#6.5 記憶という、不確かな存在。

 これは、小学校からの数少ない親友であるみかんと、近くの公園で開催される盆祭に行ってみた時の話である。


 それは、8月上旬のある日。陽は既に地平線に落ちていって空間は闇に包まれつつあるときに、僕は自転車を漕いで近くの公園に向かっていた。


 数日前、みかんは突然地元で開催される盆祭に一緒に行こうと提案してきた。どうやら小学校のときの友達が来るかもしれないということで、もしかしたら約5年ぶりくらいに会えるかもと彼は躍起になっていた。


 僕らは中学受験して進学校に入学したせいもあって、地元の普通の中学校に行った友達とは卒業したそれっきり会わなくなった。たまに小学校の時の友達の噂をみかんを介して知ることもあったが、僕は直接彼らと話す機会など微塵もなかった。


 僕はもうあんまりその当時の友達のフルネームを覚えていない。かろうじて苗字くらいは分かる人はいるし、聞いたら分かるみたいな人もいるものの、顔と名前が一致せず記憶にない人も多くいる。それに比べ、他に進学校に入学して小学校以来当時の友達と連絡を取っていない僕の友達は、意外と覚えているようだ。


 そんなことを思った時、僕は残酷なやつなんだなと痛感した。


 皆が覚えているような記憶、想い出、ヒト……そんなものを殆ど僕は何処かへ置いてきた。


 そういえば、記憶に関して僕のこんなエピソードが脳裏に焼き付いている。



 それは確か小学校に入学して最初の授業だったと思う。教卓の目の前にある僕の机の上には、ツルツルピカピカの教科書やドリル。当時はそういうものを新鮮な気持ちで目を輝かせていた気がする。


 僕の隣の席には、なめこ(仮名)という女の子が座っていた。自分の名前を言って自己紹介を終えると、彼女は朗らかな笑顔で「私はのあ(なめこの下の名前)だよ。よろしくね」と名前を教えてくれた。幼くて無垢だった僕から見ても、その横顔が綺麗でとても可愛らしかったことを朧気に覚えている。


 言い換えれば、そのとき僕はもしかすると一目惚れしたのかもしれない。(こんなあやふやで曖昧なことしか言えないのは勿論のことながら、それが僕にとって本当に初恋に相当するものなのか、と残酷にも中学生になってなんとなく思っていたからだ。)


 最初の授業は確か算数だった。初々しく小学一年生の僕らは机に教科書を広げて、先生の方をワクワクしたような目で見る。


 ふと眼前にあった教卓のほうに目をやると、先生用の教科書がちらりと僕らの方を覗いていたのに気づく。僕はそのとき不意に何を思ったのか、彼女に


「あ、先生の教科書、見えてるよ」と小声で彼女に囁いた。


 すると、なめこは僕の耳元で「本当だねっ」と、それまた小さな声で応えてくれた。


 異性と話すのがこれが始めてではないにしろ、異性とちゃんと意識して話した経験というのがこれが最初であったから、鮮明にではなくとも脳裏に焼き付いている出来事ではあった。


 時は経ち、僕らが小学6年生の頃。僕など中学受験をする人たちは塾に通って必死に受験勉強に励んでいる頃だった。なかなか、なめこと一緒のクラスになれずにいたものの、6年生で一緒のクラスで学校生活を共にすることになった僕は内心嬉しい思いがあった。


「ねえ、◯△くん(僕の苗字)、確か1年生の時隣の席だったよね?」


 彼女は給食を班の皆で食べているときに話の流れでそう僕に訊いてきた。


 自分で言うと信憑性が無くなりそうで嫌だが、このような思春期が起こり始めるこの頃でも比較的女子と話すことが多かった僕はなめこと話す機会も多かった。


 彼女のこの質問の真意は読めなかったが、覚えていると暴露すると後で友達にからかわれるかもしれないと謎の警戒心を持った小心者の僕は


「あーそうだったっけ?覚えていないや」と素っ気なく応えてしまった。


「覚えてない?そっかあ……」台詞だけ聞けばなんとも気にしていないように聞こえた。でも、彼女はあんまり顔に感情を表さないクールな人だったものの、このときばかりは少し残念そうな、寂しそうな、そんな微妙な表情をしていたように思う。


 そんな彼女を見て僕は初めて「悪いことをしてしまったな」と申し訳無さを感じた。


 そしてとうとう何も言えず卒業式を迎え、僕は気持ちを封じ込めてその彼女など多くの友達とは別れた。


 それ以来、彼らとは一度も互いにコミュニケーションを取ったり、実際に逢ったりしていない。



 彼女は僕のことが好きだったのではないか、少なくとも好意くらい抱いてくれたのではないか、と勝手に過去のことを予想するのは慢心に過ぎないからしない。


 だが、彼女にとって大切だったかもしれない『記憶』を踏み躙ってしまった僕の愚かさに、腹立たしさを覚えてしまう。


 、なのだ。そのことに今まで一度も目を向けようともせず、何なら中学生以降恐らく積み上げてきたであろう想い出をもその価値を見いだせずに、ただ淡々と記憶が失くなっていく自分を、そういうものだと一般化してしまう。


 実際はそうではなかった。そうでないことには気づいていたのかもしれないが、目を背けていた。みかんや他の小学校からの友達、今の同級生は色んな過去の大切な想い出を覚えている。


