれません。ですが、これより先は違うのです――アナタの栄達と人々の幸いは、今や同じ方向を向いている」


 その事実を伏せ、秘密とすることで、多くの人々を護るのではなく。


「アナタはきっと、これまで数多の冒険における『英雄』となられた方なのでしょう。ですが、それは恐らく、ごく限られた人々のみが知ることでしかなかった――アナタはこれまで一度として、『』となることなくあられた方でした。それは素晴らしき営為であったでしょうが、しかしそれだけで終わってはいけない」


 どきりとした。鋭い槍の穂先で、心臓を貫かれた心地だった。


 自分が『英雄』などと呼ばれるような代物ではないとしても。

 それは、いつかにドルセンがシドを喝破した夜と、同じ切っ先を突きつけることばだった。


「何故なら、アナタはだからです。ゆえにアナタは『英雄』で終わってはいけない。アナタは『』となるべきだ」


 ――英雄譚。

 吟遊詩人たちが語る、数多なる冒険者達の物語。うたとして、あるいは物語として歌い語り継がれる、多くの英雄たちの叙事詩サーガ


「これよりアナタが為さんとするすべてが、正しく叶えられた時。多くの幸いのためにと伏せられたる真実は、遂に広く明らかとすることがかなうでしょう」


 《キュマイラ・Ⅳ》の脅威が真に鎮められ、すべてが平穏のうちに終息を迎えた時には。

 そして、


「その時を。新たなる英雄譚の訪れを――ワタシは心より待ち望んでおりますよ」

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