55.やらなきゃいけないことがいっぺんに持ち上がって、おっさん冒険者はあたふたしてしまいました。


 シドは早足で、賑々しく連なる露天の間を――舗装もなく、《箱舟アーク》への人通りがそのまま道として認識されただけのような砂利だらけの道を、早足に進んでいた。


 《箱舟アーク》の塔を、視界の芯に捉えながら。

 シドはいでいた。冷たい予感に、胸の奥底がざわざわと毛羽立っていた。


 走らなかったのは、息を乱さないため――習慣的な、単なる無意識の選択以上のものではなかった。


 ――息を乱せば、思考は荒れる。

 ――息を乱せば、肉体は疲弊する。


 それらは戦慄すべき加速度で、肉体のコンディションを万全の状態から遠ざけてゆく。そう叩き込まれたがゆえの、習慣的な選択だった。


「シド、ちょっと――待ってったら! シド!」


 ――だが。

 シドの早足は、フィオレにとっては全力で走るのと変わらない早さだった。元よりシドとフィオレでは、体力もさることながら足の長さ――即ち歩幅にも差がある。


 フィオレがシドの袖を引いてその行き脚を止めた時、彼女は完全に肩で息をしていた。うっすらと汗をかいた額に、透き通った金髪が張り付いていた。


「一体どうしたの、急に……さっきの事件、何か気づいたことでもあるの?」


「フィオレ、昨日の――」


 振り返って説明しかけ。

 ふと我に返り、シドは周りを見渡した。

 もとより人通りの多い露天街。しかも、余裕のないフィオレの声を耳に留めてか、じろじろとこちらの様子を伺っているらしき人目もある。


「フィオレ、こっち来て」


「えっ。ちょ、え?」


 あたふたするフィオレの手を引いて、大通りの露天街から脇道に入る。

 左右の建屋の壁以外には、窓のひとつもないような――人気ひとけのない奥まった路地で、ようやく脚を止める。


「シド……?」


 一度だけ通りの方を振り返り、誰もついてきていないのを確認してから。

 シドはフィオレへ向かい合い、彼女の薄い肩を掴んで顔を寄せた。


 ひぅ、とちいさな悲鳴を上げて身を縮めるフィオレ。

 一方で――そんな彼女の態度のおかしさに気づく余裕もなく。シドは息急きながら、声を潜めて切り出した。


「昨日の夜に俺がした話――《軌道猟兵団》の冒険者達が、水竜人ハイドラフォークの里から彼らが祭っていた《箱》を奪ったって話、覚えてる?」


「えっ? あ。あ――」


 フィオレはすぐに、その記憶へ思い至ったようだった。

 少し遅れて――ひどく複雑そうな、自己嫌悪のそれに似た苦い表情を浮かべたようだったが、それは一瞬のことだった。

 シドが怪訝に思う間もなく、フィオレは問い返してきた。


「――さっきの匪賊って、あの話の水竜人ハイドラフォーク達のことなのね?」


「ああ。おそらく彼らは、《箱》が偽物であることに――自分達が一杯食わされたことに気づいたんだ」


 もとより、彼らは《箱》を追跡するための附術工芸品アーティファクトを持っていた。自分達に渡された《箱》が欺瞞として用意された偽物であると気づけば、すぐに『本物』を奪還すべく、追跡を再開しただろう。


「サイラス達から聞いた一連の事件は、おそらくそういう事だ。俺は彼らの持っていた附術工芸品アーティファクトがどういう効果のものかは知らないから、推測交じりになるけれど」


 彼らは追跡を再開し、ジム・ドートレス達が待っていたあの仮小屋までたどり着いた。

 もぬけの空となった仮小屋を腹いせに焼き払い、その後、《箱》がオルランドへ持ち込まれたのを知って――おそらく彼らは、その時点で確信に至ったのだ。


「《箱》の中身――《鍵》の使いどころが、この《箱舟アーク》にある。少なくとも、《箱》を奪った何某が、そのつもりでいるのだろうってことをだ。だから内部での追跡と捜索を円滑に行うため地図を奪い、《箱舟アーク》へと進入した」


