三.ウサギとハリネズミ

 ドンドンドンドン!! 部屋の扉が激しく叩かれる音に俺は起こされた。


「ヨー、早く朝ご飯食べなさい! お母さん片付けられないじゃない! お母さん今日は休みじゃないのよ!!」


 だったら自分達の分だけ片付けて、さっさと仕事に行きゃいいのに。俺だって自分の食器なら洗って構わんのよ。ただ、そうするとお袋が「じゃあ今度からお父さんとお母さんの分もお願いね」とか言って、全部を放置して丸投げしてくるから、やらんことにしてるだけだ。だから


「わーってるよ」


 返事しながら急いで起き上がって、寝巻のまま食卓に向かった。


「あれ、父さんは?」

「とっくに仕事に行ったわよ、今何時だと思ってるの」


 言いながらお袋は、自分の湯呑コップに茶を注いで席に着いた。匂いからすると、眠気覚ましの香草茶ハーブティーみてえだ。

 そう言やお袋も昨夜は、俺が寝るちょっと前まで親父の説教を聞かされて、親父がやっと寝た後に晩飯の洗い物してたな。ってことは俺より寝たの遅いはずなのに、いつも通りに起きて朝飯と親父と俺の弁当用意したのか。結婚して五十年近い主婦の長年の習慣ってだけかも知らんけど、こう言うトコは素直に感心する。

 もっとも、それで孝行心出して下手に「手伝おうか」なんちゅーと、やるつもりのねえことまで全部押し付けてくるから、絶対に言わんけど。


 まだ純真だった初等生の頃、親父に付き合わされて真夜中まで起きてたお袋が大変そうだと思って「何か手伝おうか」って言ったことあんだよ。そしたら「じゃあお母さん昼寝するから、晩御飯作っといて」って放置された。

 初等生が家の手伝いで、誰が家族四人の晩飯作りを全部丸投げされるとか思うかよ。おかずを一品作るどころか、包丁とか持ったこともねえ、焜炉こんろの火加減も分からん、そばに行くと「台所が狭いから邪魔」って追い出されてお袋が料理するトコなんか見たことねえ、それでも皿を出したり煮物を盛りつけたりする程度なら出来るから、と思っただけなのに。そもそもお袋は、何を根拠に俺に晩御飯作るの任せて放置しても大丈夫だと思った訳!?

 言うまでもなく結果は惨憺さんたんたるモンで、お袋にゃ「食べ物を無駄にして」とか「自分からやるって言い出したんじゃない」とかいろいろ言われたけど、肉を焼くときは塩胡椒せんと味が出ん、つーことも知らんかった子供に料理を教えるでも様子を見るでもなく放置したお袋に、責任がねえとは言わせん。訳も分からず泣きながら一人で肉や野菜を切ったり焼いたりしてたら、初等学校から帰ってきた兄貴が手伝ってくれて、最後の方だけはちょっとマシなモンが出来たけど。

 以来、俺は固く誓ったのだ。お袋に手伝えって言われとらんことは、出来ることでも絶対にやらんって。当然だろ。手伝えって言われたことだって、本当はやりたかねえよ。お袋を手伝って、また似たような目に遭うのはだ。

 せめてお袋が二人で手分けして早く終わらせようねって人なら、まだ俺も手伝う気になれただろうよ。でもお袋は、全部を自分でやるか、全部を俺に丸投げするか、しか考えてねえ。どうしてそう両極端なんだよ。

 教えてって言っても一方的にしゃべりまくって、聞いたことねえ用語使ったり「してして」みてえなぼんやりした言い方されたりで、何言ってるのか俺にゃさっぱり分からんのに「教えたから、さぁやってみろ」って具合だし。これで若い頃は幼稚園の先生になりたかったってんだから、それを阻止した祖父じいちゃんの功績は大きいと思う。


 それはともかく、朝飯の並んだ席に着くとお袋が開口一番


「あんた、今日は仕事は?」


 ほら来たよ。昨夜は親父の愚痴と説教でそう言う話する機会がなかったからな。


「ダグ小父さんから仕事の手伝い頼まれててさ」

「あんたが? 何の修理が出来るのよ?」

「魔技を使った玩具なんだけど、小父さんが魔技のことは分からんから俺に手伝って欲しいって。でも俺も習ったの昔過ぎて結構忘れてるから、教本見りゃちょっとは思い出すかなって」

