第4話 誓い
9月15日金曜日10時40分を過ぎ、私は、自分のベッドサイドのテーブルに向かった。
紙は、親友に手紙を書く時用の、薄い桜色の便箋。ペンは藍色のペンを使った。どんな紙でも、普通のペンでもいいと言われていたが、特別なことを書くのだ。特別なものを使おうと思った。
・私は義父に勝っています
・私は夫と幸せに暮らしています
・私は病気が治り、薬を飲まずに暮らしています
実際に書いてみて、そうなりたいのだ、そうしたいと思っていたのだ、ということが明確に言葉になって、ドキドキした。
これが叶うことがあるのだろうか?
否、多分、これは自分自身への課題なのだ。
そう思った。
「書きました?」
紫が尋ねてきた。
「うん。叶えばいいんだけどね」
弱く笑って答える。
「『そうなる』って言い切ることって『覚悟』が必要ですもんね」
「そうだね」
私は、目を閉じて頷いた。
孝宏のスマホにメッセージを入れた。
「話したいことがあるの。近々来れない?」
「……決めてくれたんだね」
そう言う孝宏の声は優しい。
「決めた」
私のその言葉に、孝宏は鞄から緑色に縁取られた紙を出してきた。彼の方は既に書いてあった。
「ねえ、孝宏は私と離婚したい?」
「え?」
「孝宏の気持ちを聞いてるの」
「だって、このままじゃ、お前が……薫が辛すぎるだろ? 俺ももう辛いんだ」
「『私が』じゃなくて、『孝宏が』私のこと、どう思ってるのか聞きたい」
「聞くまでもないだろ? 一番大事だよ。だから……」
彼は、私の目を真っ直ぐ見た。
「一番大切な人を、これ以上苦しめたくないんだ。わかって……薫」
「……わかった」
孝宏は再び俯いた。彼の膝に置かれた手が、悔しそうに目一杯握られている。
「別れないよ、孝宏」
「えっ?」
彼が驚いて顔を上げる。
「あなたがそう思ってくれている限り、他の人に何を言われようと関係ない。」
「でも!」
「決めたの。自分の一番大切な人と生きていくって」
「……」
「だから、実家へも帰らない。退院の許可が出たら、ちゃんとあなたの待つ家に帰るから」
私の意外な言葉に、孝宏は何かを考えているようだった。暫くして、
「わかった。俺も、薫が帰れるようにしておくよ」
そう言って、私の眼の前で、緑の紙を破った。
そうなのだ。極めてシンプルなことだったのだ。私の本当の気持ち、ベースとなる気持ちに気付けば、答えは自ずと見つけられた。
「彼と一緒に生きていきたい」
私にとって、一番大切な気持ちは、それだけだった。それが絶対である限り、もう何も迷うことはない。
そこから、急激に病状は回復に向かった。
「石野さん、少しスポーツと作業療法を試してみませんか?」
主治医に言われた。普通の生活に戻るための、ちょっとしたリハビリだ。
私は、朝30分の軽いスポーツと、アクセサリーを作る作業に参加した。1時間の外出や病院周りの散歩も許可された。
「調子、良さそうですね」
紫が微笑みながら話しかけてくる。
「うん。ありがとうね」
「え? 何が、ですか?」
「あの『誓い』を書いてみて、改めて、自分と向き合うことができたから」
「そうですか。良かったです。私は何もしてませんけどね」
そう言って、また紫は微笑んだ。
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