第13話

「ど、どうしてわかったの!? ひょっとして涼太くんて、超能力者とかいうオチじゃないわよね?」

「ないです。というか、さすがにわかりますよ。勢いあまって奥さんって言ってましたし」

「あ……」


 香織さんは口を滑らせたことが恥ずかしかったのか、それとも不倫がばれたことが恥ずかしかったのか、小さく咳払いをしてから、姿勢を正した。


「相手はあたしより20歳も年上の人でね。向こうからしたらあたしなんて小娘って感じでさ」

「……」


 ぼんやりと遠くを見つめる香織さんの突然のカミングアウトに、僕は少々戸惑ってしまう。


「でも、その方とお付き合いしてるんですよね?」

「うーん……まあ、ね」

「訴えられたりしませんか?」

「そりゃ、奥さんにバレたら訴えられるだろうね。悪いのは完全にこっちなわけだし。言い訳のしようもないよね」

「……ですね」

「意外とはっきり言うのね。そこは好きになったんだから仕方ないですよ! って味方してくれないんだ」

「はい、不倫は最低の人間のすることですから」

「……あはは……はは、そうだね」


 とはいえ、僕も旦那さんのいる人を好きになってしまったので、あまり強く言える立場ではない。もちろん、不倫なんてするつもりはない。はじめから誰かを傷つけることが確定している恋愛なんて、故意に引き起こす傷害事件と何ら変わらないと思っている。不倫は犯罪ではないが、世間からは大罪人として見られることがある。不倫をした芸能人などがその良い例だ。場合によっては、罪を犯した人よりも非難されることがある。それくらい、世間は不倫に厳しいというのが、僕の不倫に対するイメージだ。


「でも、そういう涼太くんだって、恭子のこと好きなんだよね?」

「……はい。好きです」

「おっ、急に男らしくなったじゃん」

「どうせ、もう香織さんにはバレてしまっているので」

「開き直ったってこと?」

「開き直ってなんていませんよ。ただ、誰かに話したかったのかもしれません」

「ずっと秘密にしているのがしんどくなったとか?」

「どうなんでしょう? ……僕、今まで人を好きになったことがなくて、初めてだったんですよ、人を好きになったのって」

「初恋、か……」

「高2で初恋とか、遅すぎて笑っちゃいますよね」


 作り笑いを浮かべる僕とは違い、香織さんはとても真剣な顔をしていた。


「笑わないわよ。それだけ慎重だったってことは、それだけ本気だってことじゃん。ある意味羨ましいかな」

「相手が既婚者じゃなければ、確かにそうかもしれませんね」


 しかし、僕が初めて好きになった人には、旦那さんがいるのだ。いつまでも想い続けるのは不健全だと思う。


「恭子、和也さんとうまくいってないんだよね」

「……」

「………」


 香織さんと目が合った。彼女はじっと僕の目を見つめていた。


「どうして、それを僕に言うんですか?」

「ちなみに、和也さん過去に生徒と浮気してるんだよね。それで、結婚から一年ほどで離婚危機」

「だからっ、なんで僕にそんなこと言うんですか!」

「たぶん、まだ浮気相手と続いてるんじゃない?」

「……っ」


 胸の内側から、自分のものとは思えない感情が湧き上がってくる。一之瀬の家で見たあの男への怒りが、黒い炎となって燃えていた。


「罪悪感、少しは消えたでしょ?」

「……」


 それは……どうだろう。

 ただ、そんな男とはさっさと離婚してしまえ、そう思ったのは事実だ。


 もし、仮に、恭子さんが離婚したら……。

 そんな馬鹿げたことを考えてしまう。


「あたしの彼氏はね、毎朝奥さんに残業してこいって言われるんだって」

「残業……?」

「早く帰ると奥さんの機嫌が悪くなるのよ」

「どうしてですか?」

「安月給の旦那の顔は見たくないんだって」

「二人は、その……愛し合って結婚したんですよね?」

「うん、でも休みの日は、家に居ると露骨に嫌な顔されるの。何か言い返すとあんたなんかと結婚しなきゃ良かったって、ヒステリックに叫び散らされるんだって。だったら早く離婚して、あたしにちょうだいよって感じ」