「ふぅん。あんたにお兄ちゃんと同じことが出来るとは思えないけどね」


 本人に面と向かってそう言うこと言うか。


 お袋は本当に昔っからこうだ。兄貴にゃそう言うこと絶対言わんのに、俺のことはすぐ腐す。俺に魔技手の素質がねえって分かったとき、「だからあんたに出来る訳ないって言ったじゃない」とか抜かしやがったの、今でも忘れとらんからな。


「教本の入った箱はあったからさ、要る奴見つけたら、小父さんとこに行ってくるよ。たぶん今日は一日小父さんとこにいると思うけど、もしかしたら調べ物でおらんかも」

「調べ物って、何処で?」

「そんときにならにゃ分からんよ、いくつか心当たりはあるけど。もし他んトコに行くとしても、行先なら小父さんか小母さんに言っとくから」

「ならいいけど。じゃ、お母さん片付けたら仕事行くから、家出るときはちゃんと鍵かけとくのよ」

「はいはい」


 お袋がこう言うことを聞きたがるのは、別に俺を心配してる訳じゃねえ。俺が毎日何処で何してるのかを逐一把握しときたいのだ。ダグ小父さんやエマ小母さん相手なら、気を遣わず直球で聞けるからな。これ以上追求せんのも、その後のことはダグ小父さんたちに聞きゃいい、と思ってるからだろ。


 それに気付いたのは成人してすぐの頃、日雇い仕事が終わった後に誘われて飲みに行ったときだった。居酒屋で一通り飲み食いして盛り上がり、二次会に行くかと店を出ると夜間警ら隊がいつもより多かった。何事かと思ったら帰宅せん行方不明者の捜索願が出されたとかで、名前を聞いたら俺だったっつー……飲みに行くから帰りは遅くなるって連絡したのに。以来、毎日俺はその辺で遊んでる子供たちより早く家に帰り、俺を飲みに誘う奴はもうおらん。

 それだけじゃねえ。頑張って定職に就いたら就いたで、お袋は俺の仕事ぶりを必ず一度は見に来る。だから職場の誰もがお袋の顔を知ってて、何処かでお袋に会うたび俺が職場で何をしてたか話してたみてえだ。お袋の方から根掘り葉掘り聞いたんかも知れんけど。お袋は実家の食堂をずっと手伝ってたせいで、大抵の人から「いいお母さん」って言われる程度にゃ外面もいいから、同僚からすりゃ単なる世間話のネタだったんだろうけど、俺にしてみりゃ職場での出来事が何もかもお袋に筒抜けな訳で。俺から話したんならともかく、お袋に知られたくねえことがいつの間にか知られてるとか、気持ち悪くて仕様がねえぞ。

 例えば仕事で失敗したこととかさ、わざわざ家じゃ言わんのに――言ったらお袋に絶対「あんたはやっぱり」って言われるかんな――、お袋はいつの間にか知ってて、俺が何か失敗するとすぐ引き合いに出すんよ。気持ち悪いだろ? それで嫌になって何度も転職したけど、何処に行ってもお袋がそんなんだから長続きはせんかった。

 実の親が犯罪的尾行者ストーカーとか、マジでたちくそ悪いぞ。自分勝手な思惑で保護者の権限を悪用して、子供の私生活プライバシーを侵害しまくって、子供の自立と人生を妨害すんだからな。ああしろこうしろ言われん分、首輪で繋がれた犬の方がよっぽどマシだ。


 とにかく話が一通り終わったトコで、俺は急いで朝飯を食った。昨夜探し出した箱の中から教本を引っ張り出さんといかんのもあるけど、隣で香草茶飲みながら俺を見てるお袋の圧が酷いからな。食い終わった食器を台所へ持って行って、そのままさっさと部屋へ引っ込むと、すぐ台所からカチャカチャ食器を洗う音が聞こえてきた。


「さて、俺も早く教本探してダグ小父さんトコに行かんと」


 昨夜探し出した箱を開けると、樟脳防虫剤のにおいがむわっと広がった。お陰で虫にゃ食われてなさそうだ。

 樟脳の包み紙の下、教本の上にゃ古びた紙袋が置かれてて、持った感じ、当時使ってたいろんな教材がまとめて入ってるっぽかった。羽ペンの予備、魔技触媒の基本教材一式セット術式印メソッドを描くための定形テンプレート定規や歯車式定規――ペン先を定規の穴に突っ込んでグルグルやると花みてえな模様が描けるアレ――に、この小っちゃい無地の箱は確か卒業記念品かな。紙で包まれた厚みのねえ何かも入ってて、何だろと思いながら手に取ったら、ああ、この板みてえな感触は術式陣モジュールが描かれた教材の円盤の束だ。あの回り灯籠の術式陣モジュールにも似てるし、もしかしたら参考になるかも。念のため、包みを開けて中身を確かめ、一緒に持っていこうと思って包みごと背嚢リュックに放り込んだ。