「つまり、水竜人ハイドラフォーク達は昨日の――ジム・ドートレス達を狙っているということ?」


「そういうことになる。けど、この状況はまずい。早いとこ彼らを見つけ出して、水竜人ハイドラフォーク達も止めないと」


「待って。待ってったら!」


 勢い込んで踵を返し、路地から飛び出しかけるシドの服を、フィオレが掴んで止める。


「そんなことだったら、何もシドがわざわざ割って入る必要はないんじゃないの? 彼らは冒険者だし――その、水竜人の里から秘宝を奪った盗賊、なんでしょう?」


 フィオレは――いくぶん頬を赤くしながら――言葉の途中から声をひそめた。

 ずいと顔を寄せたシドが、自身の唇に人差し指を当てて「静かに」とジェスチャーしたからだった。


「……冒険者なら、自分の身は自分で護るものだわ。まして、本当に水竜人ハイドラフォークに襲われるとしても、彼らの自業自得でしょう? 今更、親切に水竜人ハイドラフォークのことを教えてあげる理由なんて」


「――水竜人ハイドラフォークの戦士たちは、人間を見下している」


 苦い面持ちで、シドは唸った。


「というより、戦士でない──自分たちより『弱い』存在を、下に見ているんだと思う」


「それは、強靭な獣人種にはありがちなことだけど……」


「彼らは匪賊を装って、船に載せられた《箱》を奪還しようとしていた。彼らがわざわざ自分達の身分を偽装した理由、きみにも分かることじゃないか? フィオレ――きみなら」


 フィオレは当惑気味に言葉を詰まらせ、しかしすぐにシドと言わんとするところに行きついたようだった。線の細い美貌が、苦いものでも噛んだように渋く歪む。


「……奪われた秘宝の、奪還」


「ああ」


 フィオレが、《ティル・ナ・ノーグの杖》奪還に際し、命ぜられたことと同じ。


「これが《軌道猟兵団》と水竜人の間だけのことで済むなら、見なかったふりを決め込むのもいいかもしれない。けれど――《箱舟アーク》の中には、他の冒険者達もいる」


 《箱舟》に挑む冒険者すべてが、力と経験を備えたベテランとは限らない。

 もし、障害となる冒険者を水竜人達が『弱い』存在と見做し、彼らを排除するのが目的への近道と判断したなら、


「……彼らは既に一度、『』に騙されている。騙されたことに怒っているだろうし、であれば、この期に及んで『人間』に慈悲をかけたりはしないだろう。水竜人の襲撃で危険なのは、《軌道猟兵団》だけじゃない。彼らの周りの、同じ《箱舟》を探索している冒険者も、条件は同じなんだ」


 そこまで言ったところで、シドはさっと青褪めた。

 今になって自分の見落としに気づき、街の方を振り仰ぐ。


「そうだ、サティア――彼女も危険だ。彼女は水竜人ハイドラフォークに顔を見られてる」


「サティア?」


 唐突にあがった知らない名前に、フィオレが眉をひそめる。


「サティア……って、女の子の名前? ねえシド、それ誰?」


「いや、待て、待て……彼女の手元に《箱》はない、から、彼らはサティアを追跡できない。街の中にいれば追跡の恐れは低い、か? でも、報復の可能性は……彼らが仮に街中を通ったとしたら、今更、手遅れ? いや、でもまだ、けど今から街に戻ってたら、そもそも俺は彼女の家も何も知らないし」


「シド? シド、しっかり! そもそもサティアって誰なの!? あなたとどういう関係のひと!?」


 走り出しかけて踏みとどまり、ぶつぶつと唸りながらせわしなく街の方角と《箱舟》の方角の間で視線を行き来させるシド。そんなシドの袖を子供のようにぐいぐいと引いて、声を荒げるフィオレ。

 そして、



「――あたしが、どうかした? おじさん」



 路地の奥から、唐突に割り込んだその声に。

 シドはぴたりとうなるのをやめて、ばっと振り返った。


 裾の擦り切れた膝丈ズボンにえりなしのシャツ、その上にポケットの多いジャケットを羽織った、サイドテールの少女――サティア・イゼットが。


 きれいなアーモンド形の目を眇めた怪訝な面持ちで、喚き合うふたりを見ていた。

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