第2話
思っていた通り、
けれどそれは婿入りをしてくれるというものではなく、玉蘭を嫁に迎えたいという申し出のみだった。
だから玉蘭は両親がそれらを断ると思っていた。
だが、ことはそう簡単でもなかった。
「……やはり、嫁に出すしかないか……」
「そうさねぇ……貰い手のあるうちに嫁に行った方が
「こんな生活はわしらの代で終わりじゃな」
「それがええと思いますよ……」
普段玉蘭が寝ているだろう時間に交わされた両親の会話を、たまたま眠れないでいた彼女は聞いてしまったのだった。
両親が自分のことを考えてくれていることはわかっている。
本当は、
(あたしが黒翠様の”つがい”だったらいいのに……)
もし”つがい”なら、黒翠との未来を描くことができるのに。
玉蘭は布団を頭から被り、声を殺して泣いた。
翌年の春もそろそろ羊の毛刈りをしようという頃に黒翠が訪れた。
玉蘭は母から作業の手を止めてもいいと許可をもらい、急いでお茶を淹れる為に出て行った。果たして黒翠は父と話をしながら待っていてくれた。
「玉蘭」
耳に心地よいバリトンが彼女の名を呼ぶ。それだけで玉蘭は胸が熱くなった。
けれどその姿を見るのは今年で終わる。冬になる前に玉蘭は成人を迎え、どこかの家へ嫁ぐことになるだろう。そうなれば黒翠に二度と会うことはない。
(初恋はかなわないなんて聞いたけど……)
玉蘭は眩しそうに黒翠を眺めた。
「遅くなってすみません。黒翠様、どうぞお召し上がりください」
お茶を受け取った時、黒翠の口元が綻ぶのを見るのが好きだった。
「息災であったか」
「はい……」
お茶を飲みながら玉蘭の話を聞こうとしてくれる姿がとても好きだった。
来年にはもう会えない。そう思ったら胸がつまり、玉蘭は何も話せなくなってしまった。
(なにか……なにか話さないと……)
お茶を飲み終わったら黒翠は行ってしまう。少しでも長く一緒にいたいのに、焦る心とは裏腹に言葉が出てこない。
「……玉蘭、
けれど気遣うように名を呼んでくれるから、どうにかして声を発した。
「あ、あのっ……あたし、多分来年はもうここにはいないと思うんですっ」
想いが溢れてしまう。鼻がツンとして、目頭が熱くなる。目が潤みそうになるのを玉蘭はぐっとこらえた。
「玉蘭、それはいったい……」
「あたし、冬になる前に成人するんです……。本当は、あたし婿を取らないといけないんですけど……なかなか婿入りしてくれる人なんていないから、きっとどこかへお嫁に行くんだと思うんですっ」
黒翠は戸惑っているようだったが、玉蘭は早口でできるだけ口を挟ませないように言い切った。
「……そうか」
少しして、黒翠は呟くように声を漏らす。そして、
「しばし待っていてくれるか。またのちほど参る」
と言い残し、交換した品物を抱えて飛ぶように東北方面へ走っていった。
「あんれ? 黒翠様はもう帰られたのかい?」
母に聞かれ、玉蘭はぎこちなく頷いた。
「ええ、でも……のちほど来られるって……」
「また今度ってことではないのかねぇ? 一応酒の用意でもしておくかね」
「そうね……」
ぼんやりと返してから、そういえばまだ黒翠が未成年だと両親に言っていなかったことに玉蘭は気付いた。
太陽が西の空に沈む前に黒翠は戻ってきた。
あっけにとられている玉蘭の両親に、「しばし玉蘭をお借りしたい」と丁寧に頼む。両親は目を白黒させながらもかくかくと頷いた。
「玉蘭、こちらへ……」
玉蘭もまた戸惑っていた。手を引かれるままに低い丘を一つ越え、水辺に出た。
草原とはいっても真っ平らではない。平らな部分と低い丘がいくつもつらなった土地に、草が一面に生えている。丘と丘の間にはこの時期水がたまり大きな池となることもある。その期間限定の池のほとりに黒翠と玉蘭は腰を下ろした。
西の空が赤々と燃え、間もなく太陽が沈もうとしていた。
黄昏時の空はいつ見ても美しいと玉蘭は思う。東の空はすでに夜が支配しはじめ、星が輝いているのが見えた。
本来ならば肌寒く感じられる時間なのだが、つながれたままの手が熱を発しているのか珍しく玉蘭は寒さを感じなかった。
空と草原と池を眺めながら、玉蘭はこのまま時が止まってしまえばいいとさえ思った。
「……嫁に行くのか」
黒翠が低い声で紡ぐ。
あまりにもその沈黙が心地よかったから、玉蘭は一瞬何を聞かれたのかわからなかった。
「え……。あ、ええ……多分どこかに嫁ぐんだと思います……」
(できればそれは、黒翠様のところがいいけれど)
心の中で願望を呟く。もちろん、それは決してかなわないと知っていて。
「そうか……」
2人の間にまた沈黙が落ちた。
そんなことを聞いて黒翠はどうしたいのだろう。ぼんやりと玉蘭は思う。
聞いてみたい。でも聞きたくない。ただ今はずっと手を離さないでいてほしい。
それだけでいい。
それだけでいいから。
なのに。
「……玉蘭、我はどうしてかそなたを……好ましく思っているようだ」
「……え……?」
思いもかけなかった言葉に、玉蘭は弾かれたように顔を上げた。
しかしその後に続いた科白に、玉蘭は泣きたくなった。
「だが……我にはまだそなたが”つがい”かどうかはわからぬ。しかし、そなたが他の人間と違うことは確かだ」
「そ、う……」
どうしてそんな、期待させるようなことを黒翠は言うのだろう。
来年にはもう、玉蘭はここにいないのに。
帽子から垂れ下がる飾りが、少しでもこの情けない表情を隠してくれればいいと玉蘭は思った。
苦しくて切なくていられなかった。だから玉蘭は両親に告げた。
「……あたし、お嫁に行くわ」
「本当にいいのかい? お前、本当は……」
母親が戸惑いながら言及しようとするのを、玉蘭は首を振ることで遮った。
「いいの、あたしは大丈夫。大丈夫だから……」
「そうか……」
「じゃあ、本当にいいんだね?」
念を押すように言われ、深く頷いた。
黒翠の黒に近い深緑色の瞳が脳裏に浮かんだ。
手をつないでもらえた。好ましいと言ってもらえた。
それだけでもう、玉蘭は十分だと思えた。
(だから……大丈夫……)
この切なさもいずれ思い出になる。
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