 教材の下、箱の中は懐かしの教本がみっちり詰まってて、よくこんな綺麗に押し込んだモンだと感心したけど、今は時間がねえ。指を入れる隙間もなかったんで箱を傾けて、出来るだけ中身が崩れんよう気を付けながら教本の束を引っ張り出して確認すると、あったあった。お目当ての、魔技幾何学の初等教本。


 魔技幾何学ってのは魔技に使われる図形に関する学問のことで、初等課程で扱うのは二次元図形だけだから、ほぼ術式陣モジュールに関する内容と言っていい。中等部の三年間は、もっぱら二次元の術式陣モジュールだけを勉強するのだ。

 ちなみに魔技に関する図形は他にもいろいろあって、三次元や四次元以上の術式陣モジュールは高等部以上で習う内容だし、それ以外で代表的なのはやっぱ「魔技文字」かな。ただし“文字”って呼び方からも分かると思うけど、元々が魔技語を書き記すための記号として発達したモンだから、学校の教科としては魔技幾何学じゃなく、魔技語学の範疇はんちゅうになる。

 魔技の図形は「効果が固定された術片コマンド」だから原則として柔軟性にゃとぼしくて、それでいろんな図形を複雑に組み合わせんといかんのだけど、例外的に魔技文字は組み合わせが自在で柔軟性があって、だから魔技文字はいろんな術式プログラムに使われる。回り灯籠の術式陣モジュールにもそれっぽい図形があったし、念のため魔技語学の教本も持ってくか。

 探し出した教本は二冊とも、ずっと綺麗に使ってて、落書きも全くしとらんから、樟脳のにおいさえ無きゃ三年前の教本と言っても通じるかも知れん。 


 思い出すなぁ……誰の手垢も付いとらん新品の教本を、初めて手にした嬉しさ。


 俺の使う物は服から教本から何から、兄貴のお下がりばっかだったけど、魔技手学校で使った教本だけは全部が新品だった。単に、兄貴のときと俺のときとで教本が変わったからなんだけどね。それでも、他に誰も使ったことねえ新品の本を手に入れたことが嬉しくて、三年間大事に綺麗に使ったモンだ。

 ちなみに魔技手学校の教本は、少なくともこの国じゃ三十年くれえ前、俺が入学するちょっと前に統一された。兄貴が入学したときにゃまだ統一されとらんかったから、俺が入学する一年か二年か前の話だ。

 兄貴の頃の教本は、先人が作った奴を学生が書き写して作るモンだった。いわゆる写本って奴だ。学生に内容を覚えさせるのが主な目的だったらしいけど、作った写本を新入生や古本屋に売ったり出来て、学生にとっては良い小遣い稼ぎだったらしく、一人で何冊も書き写す学生もいたそうだ。兄貴も入学してすぐの頃、部屋に引き籠ってひーひー言いながら何か書いてた時期があったけど、後で考えるとあれ教本を写してたんだろな。

 でも人の手で書き写す以上、書き間違いは避けられん。なんたって魔技を習い始めたばっかの学生、素人に毛が生えた程度の子供が書き写すんだからな。それも学生のほぼ全員が書き写すから数が多すぎて、内容も精査されることは滅多になかったらしい。

 更に言や先人が作った写本を一人一人に配って書き写してたから、字の上手下手もあって字を読み違えたり、内容を勘違いしてたりで、小さな書き間違いが長年積み重なった結果、同じ教本のはずなのに内容が全然違ってたり、酷いのになると実在のヤバい魔技に似た内容になってたりしてたらしい。それが分かって大問題になって、それで遂に写本じゃなく、木版刷りの教本が作られることになったとか。初等学校の教本は戦前から木版刷りだったから、そう言う意味じゃ魔技手学校の方がかなり遅れてたんだな。で、木版刷りにするに教本の内容も全面的に見直されたそうだ。