 僕以外の人たちは、記憶の価値を僕以上に、遥かに理解し。記憶なんぞ馬鹿馬鹿しいと感じた僕のほうがよっぽど愚かで馬鹿馬鹿しい。


 こんなことを思っていたので、正直なところあんまりその祭りには行きたくなかった。最悪の場合、なめこと逢う可能性だって十分に考えられるし、名前を覚えていなくて気まずい雰囲気になることだって有り得る。僕が言っても場の空気を壊すだけだと思った。


 そんなことは口が裂けても言えないので、僕は純粋に盆祭を楽しもうとそのことには目を伏せて、彼の提案を了承した。


 2日あった盆祭のうちの1日目。大して広くもない地元の公園の広場で様々な屋台が立ち並び、中央には太鼓やスピーカーの乗っている高台がある。そこから放射状に伸びている提灯が夏の夜をぼんやりと照らしていた。


 思った以上に人は多かった。あの新型ウイルス感染症の蔓延で祭りがたちまち中止になっていき、数年経ってようやく終焉の眼差しが見えたところで、久しぶりに開催されるからだろうか。


 みかんと一緒に焼きそばやかき氷でも食べながら、誰か知り合いはいないかと目を凝らしていると、何人か見覚えのある人たちが見えた。


 しばらくして僕らがあったのは十数人の男子のかつての友達だった。幸い僕のことは覚えてくれていたようで、「まさか◯△?」と呼ばれて、そうだと応えるとすごく驚いていた。


 かろうじて男の友達の苗字くらいはなんとか思い出せたような気がした。


 その日は夜遅くまで、小学校の時の思い出話や最近のエピソード、恋バナなど他愛のない話を咲かせて別れた。


 次の日も同じように焼きそばを食いながらふたりで待っていると、今度は何人か女子の小学生以来の知り合いがいるのを発見した。


 そこで僕は驚愕した。彼女らの顔を見ても何も思い出せいなかったのだ。


 自己紹介がてら名前を言ってくれるものの、印象に残っている人以外何も浮かんでこない。そんな自分自身に思わず虚無感に襲われて放心状態に軽く陥っていると、みかんが


「この人誰だか分かる?」と僕の肩を擦って彼女らに訊いた。


「もしかして◯△?!やば、なんか変わったぁ」


「お、お久しぶりです。5年ぶりくらいですかね、どうも◯△です」


「変わったけど何も変わってない気がして」


「何ですかそれw」……この時僕は表情しか笑っていなかったと思う。


「ていうかふたりとも彼女とか出来た?」


「みかんはー……あーどうやっけ。知らないや」僕はそう応える。


「あーみかんはなんかいそう。例えば……さとう(仮名)さんとか?」


 さとうとは、僕らと同じように中学受験で合格して現在同じ進学校に通っている女子である。


「あーそうだっけ?」僕は冗談でそう言うが、実際みかんとさとうはかなり仲が良いことは確認済みである。


「うっざwwww」


「本当のところどうなん?」女子の一人がみかんにそう訊く。


「いやぁ……正直こいつ(僕の方を指差して)に知られたくないから言えんわ」


「ええーなんでえ」「けちだわーみかん」


 僕はここで確信した。この2人、付き合ってるわ。ここで否定しないのはもはやそういうことを晒しているようなものである。


「ちなみに◯△は?」


「いやいやこの有り様でなんとなく分からん?おらんよそんなの」


「ええーそうなん?あれじゃないん、勉強が恋人、みたいな?ww」


「そんなん気持ち悪いからw」


「実際のところいたりして。こういう人が一番怪しいまである」


 それは杞憂に終わる、と僕は内心彼女らに伝えたかった。


 そのあと昨日と同様に他愛のない話で少々盛り上がってから、義理にでも数年後の再会を約束してから別れた。


 十中八九、僕は同窓会などには赴かないつもりではあるから、再会の日はもうない。


 結局、なめこらしき人物は現れなかった。もしかしたら、居たのかもしれないが、僕の記憶が曖昧で彼女の顔すらよく覚えてなかったために、気づかなかっただけなのかもしれない。


 もし向こうが僕のことを気づいたとしても、気まずいだろうから避けるような気がする。


 再会したかったのか、直接顔を見合わせたかったくなかったのか。謝りたかったのか、告白したかったのか。はたまたなめこが現在どのような姿になっているのかひと目でも眺めたかっただけなのか。


 僕の真意は、僕にも解らない。解りたくない。


 こんな理由があってなのか定かではないが、こんな捻くれた性格のせいで恋愛というものをしてみようと思えない。思わない。思う権利がない。義務もなければ、資格もない。


「いやー久しぶりに会ったけど全然変わってなかったねー。いつかまた会えるといいけど」


 みかんはそう帰り際に僕に言った。


 彼は終始一貫して楽しそうに彼らと話していた。勿論5年という期間があったせいで、微妙に距離が出来たようには思うし、小学生の頃のようにタメ口では話せないところがあった。


 それでも、彼は小学校時代の思い出話に花を咲かせていた。


 記憶という、僕にとっては概念上でしか触れることも出来ず、自分で制御することが容易ではない不確かな存在を慮り、大事に事ができない僕は、僕は―――


「あ、ああ。そうやな。いずれまた逢う日が来るよ、きっと」


「だといいね」


 ―――とも、無慈悲にお別れをも告げずに去っていくのだろう。


 

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