第2話

「さっきはごめんね。真司の友達にみっともないとこ見せちゃったな」

「い、いえっ! そんなことありません!」


 一之瀬のお姉さんの前で、一之瀬から借りたタオルで髪を拭く僕は、まるで心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。彼女の顔をちゃんと見ることができなかった。


「えーと、何君だっけ?」

「さっ、榊原涼太ですっ! いっ、一之瀬君とは高校からの友達で、いつも何かと助けてもらっています!」


 この時の僕は緊張し過ぎるあまり、まるで上官に尋問される軍人のようになっていた。思い出しただけで恥ずかしい。まさに黒歴史というやつだ。


「そうなの?」

「いや、むしろノートを見せてもらってんのは俺の方なんだけど……。つーか、涼太顔真っ赤だぞ? 大丈夫か?」

「ひょっとして、冷えて風邪引いちゃった?」

「――――!?」


 恭子さんは自然に、僕のおでこに手を伸ばしてきた。少し冷たさを感じながら、その瞬間、体温が一層上昇した。


「んー、少し熱いかな?」

「いえ、あの、これは、その……き、緊張してるから……」

「………緊張?」

「ぷっ」


 頭の上に疑問符を浮かべる恭子さんとは対照的に、一之瀬は笑いがこみ上げていた。そして、彼は腹を抱えて大笑いした。


「涼太、お前まさかウチの姉ちゃんにドギマギしてるのか?  マジで笑えるぜ。相手は6歳も年上の年増だぞ」

「年増って……お姉さんまだ二十代だよね? 年増とは言わないんじゃないかな? というか、お姉さんに失礼だよ!」

「は? マジで言ってんの? まさかお前が年上フェチだったとは思わなかったわ」

「そ、そんなんじゃないけど、一之瀬のお姉さんは、その……すごく美人だから」

「!?」


 やばっ。

 僕は本人の前で何を言ってるんだろ。


「姉ちゃんも、何赤くなってんだよ!」

「赤くなんか、ないから!」


 桜色に頬を染め、少し慌てた仕草を見せるお姉さんも、素敵だった。


「というか、何で姉ちゃんが家に居るんだよ」

「まあ、ちょっとね」

「ちょっとって何だよ? まさか和也さんとまた喧嘩したんじゃないだろうな!」

「真司には関係ないことでしょ!」


 この頃から、恭子さんは度々旦那さんと喧嘩をし、そのたびに一時的に実家に戻ることが続いていた。喧嘩の原因は旦那さんの浮気と、夫婦にとって極めて深刻な問題、子供ができないということだった。


「あ、あの、お名前を教えてもらえますか?」

「お前な、それじゃあまるで婚活パーティーか合コンじゃねぇかよ」

「わ、わかってるんだけど、名前知らないと、よ、呼びにくいじゃない?」

「一之瀬の姉ちゃんでいいだろ」


 弟の一之瀬にそう言われてしまえば、僕には言い返す言葉がない。今にして思えば、この頃から一之瀬は僕のことを警戒していたのかもしれない。姉の不倫相手になり得る可能性がある人物として。


「恭子だよ、涼太くん。よろしくね」

「は、はいっ! よろしくお願いします!」

「あっ、そうだ! 涼太くんLINEやってる? 交換しよっか?」

「姉ちゃん! 涼太は俺の友達なんだぞ!」

「だからLINEを聞いて、真司のことを監視するのよ。涼太くんは真司と違って頭良さそうだし」

「あのなぁー」

「お母さん心配してたよ。このままじゃ真司は大学に進学できないんじゃないかって」

「大きなお世話だ。つーか、涼太も何スマホ出してんだよ! QRコードを表示すなっ!」


 僕が恭子さんとLINEを交換することを、真司は心底嫌そうにしていたが、僕としては有り難い申し出だった。とはいえ、この時の僕は、恭子さんと何か進展させたいとか、そんないかがわしいことは一切考えていなかった。相手は既婚者、人妻なのだ。

 高校生がどうこうできる相手ではないし、してはいけない。


 ピロリロリン♪


 恭子さんからLINEが届いた。

 アザラシのキャラクターが『よろしく』とハートを投げているスタンプが送られていた。


「これ、私のLINEだよ」

「はい!」


 僕もすぐに、どすこいよろしくスタンプを送信した。


「涼太くんのスタンプ変なのー」


 クスクスと笑う恭子さんの笑顔を見るだけで、僕の心臓はドキドキと高鳴った。


「人妻が高校生とLINEすんのかよ。和也さんにバレても知らねぇからな」

「弟の友達とLINEするくらい問題ないわよ。真司は私が涼太くんに学校の事とか、成績の事を聞かれるのが嫌なだけでしょ」

「わかってんなら、さっさとLINE削除してくれよ」

「ダメ。お母さんからも言われてるのよ。私からも言ってやってくれって。大学に行く行かないで、その後の人生は大きく変わるんだから、しっかり監視させてもらいます。涼太くん、よろしくね」

「任せてください! 恭子さんのためにも、僕は幕府の犬になる覚悟です!」

「この裏切り者!」



 この日から、僕と恭子さんのやり取りが始まった。

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