第12話

「寒いな……」


 雪は既に降りやんでおり、あれほど美しかった白い雪道も、車や人々の通行で汚れ、今では僕の心のように色あせてしまったようだ。


「あ……」


 急いで出てきてしまったため、恭子さんから貰った素敵なマフラーを忘れてきてしまった。


「一生大事にするって、恭子さんに約束したばかりだったのに…」


 でも、これで良かったのかもしれない。

 マフラーが手元にあると、冬の間は恭子さんのことが忘れられなくなってしまう。恭子さんを忘れるためにも、あのマフラーは僕が持っているべきではなかったのかもしれない。


「一之瀬に使ってもらおう」


 それが一番いい選択だと思う。

 初恋は叶わないものだと聞いたことがある。その理由は、臆病になって言い出せずに終わってしまうことや、現実的ではない相手に恋をすることが多いからだと言われている。

 まさに僕のことだ。


 初恋を忘れるためには、新しい恋をするのが最善の方法のようだが……。


「次の恋なんて……僕にできるのかな?」


 恭子さんに出会うまで、僕は無性愛者かもしれないと思っていた。

 そんな僕が初めて、恋をすることができた。初めて恋を経験できたあの瞬間の感動を、再び味わえる日が来るだろうか……。


「どうして既婚者なんて好きになっちゃったんだろ……」


 もし好きになった相手が同い年の女の子だったら、違った道を歩んでいたのかもしれない。こんなに苦しむことはなかっただろうか。


「恭子さん……」

「――――涼太くん!」

「えっ!?」


 名前を呼ばれ、振り向くと、手を振りながらこちらに駆けてくる女性の姿があった。

 それは香織さんだった。


「!」


 僕は急いで目元をこすった。目が充血していないか心配だったけど、こればかりはどうすることもできない。


「香織さん、どうかしたんですか?」

「はい、これ」

「え……」

「君のマフラー。恭子から貰ったプレゼント、忘れて帰っちゃダメでしょ。優しい香織お姉さんに感謝しなさい」

「あ……はい。ありがとうございます」


 手放すと決めたはずのマフラーが、わずか数分で手元に戻ってきてしまった。


「ん……? 全然嬉しそうじゃないじゃん。せっかく走って持ってきてあげたんだから、もっと嬉しそうな顔してよ」

「あっ、いや、はいっ! もうめちゃくちゃ嬉しいです! 本当に寒かったんで」


 ネイビーカラーのマフラーはとても暖かく、なぜか恭子さんの顔を思い出していた。同時に、胸が締め付けられるような感じがした。まるで見えない棘が胸に突き刺さったかのようだった。


「わざわざありがとうございました。……じゃあ、僕はこれで――」


 お礼を言って身を翻そうとした瞬間、


「――プレゼント、渡さなくて良かったの?」


 香織さんの声が背中越しに響いた。僕は立ち止まり、そして再び香織さんへと向き直った。


「はい」


 傷ついていると思われたくなかった僕は、無意識のうちに笑顔で答えていた。


「……」


 しかし、笑顔の僕とは対照的に、香織さんはとても辛そうな表情をしていた。まるで僕と香織さんの表情が入れ替わったかのようだった。


「ねぇ、少し時間ある?」

「え……」

「酔い醒ましに、ちょっとお姉さんに付き合いなさい」


 酔っ払っているのは彼女一人で、僕は酔っていなかったのだが、そんな言葉を言う間もなく、半ば強制的に近くの公園まで連れてこられ、強引にベンチに座らされていた。


「はい、コーヒーで良かった?」

「あっ、はい」


 ブラックコーヒーは苦くて飲めないのだが……まあいいか。


 プシュ――とプルタブを引っ張り缶を開け、お酒を飲むかのようにゴクゴクと豪快にコーヒーを飲む香織さん。その飲みっぷりは、コーヒーを味わうものではないと思った。


「ぷはぁっ! 染みるわ〜」

「……」


 彼女が飲んでいるものは本当にコーヒーなのだろうか。実はブラックコーヒーのようなパッケージデザインをしたお酒という落ちではないだろうな。


「……うぅ」


 苦い。

 どうやらただのブラックコーヒーのようだ。


「あれ? ひょっとしてブラック苦手だった? でも、恭子にはブラック好きって言ってなかったっけ?」

「な、なんで知ってるんですかっ!?」


 確かに以前、恭子さんとコーヒーについての話をしたことがある。彼女がよく行くカフェのコーヒーがおいしいという話の流れから、涼太くんもコーヒー好きなのと聞かれた僕は、とっさにブラックコーヒーが大好きだと言ってしまった。普段はミルクと砂糖をたっぷり入れないと飲めないのだが、つい見栄を張ってしまった。ブラックコーヒーも飲めないようなお子様だと思われたくなかったのだ。