「……しないんですか? 離婚」

「子供がいるからね。来年中1らしい」

「中1!?」

「ちなみに奥さんとは10年間セックスレス。あたしと出会って10年振りにセックスしたって、嬉しそうに言ってたし。あっ、ごめん。高校生にする話じゃなかったわね」

「あ、いえ、その……はぃ」


 やっぱり香織さんも大人の女性だし、セックスとかするのか。想像したら、なんだかすごく複雑だ。


 ん……でも待てよ。


 ってことは、やっぱり恭子さんもあの男とセックスしてるってことだよな。

 いや、そりゃ夫婦なんだからしてて当然か。結婚していて処女なんてあり得ないわけだし。


「あたしはね、恭子に離婚を勧めてるんだ」

「えっ!? どうしてですか?」

「だって、結婚して一年も経たずに浮気するような男だよ? あれは治らないって。子供ができてからじゃ遅いし、するなら今だと思うのよね」


 心臓がドキドキと鼓動した。

 闇の中を彷徨い歩いていた僕の前に、突如として燦然と輝く希望の光が差し込んできた。離婚という言葉が、僕を照らしていた。


 僕は……恭子さんが離婚することを望んでいるのか?

 それは、本当に正しいことなのだろうか。


「和也さんの不倫が発覚して以来、恭子、ずっと元気なかったのよ。でも、最近は少しずつ元気になっていたの。どうしてだと思う?」

「どうしてなんですか?」

「かわいい男の子と知り合ったって、嬉しそうに話してたよ。その子とLINEをしていると、嫌なこと全部忘れられるんだって」

「!」


 思わずにやけてしまうほど、それを聞いてとても嬉しかった。恭子さんがそんな風に思ってくれているとは思わなかったから。


「恋愛なんてね、所詮タイミングがすべてなの。恋愛経験ゼロの涼太くんにはわからないかもしれないけど、君が恭子の前に現れたタイミングは本当に完璧だったと思う。それに涼太くん、君、恭子にかわいいとか言いまくってるでしょ?」

「え、ええっ!? いや、あの……その……」


 僕の顔はキラウエア火山のように、真っ赤に噴火していた。


「結婚して男っ気ゼロ、長いこと容姿について褒められなかった退屈な主婦に、あれはお見事だわ。あたしあのLINE見せられたとき、てっきりすっごい遊び人の高校生だと思ったもん。いやー、女の扱い慣れすぎだろって。こりゃ普段から年上のお姉さんを手玉に取って、かなり遊んでるなーって」

「そんなわけないじゃないですかっ!」

「うん、知ってる。店で涼太くん見た瞬間に、あ、これは童貞だってすぐにわかったし」

「は、はぁ……」


 面と向かって「これは童貞」と言われるのは、僕も年頃の男子高校生なので、意外と傷ついたりもするんだけど……。

 正直、泣きそうだった。


「でも、同時にすごく納得した」

「納得、ですか?」

「うん、だから恭子は安心してるんだろうなーって」

「どういう意味ですか?」

「だって涼太くん、和也さんとは正反対の人間じゃん」

「正反対……? 僕が童貞だからですか?」

「うん、だって涼太くん女の子に慣れていないでしょ?」


 僕は女の子に慣れていないというわけではない、単に年上の女性に慣れていないだけだ。実際、クラスの女子とは普通に話をしたりもする。その時は、恭子さんと話をする時のようにテンパったりはしない。そもそも恋愛対象ではないので、緊張しないだけなのかもしれない。


「恭子って昔から、そういう男に弱いのよ。和也さんも見た目があんなんでしょ? だから初めは騙されたみたいよ。ま、実際は女子大生食べまくりのイケイケアラサーだったんだけどね」


 た、食べまくり……。

 あんなに優しそうな顔して、恭子さんの旦那さんはヤリチンなのか。大人ってすごいな。

 というか、ヤリチンの旦那って……普通にキモいな。


「とまあ、そんなわけだからさ、個人的には和也さんに気を遣うことはないと思うよ。もちろん、恭子に猛アタックして不倫しろって言う意味じゃないからね」


 そう言って、香織さんはポケットから煙草を取り出した。


「……吸ってもいい?」

「どうぞ」


 本当は煙草の臭いはあまり好きではない。けれど、今はその香りを全身に浴びたいと思った。煙草の煙が胸の中のモヤモヤを、覆い隠してくれるような気がした。


 寒空に漂う紫煙が、次第に消えていく。


「ゴホゴホッ」

「あ、ごめんね」

「いえ、大丈夫です」


 やはり煙草の臭いは好きになれなかった。


「プレゼント、今日は渡せなかったけどさ、いつか渡せるといいね」

「……はい」


 僕が恭子さんにティファンニーのブレスレットを渡せる日なんて、果たしてくるのだろうか。



 あの頃の僕は、そんな風に考えていた。

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