 更に言や、写本の時間も要らんくなって教育課程カリキュラムも結構変わったらしく、確か兄貴の頃よか実技の時間が増えたんだったかな。

 古本屋なんかに過去売られた写本も、全国魔技手学校協会が大々的な高額買い取り運動キャンペーンをやったおかげで、三十年近く経った今じゃほぼ全て回収され、古本市場で見かけることは滅多になくなった。稀覯きこう本と言や聞こえはいいけど、正確性は怪しいから偽書みてえなモンかもな。


 そうやって新しく作られた俺のときの教本はだいたい、既存の教本を当時の権威的な魔技手たちが内容を精査して編さんしたモンらしいけど、中にゃ一人の魔技手が完全に新しく書き下ろしたモンもあって、この魔技幾何学の初等教本も、そのひとつだ。

 著者のシルヴァン・ベルって人は、他の教本でも内容を一部書き下ろしたり監修してたりしてて、特定の分野に専門化しがちな魔技手の中にあって幅広い分野に造詣の深い、なんかすげえ人だったらしい。当時の俺の担任に言わせりゃ、担任が魔技幾何学を習った云十年前より系統立てて整理されて圧倒的に分かりやすくなってたとか。

 教わる側にしてみりゃ実にありがたい話だ。実際、卒業して三十年近く経って、その間全く教本を開いたことなくても、細かいトコは忘れてるけど大雑把ざっぱな基本は今でも覚えてるかんな。

 ちなみに別の教本を編纂した魔技手の中にユーノス・ベルって同じ苗字の人がいるんだけど、息子さんだそうで、息子が教本の編纂者ってことは、このシルヴァン・ベルさん、当時既にそこそこ歳いってたはずだ。それで当時最新の魔技幾何学知識を初心者に分かりやすく書き下ろしたとか、歳取っても本当に凄え人だったんだろうなーと思う。だって基礎中の基礎だと大きな変化はなさそうに思えるけど、下手すりゃ新しく見つかった魔技の法則で、基礎中の基礎すらひっくり返ることだって普通にあんだぞ。


 でもこうやって日焼けも虫食いもなく、少し草臥くたびれてるけど記憶のままの綺麗な教本を見てると、時間もねえのに、つい昔のことを思い出して、いかんね。

 あの頃はまだ若かったし、何も知らんかったし、何もかもが楽しかった。念願の魔技手学校に入って、魔技の起こす不可思議を見るたび、俺も勉強すりゃ将来こう言うことが出来るようになるんだって心躍らせてた。同級生クラスメイトに誘われて〈将兵棋チェス〉やら〈孤島の開拓〉やら〈野鳥保護区〉やらの盤上遊戯ボードゲームを初めて遊んだのもあの頃だった。


 そう、あの頃はまだ、未来だの希望だのって奴を信じてて、世界は明るく華やかに色づいていた。


 ……分かってる。変わったのは俺だけで、周囲は何も変わっとらん。俺の中で世界の見え方が変わっただけだ。

 知らずに聞きゃ思いやりに聞こえる言葉も、そうと気付きゃ思いやりなんかじゃなかった。言ってる本人は本心から親切で良いこと言ってるつもりで、その言葉が相手を傷つけてるとか想像もしとらん。でもそこににじむ本質は、耳障りの良い言葉で周囲から良く思われたいだけの独善エゴイズムだ。

 だから俺はもう、上っ面だけの言葉は信じん。上っ面だけの言葉を吐く奴も信じん。親切の振りをした自己満足で俺をズタズタにした連中を決して許さん。俺を生んで、生まれた時から一緒に住んでるからって、問答無用で信じてもらえるとも何をしても許されるとも思うなよ。


 いかんいかん、つまらん余計なこと考えてる場合じゃねえだろ、俺。今日は早くダグ小父さんの所へ行かんと、昨日の女の子がいつ店に来るか分からんだろ。ざっと教本をめくって虫食いがなさそうなことを確認し、仕事用の背嚢に詰めた。着替えて部屋を出たときにゃ、お袋はもう仕事に出てて、食卓に俺の弁当と水筒だけが残されてた。


 これが俺じゃなくて兄貴だったら、お袋は先に家を出たりせんだろうな。お袋はいつもそうだった。

 否、そんなん今じゃもうどうでもいいことだ。昔ならともかく、親父もお袋も俺を愛しとらんのは、とっくに分かってんだ。なのについ、そう思っちまったのは、やっぱ昔のことを思い出してたからなんかな。