「なんでって、恭子から聞いたから?」


 聞いた……? 恭子さんは普段から、僕の話を香織さんにしているのだろうか。何のために? もちろん、ただの会話のネタだろう。


「あー、そっか。涼太くん、恭子に嘘ついたんだ」

「えっ!? いや、嘘なんてついてません!」

「ホントかな〜。涼太くんブラックコーヒー飲めないお子様舌じゃん。それなのに恭子には飲めるって言ったんだよね? しかも大好きだって」

「いや、それは……その」

「子供っぽいって思われたくなかったんでしょ? かっこつけたかったんでしょ? ま、高校生なんてそんなもんだよね。好きでもないのにブラックコーヒー飲んでる俺カッケェーって思ってるんだよね。あたしの高校時代にもいたよ、そういう男子。でもひとつアドバイスをあげるとしたら、ブラックコーヒーだろうが、砂糖たっぷりの甘いコーヒーだろうが、そんなもんでその人の評価は変わらないよ。だから、好きなものを好きって言えるようになりな。嫌いなものは嫌いって言える人の方が、よっぽど大人でかっこいいと、香織お姉さんは思うけどね」

「……はい」


 その言葉はまさに的を射ていた。

 自分自身が言葉に詰まり、納得せざるを得ない状況だった。


「さっき、プレゼントも渡さずどうして逃げたの?」

「それは……」

「和也さんが来たから? それとも、和也さんが高価なブレスレットをあげていたから?」

「……」


 僕はなにも答えなかった。

 答えられなかった。


「自分のプレゼントより、相手のプレゼントの方が高価そうな物だったから、あげても意味ないと思った? もしもそう思ったのなら、それは大間違いだからね」

「間違い……?」

「プレゼントは気持ちなのよ。嫁さんほったらかして学生と朝まで騒いで、嫁さんが怒って実家に帰った途端、慌てて質屋でブレスレット買ってクリスマスプレゼントだって渡されても……正直嬉しくないでしょ? 恭子も苦笑いだったじゃん。かわいそうすぎ。さすがにあれはないわってあたしも思ったし」

「ちょっと待って! 質屋ってなに?」

「あれ、気づかなかった? あれ中古だよ」


 え……中古?


「なんで、どうして中古だってわかるんですか?」

「だって、裸だったじゃん?」

「裸……?」

「涼太くんが恭子にあげようとしていたプレゼントは、ちゃんとティファンニーの紙袋に入っているよね?」

「ええ、まあ……買った時のままですから」


 埃がつかないように、細心の注意を払って保管していた。


「包装だってしっかりしてあるでしょ? (あたしがしたからね)。だけど、和也さんが恭子にあげたプレゼントは、紙袋に入っていなかったよね? ま、メルカリで紙袋買って、そこに入れるこすい手を使う奴もいるっちゃいるけど……」

「でも、紙袋が邪魔だから捨てたってことも考えられますよね?」

「ない! 120%ない! 断言してもいい」

「どうしてですか?」

「いい? 庶民にとってブランド物の紙袋ってのはね、それだけで価値があるの。それがジャネルやルビーヴィトンの紙袋だったらなおさら価値があるの。街でルビーヴィトンやジャネルの紙袋を持って歩くだけで、あっ! あの人ルビーヴィトンで買い物してきたんだ。隣の彼氏に買ってもらったのかな? いいなー、あたしも欲しい! ってなるでしょ!」

「な、なるのかな?」

「なるのよ! ブランド物の紙袋を持って歩くだけで、いつもより二割増しで世界が輝いて見えるの! 知らない人々から羨望の眼差しで見られているような気になれるの! 少なくともあたしはなるもん!」


 ああ、香織さんの話か……。


「何その顔? 言っとくけど、世の女の7割はあたしと同じだから」

「そんなにっ!?」

「日本人はハイブランドが好きなのよ! 少し下品な話になるけど、ハイブランドをプレゼントされただけで、少しいいなーってなるくらい、ハイブランドには魅了の魔法が施されているのよ」


 知らなかった。

 でも、言われてみればウチの母も、父からブランド物のバッグを貰った日は、信じられないくらい機嫌が良かったことを思いだす。


「せっかくバイトまでして買ったんでしょ? 渡さずじまいでいいの?」

「でも……」

「相手が年上なうえに、人妻だから気が引けるってのはわかる」

「いや、僕はそんなんじゃありません!」

「涼太くん、今更それは無理がありすぎるんじゃない?」

「……っ」

「あたしはバカじゃないのよ? こう見えても、大学時代は恋愛マスターって言われていたんだから」


 うわぁ……めちゃくちゃ嘘臭い。


「あんた意外と顔に出るわね」

「え!? な、なにか顔に出ていましたか?」

「………まぁ、いいわ。で、どうするの?」


 どうするのって、そんな風に言われても……どうすればいいのかなんてわからない。


「やっぱり、相手は旦那さんもいる人なので……」

「――でも好きは止められないじゃん!」

「えっ」


 突然の大声に驚いてしまう。

 真剣な表情で僕を見つめる香織さんは怒っているのか、その目は非常に厳しかった。


「好きになった人にたまたま奥さんがいただけじゃん。好きでいるくらいはいいでしょ! 絶対に迷惑かけないって約束できるし!」


 なんだ、この香織さんの熱量は…。

 僕の片想いを、まるで自分のことのように熱く語っている。

 ん……奥さん……?


「あの、香織さんって、ひょっとして不倫してます?」

「!?」


 目を見開き後ろにのけ反る香織さんは、ひょっとしたら僕以上にわかりやすい人なのかも知れない。

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