 物心ついた頃から覚えてる限り、ほとんどの場面でお袋の態度は兄貴と俺とで違ってた。それでも俺は俺なりに納得してた。兄貴のお下がりばかりなのは我が家が貧乏だからだし、兄貴よりって言うんだから、今の兄貴と同じ歳になったときにゃ今の兄貴と同じ扱いをしてくれるんだ、と。

 でも俺がそのときの兄貴と同じ歳になっても、俺の扱いは何も変わらんかった。一人でお使いに行かせてもらえんかったし、初等学校に上がっても自分の部屋はもらえんかったし、家事を手伝っても小遣いはもらえんかった。

 もし兄貴と俺が逆だったら……とか考えたこともあったさ。でも兄貴が実家で日雇い人夫、俺が王都で貴族の傍仕えだったとしても、お袋は変わらんだろうな。兄貴を毎日毎日下にも置かんくれえ大事に可愛がって、兄貴の好物ばかり晩飯に出して、俺にゃ全然くれん小遣いもあげて。親父の方は、自慢話のネタが俺に変わるくれえだろうけど。

 もうひとつ、生まれる順番が逆だったら……これなら今よりはマシだったかも知れんな。初めての子供は男女関係なくかわいいって聞くし。気分が悪いって言ったのに放置されることも、動けんくなるくれえ悪化した後に「なんで言わなかったの!」って理不尽に怒られることもねえだろな。でも生まれる順番を変えることなんぞ出来ん。だから考えても虚しいだけだ。


 んな「もしも」が魔技で叶えられるなら、叶えたかった。でも魔技は御伽噺おとぎばなしの“魔法”と違って、子供の頃に夢想したような万能の術じゃなかった。

 異界からもたらされた、曲がらん現実を、ちょっとだけ曲げる夢。実際に現実を変えることが出来ても、すぐにはかなく消える幻と変わらん。

 そして魔技を世界に齎した異界――一般にゃ「魔界」と呼ばれる――とこの世界のつながりは薄れつつある。魔技は少しずつ力を弱め、魔技に由来する魔物クリーチャーだの獣人アニマルフォークだのは緩やかに滅びつつあった。親父やお袋が子供の頃はまだ身近に獣人がいたそうだけど、戦後ほとんどが国外に移住したのもあって、今じゃまず見かけんしな。


 この世界から、いつか魔技の消える日が来るとか、あの頃は想像したこともなかったけど。


 あ、別にいつか魔技がこの世から消える儚さに絶望して物の見方が変わった訳じゃねえぞ? 今すぐ魔技が使えんくなるんじゃねえんだし。

 俺を変えたのは魔技とは全然関係ねえ、個人的で矮小で歴史にも残らんようなことで、でも俺にとってはこの世の何より大事なことだった。そんときに俺は死んだ。肉体的にゃ変わりなく生きてるけど、俺の心は死んじまった。だから今ここにいる俺は、昔の俺の残りかす、かつて俺だった人間の抜け殻が、惰性で生きてるだけの存在だ。


 魔技手学校に通ってた頃の――俺の心がまだ生きてた頃のことを思い出したトコで、世界は色褪せたまま、失ったモンは戻らん。見えん振りしたトコで、見えるようになったが消えてなくなる訳じゃねえし。もし見えんままだったら、世界はもっとずっと綺麗きれいだったのに。

 本当は綺麗じゃねえ世界でも、綺麗に見えて綺麗だと信じてられんなら、その方がずっと幸せだ。だから世界が綺麗だと信じてる奴に、わざわざ世界の汚さを教える気もねえ。教えて他人が不幸になるのを喜ぶ趣味もねえし、そもそもを教える程価値のある人間なんぞ何処にもおらん。わざわざゴミを別のゴミに変える努力をする程、俺は暇じゃねえし気力も余っちゃおらん。


 だから、親父やお袋が俺のことをどう思おうと、どう扱おうと、もう俺にゃどうでもいいことなんだ。俺もまだ純粋だった、親父やお袋を信じてた頃の考え方を未だに引きずる部分もあるけど、どうせあいつらがゴミなのは変わらんのだから。


 さ、くだらん感傷はそろそろ切り上げて、ダグ小父さんの店へ行こう。あの子はまだ、世界が綺麗だと夢見てていい歳だ、その夢を守ってあげるのも大人ってモンだろ。

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